秋の章 「文芸同好会」
入学案内には文芸部の活動は図書室と書かれていた。一応彩綾のところに顔を出すとすでに教室に姿はなかった。どこに行ったかはわからないが、まぁ大丈夫だろう。タケルのようにどっかの部活を見学しに行ったのかもしれない。子どもじゃないので1人でだって帰れるだろう。俺は迷った末に図書室に行ってみることにした。入部するかどうかはわからない。どんな活動をしているのかを知ることができればそれでいい。そんな軽い気持ちで図書室に向かった。
図書室は化学室や被服教室などがある俺らのいる一般教室棟から渡り廊下を渡った特別教室棟の奥に位置している。音楽室も近いのでなんの楽器かはわからないがラッパの音が聞こえていた。「図書室」と書かれたプレートの前で一呼吸置きカラカラとドアを横開きで開ける。中には誰もいなかった。
静寂と本の匂い。小学校の時と比べて規模が大きく数も多そうだ。基本的に古本は嫌いだが、こうやってタイトルだけ見て内容を妄想するだけでも楽しい。例えばこの「蟻から見るヒトの世界」。きっと役割の決まっている蟻にとって多岐にわたるジェンダーが溢れた人間の世界は魑魅魍魎の域に近いのかもしれない。ただ昆虫には脳がない。なのでタイトルのように蟻から見たヒトの世界は悲しいかなヒトが蟻の視点を妄想して書いたものに過ぎない。結局蟻はアリの域を超えられない。俺と一緒だ。今の俺は何も出来ない。花さんがいなけりゃ生きていけないのは昔と何も変わっていない。だから俺は域値を広げなければならない。これからも花さんに依存して生きて行くのは嫌だ。きちんと自分の荷物は自分で背負って生きていきたかった。
なんてね。
中学に入学したことでちょっと大人びたセンチメンタルな感傷に浸ってしまったのを少し恥ながら、そろそろ帰ろうとしたその時だった。
カラカラカラ…
ガラの悪い男女2組が図書室に入って来た。
「あ?」とリーゼントの男子先輩。
「何で人がいるの?」と茶髪の女子先輩。
「文芸部の入部希望とか?」とショートの女子先輩が言うと4人はケラケラと嘲笑って上から下まで舐め回すように俺を見た。
「お前、なに?」とロン毛の男子先輩が威圧的な口調で俺に尋ねた。襟についている学年章を見て「ああ、本当に1年か」と言うと
「お前同好会なんかに入るつもりか?」
と顔を近づけながら俺に近づく。俺はちょっと怖かった。こんな絡まれるような経験は初めてなのでどんな風に対応するのがこの窮地から回避できるかわからなかった。
「えっと、ハイ。どんな活動してるのか知りたくて…」
とりあえず自分の目的を明確に相手に伝えた。
「活動なんてしてねぇよ笑」
4人がまたケラケラと笑う。正直不快でたまらなかった。所謂この人達は不良と呼ばれる今では滅多に見かけない類の人なのだろう。そんな人が文芸同好会だとは思わない。なるほど、この4人がココを溜まり場にしたせいで文芸部の人数は激減し同好会になってしまったのだな。そして残されたわずかな部員も彼らが怖くて図書室に来れない、とそういうことなのだと俺は悟った。
「よし、特別に入部テストをしてやる」
とリーゼントは俺にそこに座れと窓際にあるソファーを指差した。何が入部テストだ。同好会員でもないくせに、というかお前らのせいで同好会に格下げされたのに。その張本人たちは俺の座った向かいに位置する図書室のカウンターの中に入り横並びで座る。いいさ、目にもの見せてやるよ腐れヤンキーども!
「名前は」
「七尾秋、1年2組です」
クラスまで聞いてねぇよ、とロン毛が言うと他の3人はクスリと笑った。
「お前本好きか?」
「はい」
「年間どれくらい読む?」
嘘をついてはボロが出る。ここは本当のことを言うべきだ。
「大体200から300冊くらいです」
ただし、漫画も含まれる。
ほ〜、という顔を4人がした。だろ?お前らの人生で読んだ本の数より多いだろう?
