秋の章 「ホネキチ」
すっかり、やられた…。
持っていかれた、野島さんに…。
吉岡先生渾身の「こんにちは、赤ちゃん」で爆笑を誘った後に、最近巷でヒットしているユーリと一緒に観たあの映画で使われた曲をまぁ〜見事に歌い切って観衆を沸かせた。
残っているのは俺1人。
つまりこの雰囲気の中で歌わなければならない。
「歌い…づれぇんだよ野島ぁぁぁ!」
久々にこの人の名で吠えた。
「バーカ、逆に野島さんに感謝しろよ。ダレてた雰囲気が一変したんだからよ」
ゆきりんがそう言うのなら、そうなのか?
「おい秋、忘れんなよ?1つ上げだからな」
準決勝で歌う曲は、タダでさえキーの高い女性ボーカルの歌だ。
それをタケルの見立てでは俺なら1つ上げがちょうどいいらしい。
俺、どんだけ声高いんだよ。
『さあ、盛り上がって参りました。準決勝最後は2年1組、今回は1回戦で登場した七尾くんが1人で歌います』
そばにいた生徒達が一斉に俺の方を見て手を叩き盛り上げる。
「さぁ行っておいで」
「頑張ってね」
「花さんにいいところ見せるんだよ笑」
「楽しみにしてるきん」
彩綾、高橋真夏、乃蒼、そして永澄から激励を受ける。
「よし、じゃあ、行ってくる」
桜さん、阿子さん、桜さんに捨てられた羽生さんからも声援を受け俺はステージに向かった。
途中で野島さんとすれ違う。
「コケんなよ?お前と茂木とで決勝やるんだからな」
「コケませんよ。俺はどうしても決勝行かなきゃならないので、こんなところで負けられません」
昨日あんだけデカく出たんだ。
ユーリに「ごめん負けちゃった」なんて言えるかよ!
絶対に勝つ!
「ども。2年1組七尾です」
放送席で槇原愛理に声をかける。
「私は個人的に七尾くん推しだから頑張ってね」
「ありがとうございます。廣瀬レオナの『sky』をお願いします」
「やった〜!あの曲好きなんだよね。七尾くんの声で聴けるなんて嬉しいわ〜」
「あの、1つ上げで」
「えぇっ!廣瀬レオナをキー上げるの?」
「はい、まぁ」
「歌えるの?」
「わかりません笑。歌ったことないんで」
もし歌えなくて負けたら、彩綾に蹴ってもらおう。
ステージに上がると1回戦の時よりも緊張して身体中が震えた。
あの時は乃蒼がいたからここまでじゃなかったけど、1人だと物凄く心細い。
やばいっ!足が、中橋ってる(ガクガク震える、の意)。
静かにイントロが始まる。
あ、ちょっと待って。まだ心の準備が、、、。
その時、
「七尾〜!」
とゆきりんの叫ぶ声がした。
ゆきりんは腕にホネキチを抱いていた。
そのホネキチを近くにいた観衆に乗せ、ホネキチはゆっくりと観衆の波に乗りこちらに向かってくる。
何故だかスッと震えがどこかへ行ってしまった。
♪この目が光を失った時、あなたの姿をどうやって見つけたらいい?
♪この耳が音を遮られたなら、あなたの声をどうやって拾えばいいの?
出だしは比較的低め。
けれどむしろ歌いにくい。
声を張りたいのを抑え、なるべく感情を込めるように。
俺は別に茂木のように歌が上手いわけじゃない。
ビブラートだって狙ったところにかけれない。
フォールは出来ない。
しゃくり?ズレた音を戻す時に時折なっちゃう程度。
こぶし?ムリッ!
でも確信している。
俺は多分決勝にまで勝ち進むことが出来る。
過信してるわけじゃなく、予感があった。
俺は決勝でユーリのためにあの歌を歌う。
だからこの歌は、花さんのために歌おう。
黄色の蜘蛛ちゃんに乗っている時、この曲がかかると決まって花さんは口ずさむ。
好きなのかどうかは聞いたことがないからわからない。
けど俺にとって花さんから連想する歌はこの曲の他にない。
♪あなたと出会い、触れ合う日々も空はただ青くそこにあるだけで
♪あなたを想い、眠れぬ夜もまた空はただ暗く
私を包むだけ
た〜か〜い〜!!!!!
アホみたいに高い!
これサビ歌えるの?
あの無茶苦茶高くなるとこ出るの?
不安しかない!
おいホネキチ!早く来い!
不安でたまらんっ!
♪私だけが感じる悲しみを
♪あなたが望む、痛みや苦しみを
♪わからぬままで2人は離れたとして
♪私はどこに行けるというのだろう?
ホネキチが、肌色の手の波からステージに辿り着く。
おかえりホネキチ。
タイミングはバッチリ。
お前がいれば何とかなる。
さあ、サビだ。
歌えんのかな?笑
♪あの頃2人で聞いてたあのラブソングはまだ今も聴いていますか?
♪もしもそうなら、あなたの中にまだ私がいると思っていてもいいですか?
♪この部屋から見る私の空は小さく四角に切り取られ
♪あなたの姿も見えないけれど
♪あなたを想うこの歌は
♪今はもう届かない、雨に濡れた恋の歌
おっしゃぁぁぁぁぁぁ!乗り切ったぁ!
ホネキチ〜、歌えたよ!
お前、決勝も俺と一緒にここに立とうか?
俺1人じゃどうにも緊張してダメみたいだ。
何ならお前、ウチ来るか?
花さん不気味がるかもしれないけど、慣れたら可愛いって言ってくれると思うんだ。
花さん、ホネキチ飼ってもいい?
ごはん食べないから。
散歩もしなくていいから。
暗闇で光ったりもしないし、夜中にカタカタ笑わないから。
ねぇ〜いいでしょ〜花さぁん。
ただ1つ問題なのは学校の備品なんだよなぁ…。