彩綾の章 「タケル」
そんな時だった。
ある金曜日の夜、私はお母さんとコンビニでアイスを買いに出かけた。すると近くから男の子が泣き叫ぶ声が私たちの耳に聞こえてきた。
「入れて!お父さん!ごめんなさい!」
その声の主はあろうことか佐伯健流だった。私達に気付くこともなく玄関の扉を拳で叩き泣きながら叫ぶ佐伯健流の姿を見てしまった。
「あら、どうしたんだろうねあの子」
お母さんの声で佐伯健流は私達に気付いてしまった。こっちを向き、私に気づき、そしてとても気まずそうな顔をした。でもその顔はすぐに下を向いたことで私には見えなくなってしまった。私はお母さんを置いて走り出した。もしも私ならあんな姿を見られたら恥ずかしくて死んでしまいたくなる。
邪魔だけど私の友達だ。死んでは欲しくない。私は見てない。なにも見てない。だから気付かないで。神様、どうかタケルが私に気付いていませんように。
私は祈りながら夜の道を走った。
神様はいないと気付いたのは、翌日タケルが私の家に来た時だ。ああ、神様。私あんなに走ったのに。あの後お母さんに怒られたのに…。
私とタケルは秋の家から近い公園のブランコに2人で並んで座った。
「カッコ悪いところ見られちゃったな」
照れ臭いのか、それとも違う感情なのか、タケルは笑いながらそう切り出した。いつもひょうきん者でクラスのみんなを笑わせ、けれどテストではいつも90点台のタケルの泣き叫ぶ姿は寝る前になっても頭から離れなかった。
「私、見てないよ。見てないから」
タケルは昨日私のことに気付いてた。
「いいよ。見られちゃったのは仕方ない」
「見てないから。タケルのことなんて昨日見てない」
それでも私は嘘を突き通す。
「じゃあさ、俺の話ちょっと聞いてよ」
タケルは小4の割に落ち着いた雰囲気で話し始めた。
検事をしている父親がとても厳しいこと。2人の兄がいてどちらもあの超難関といわれる千石高校で、将来医者と弁護士を目指している事。1人は来年東大を受ける事。そのためタケルにも地位の高い仕事を目指すように常々いわれている事。勉強時間は毎日4時間。金曜日はマンツーマンの進学塾に通っている事。最近塾での成績が悪くてクラスが1つ落ちてしまった事。その理由が秋の家に遊びに行っているからだと父親に厳しく怒られた事。初めて父親に反論したら顔が熱くなるほどビンタされた事。「バカな子はウチの子じゃない。出て行け」と言われ、昨日家から追い出され鍵をかけられた事。それを笑いながらタケルは話した。私には笑える要素は1つもなかった。
「俺が勉強サボってだから成績が下がったんだ。秋のせいじゃない。なのにお父さんはそれをわかってくれないんだ。だから俺、もっと頭良くなってお父さんを見返してやるんだ。成績さえ良ければお父さんは何も言わないから」
けどそれは成績だけを見ててタケル自身を見てないってことじゃないのかな?とは言えなかった。
「なんで俺の親は花さんじゃないのかなぁ」
それはとても悲痛な叫びのような気がした。
秋の家は母子家庭だ。秋に父親はいない。それどころか父親が誰なのかもわからない。秋が生まれた時から父親はいなかったそうだ。花さんは結婚する事なく秋を産んで女手一つで育てている。それは私のような普通の家庭からみたら大変なように思えた。けど秋はいつも笑っている。そりゃそうだ、家には花さんがいるもの。秋は父親と母親がいる私やタケルから見ても羨ましいと思う環境で育っている。だからいつも笑っている。私やタケルに優しく、自分の気持ちを照れもなく言葉にできる。私はお父さんやお母さんが好きだけど、たくさんの人がいる前で「大好き」なんてとてもじゃないが言うことはできない。それを秋は当たり前のように言える。私はそれをとても凄いことだと思っている。
私はブランコを降りた。そしてタケルの前に立ち、キョトンとしているタケルの両手を握った。みるみるタケルの目が大きくなる。そりゃそうよ。私が手を握ってあげたんだからそういう反応は当然よね?
「私はタケルの良いところいっぱい知ってるよ」
たとえタケルのお父さんがタケルの良いところを知らなくても、私は知っている。頭がいいだけじゃない。秋の作った苦いクッキーを食べたり、秋がマザコンとバカにされているのを怒ったり、私が落ち込んでいるときに笑わせてくれたり、こうやって自分の弱いところを見せてくれる強さだったり、他にもたくさん。私、いっぱい知ってるもん!
「なんで彩綾が泣くんだよ」
私は気持ちが溢れてきてなぜだか泣いてしまっていたようだ。そんな私をタケルは繋いでいた手を離し、優しく頭を撫でてくれた。
きゅん
あれ?何この音?まさか、あの時の音?
待って!違う違う!私は秋が好きなの!
そりゃちょっと諦めてるけど…。
けど友達2人のこと好きになるなんて、なんか軽くない?
恋する範囲狭くない?
ダメだからね彩綾。しっかりして!
秋はともかくタケルは絶対ダメだからね!
あの「きゅん」は聞き間違いということで自分を納得させた。