「じゃあ今まで読んだ中で俺らに勧める1冊は?ズッコケ3人組シリーズ、とかはナシな笑」
ロン毛の言葉に今度は声を出して3人は笑った。バカを言うな。あれはあれで面白かった。ただし、お前らにはチト難しすぎるだろう。
「THE ANSERです」
途端に4人は神妙な顔になった。読んでいるはずがない。全く売れなかったマニアックな本だ。ちなみにこれも嘘ではない。俺が本当に人に勧めるとしたらこの「THE ANSER」か「アンダンテ モッツァレラ チーズ」の2つだ。どちらも俺の人生を変えた本だ。
「ROSSCOかよ。こないだまで小学生だろ?可愛げのねぇヤツだな」とリーゼント。
「あれだっけ?相対する感情は実はペアだとかなんとかのやつ?」とショート。
「ああ、あれ?メビウスの帯の。けどあれ易教思想強くて私きら〜い」と茶髪。
いや待って、なぜロスコを知っているの?
「じゃあ鏡の奇跡の方も読んだのか?」とロン毛。
「あ、いや、読みましたけど…あのソッチじゃなくて鈴木剛介の方です」
あぁ、そっちか。と4人が言う。
「どっちにしても宗教チックじゃない?」
「なんかこいつ色々ありそうだな」
「けど凄いじゃん。ねぇねぇ、純文学とか読まないの?」
俺は若干気圧されていた。
「えと…細雪」
おい〜!普通じゃねぇか!とガッカリした表情を浮かべる。俺は慌てて
「かくれんぼ」
と言うと
「キター!斎藤緑雨!しかもかくれんぼ笑。マニアックだわ〜」
と喜んでくれた。そうか、マニアックだと喜んでくれるのか。気がつけば俺は4人がそうやって騒いでくれるのが嬉しくなっていた。
「おい、推理ものは?海外モノはナシな。俺嫌いだから」
とリーゼントの先輩のリクエストに
「え〜、ベタだけど十角館とか…頼子のために」
と答えるとリーゼント先輩はとても満足そうに
「法月綸太郎。うん、いいセンスだ」
と褒めてくれた。
4人は最初の時と比べとてもにこやかな表情になっていた。それは決して嘲笑めいた笑いではなく、純粋に本が好きな人が本の話をして楽しんでいる姿にしか見えなかった。
「お前、本当に本読んでるヤツだな。年間300って嘘だと思ったけどあながち嘘じゃねぇな」
とロン毛の先輩が感心してくれたのだけど、俺は申し訳なくなって
「いや、漫画も入っての数です」
と本当のことを告白した。「漫画は何を読むの?」という茶髪の先輩の質問に
「PとJKとか、こいきな奴らとか。あとは普通にまんが道やブラックジャックですかね?」
少女漫画から王道の手塚治虫まで、結構何でも読む方だ。ここでも、特に女子の先輩からお褒めの言葉をもらった。
「うん、お前面白い!たまに図書室に来いよ。なんかいい本あったら教えろ」
とロン毛の先輩の言葉に
「じゃあ文学同好会に入ってもいいんですか?」
と尋ねた。活動内容なんてどうでもいい。俺はこの人達と本の話をしたかった。
「それはダメ」
予想もしない言葉だった。
「文芸部は俺らの先先代のもっと前からのしきたりでカップルじゃなきゃ入れないんだ。何でかは知らない。ずっと昔の先輩たちがそう決めたんだから仕方ない。おかげで今では同好会。お前も入りたかったら彼女出来てから連れて来い。そしたら入れてやる。そうなったらアレだな、部に昇格だな笑」
そうやって4人は並び替えを行い男女2組のカップルになった。リーゼント&茶髪、ロン毛&ショートのカップルだ。
「ひどい…」
「仕方ないだろ、部の規則なんだから」
「同好会じゃないですか!」
「じゃあ会則だ。カップルじゃなきゃ入部…じゃない、入会できません!」
「横暴だ」
「顧問もいない同好会だ。俺が会長。だから俺が絶対だ!」
ロン毛会長という暴君に立ち向かうほど入学初日の俺は力を持っていなかった。
「ねぇ私、秋のこと好きよ。本もいっぱい読んでるしそのラインナップはマニアックだし笑。だからまたここにおいでよ。みんなの図書室なんだから、いつ、誰が来ても文句言わないよ。私達ここにいるからさ」
ショート先輩は思春期女子特有の甘い香りと同じくらいの甘い言葉をくれた。
「じゃあ、絶対また来ます」
「おう、毎日は来るなよ。俺らカップルなんだから空気読めよ?」とリーゼント先輩。
「じゃあ金曜日以外来ます」
「もうちょっと来るなよ」
とロン毛の先輩の言葉に俺らは声を出して笑いあった。
「そうかぁ。いい先輩がいて良かったね」
カレーを食べ終えた食器を洗いながら花さんは俺にそう話しかけるのだが、俺はちょっと不機嫌だった。花さんは確かに牛肉を煮込んでいたけどビーフシチューではなかったから。
「でも最初の印象は最悪だったよ」
めでたい日なのにビーフシチューじゃないなんて!
「秋は良い勉強をしたね」
「なんで?」
花さんの真意がわからなくて少し素っ頓狂な声を出してしまった。
「人は見た目で判断しちゃいけないって、その先輩から教えてもらったんでしょ?」
なるほど、そうか。確かに俺は先輩達のことを本も読まない腐れヤンキーだとばかり思っていた。その根拠は見た目でしかなかった。けれど中身はそうではなかった。もしもあのまま逃げてしまってはあの4人の先輩達の内面までわからないままだったろう。
「花さんは凄いねぇ」
昔からの口癖だった。花さんから何か1つ学ぶたびにその言葉をつぶやいていたと思う。
「けどどうするの?彼女作って入会するの?え?秋彼女作っちゃうの?もう私だけの秋じゃなくなるの?」
俺が1人妄想を突っ走ってしまうのは間違いなく花さん譲りだと思う。
「あのさ、変なふうに取って欲しくないんだけど…」
「なに?改まって」
「俺はまだ自分のことがわからないんだよ。自分がどうやって生まれて来たのか、周りからどう思われて生まれて来たのか、知らないんだ。こないだは聞きたくないって答えたけど、正直いって18歳の時にはどんな答えを出すか自分でもわからない。知らないなら知らないで知らなくてもいいという決意を持たなきゃならないと思うけど、その決意も今は弱いんだ。自分がどんな人間かわからないし、決意も弱い人間が人を好きになっちゃいけないんじゃない?そもそも人を好きになるってどういう事なのかわかんない。だから今は彼女なんて作る気ない。だからと言って花さんだけの俺じゃないよ?聞きようによっては危ない発言だから外で言っちゃダメだよ?笑」
最初は真面目な顔で、けど最後は少し笑いながら花さんは聞いていた。
「言いたいことはたくさんあるけど…」
花さんが食器を洗い終わるといつもの定位置ではなく俺や後ろに座って絵本を読んでもらっていた頃のように抱きしめられた。
「自分がわからない今の秋は、自分のことを好き?それとも嫌い?」
難しい質問だった。自分のことがわからないくせに俺は
「そんなに嫌いじゃない。むしろ結構好きだよ笑」
その答えに花さんは「良かった」と囁いた。声だけだったけど、本当に安堵しているのがわかった。
「18歳の時の選択は秋に任せる。私はなにも言わないから秋1人で答えを出してね。その代わり、秋がちゃんとした答えを出せるまで私はきちんと秋を見てるし必要だったら助けてあげる。今までもこれからも、秋が死ぬまで私は秋の味方だよ」
うん。知ってる。切なくなるくらいわかっているよ。花さんの今までがそれを確信させてくれている。
「それにね」
立ち上がって俺の右隣の定位置に座って今度は俺の顔を見ながら言った。
「人間って自分のことを100%知り尽くしている人なんていないよ。自分で自分のことをわかるのはせいぜい30パーセント。自分の知らない部分を他の人が知ってくれているのが30%」
「残りの40%は?」
自信満々の顔を花さんは携えて
「誰も知らない。わからない。だって人間はいつだって成長するんだもの」
と慈しむような目で俺を見る。
「あなたがまだ知らない部分をきっとあなたを好きになってくれた人が教えてくれる。だからね、秋が自分のことを知らなくてもきっと恋は出来るよ」
と言ったそばから
「あ〜でも秋に彼女できたら秋のことだから一直線になって私のことなんておろそかにしちゃうんだろうなぁ…。それで休日も『ちょっと彼女と会ってくる』とか言って全然私と出かけなくなっちゃってそれでーーー」
と1人で葛藤を始めた。せっかくいいこと言ったのに…。花さんが自分で知らない、誰かが知っている30%に含まれてる部分なのかもしれない。だとしたら悪いけど花さんには教えてあげ ない。俺はこんな花さんが少し可愛いと思ってるから直して欲しくなかったりする。
人を見かけで判断すると損をする。
俺は今の自分が結構気に入っている。
自分のことは意外と知らない。
けどその分誰かがわかってくれている。
だから今の俺でも恋は出来るはず。
花さんは昔と変わらず可愛い。
俺はまだマザコンな事。
今日知ったこれらのことは、明日の俺を形成していく。
それを積み重ねて、こうやって俺は18歳になっていく。