秋の章 「小2編」
花さんはちょっと頭がおかしい。冗談を言う時はちゃんと冗談だとわかるように言わなければならないのに、花さんはいつも真剣な顔をして言う。
そして花さんはちょっと遠慮がない。初めて行く陶芸教室で周りがコップや箸置きを作る中で1人アーティスティックなタヌキの置物を作ったり、人数合わせで誘われたフットサル大会で得点王になったり、俺が受験する大学の過去問を3ヶ月で8割解いてみせたり…。側にいる人に努力は才能に勝てないと思わせてしまう。
なので花さんがどんなに空想的で突飛な事を言っても「花さんならありえる」ちょっと信用してしまう。
例えば小学校2年生の時だ。授業参観日で読むための作文を書く宿題が出た。母の日が近かったので作文のテーマは「おかあさん」だった。下校時に友達に「どんなこと書く?」と聞いてみると「俺の母さん働いてるから、仕事しながらご飯作ってくれてありがとう!みたいにする」と名案をくれたのでありがたくパクる事にした。恥も外聞もこの時まだ持ち合わせていなかった。
花さんは俺が学校から帰る時間に合わせて仕事から帰ってくる。遅れたとしても30分くらい。そんな花さんは今でも絵本を描く仕事をしているものだとばかり思っていた。
保育園に行くか行かないかくらいの年齢の頃、俺は絵本が好きだった。どんな困難にあっても必ず最後はハッピーエンドで終わる。それがとても安心できた。自分の顔よりも大きな絵本を両手に抱え花さんに「花さん、これ読んで」とお願いすると、たとえ洗濯をしていても料理をしていてもその手を止め、俺を膝の上に座らせ読んでくれた。最初はちゃんと絵本を見ているけど、背中に感じる体温がハッピーエンドの絵本よりも安心できていつも目を閉じ花さんの声を聞いていた。なんともいえない幸福な時間だった。「お〜し〜まい」という声で我に帰り、全く絵本に集中していなかった俺はいつも決まって花さんの方を振り返り「もう一回読んで」とせがんでいた。
ある日、花さんが本屋に行こうと言って近所で1番大きな書店に行った。入り口から1番近くのコーナーに絵本が置いてあり俺は一目散でそこに走る。
「秋、ちょっと」
と手招きされ花さんのいるところに戻ると「ほら、ここに書いてあるの読める?」と新刊の平積みされた絵本を指差した。その本には大きくひらがなで「ななお はな」と名前が書いてあった。
「花さん、絵本書いたの?」
俺は顔が真っ赤になる程興奮していたけれど、本屋では静かにしなきゃダメなんだよという花さんの言いつけを守り、なるべく大人しい声で尋ねる。
「そうだよ。秋、絵本好きだもんね」
花さんは凄い。料理が上手、絵本を読むのも上手、おしゃべりはいつも楽しい、繋いだ手は冷んやりして気持ち良い。けどこの時ほど花さんが凄いと思ったことはなかった。凄いとしか表現ができなかった。
「僕、これが欲しい」
幼心に母子家庭はお金が大変だと勝手に思っていた俺は、自分から何かをねだる子どもではなかった。だけどこの絵本だけはどうしても欲しくて、多分生まれて初めて自分から買って欲しいとお願いした。
「はい、じゃあ自分で持って」
俺は大きくて固いその絵本を両手で大事に持ってレジまで運んだ。帰ってからすぐ花さんの膝に抱かれ絵本を読んでもらった。その時は目を閉じることも忘れ夢中になって絵本の世界に没頭した。
「お〜し〜まい」
俺はくるりと花さんの方に振り返り、首に手を回し抱きしめながら
「花さん凄い!凄い!」
と具体性のない感嘆を繰り返していた。
「もう、凄いだけじゃわかんないよ。面白かった?」
「うん、面白かった!凄い!花さん凄い!」
本当は「もう1回」とお願いしたかったが、大興奮したせいか直後に鼻血を吹き出してしまい読んでもらうことができなかった。自分の鼻なのに!こんな時に血が出るなんて!と恨めしく思った。
「花さんは絵本を書くお仕事をしてるんだよね?」
宿題の作文を書くため確認の意味でそう尋ねると
「ん?今はスパイだよ?」
と、真顔で答える。俺はこの時初めて花さんが転職していたことを知った。絵本作家と知った時のように興奮していた。
「そうなの!スパイなの!すげぇ。僕の花さん超かっこいい!」
この時俺はヒーロー戦隊モノのテレビに夢中だった。その主人公がスパイで、秘密結社に潜り込んで悪事を暴き、ピンチになるとブレスレットを光らせてヒーローに変身し、怪人を倒すという今思えばよくある番組だった。
テレビや本でよく見るスパイだけではよくわからないので直接花さんにスパイってどんな仕事をしてるの?と聞いたら
「教えたら今の生活が危ないの。だから詳しく言えないの」
と教えてくれなかった。確かに。俺の好きなそのテレビの主人公もスパイ活動をしているけどいつも危険な目にあっている。ピンチになっても変身できるテレビと違い、さすがの花さんでも変身できないことはもう子どもじゃないので俺にだってわかっていた。変身出来ないのならピンチにならないよう慎重に注意深くないとならない。とりわけ、家族の身に危険が及ばないように。
スパイへの取材に失敗した俺に、花さんは「辞典で調べてごらん」とアドバイスをくれた。俺はおじいちゃんとおばあちゃんが入学祝いに買ってくれた百科事典全43巻の中から「さ」行の巻を本棚から取り出しスパイの項目を調べ、今まで読んできた本の内容をベースに花さんの仕事内容を脳内で補完し、そんな大変な仕事をしているのに家の掃除やご飯を作ってくれてありがとう、という作文を原稿用紙に2枚も書いた。
「僕のお母さんのお仕事はスパイです!」
から始まる俺の超大作は、出だしで父兄、級友を爆笑の渦に包んだ。なぜ笑われているのか理解できなかったし、花さんが笑われているような気がして腹が立ったが、良いところをみせたくて頑張って読んだ。けれど脳内で補完した花さんの仕事内容のあたりでさらなる爆笑が生まれ、心が折れてしまった俺は途中で読むのをやめてしまった。「あ〜あ」と思いながら俺は上を向いた。視界を遮る天井が邪魔だなぁと思った。花さんに言われるまで気づかなかったけど、俺には空を見るクセがあった。どうして良いかわからなくなった時、ちょっと嫌なことがあった時、悲しくて泣きそうな時、そんな時はいつも空を見ているらしい。そしてそれは窓から見える空ではダメだった。自分のいる真上の空が、俺を安心させた。
花さんに良いところ見せられなかったなぁ、と落ち込む。空が見えないからずっと気分が晴れない。
「あ〜き」
と急に後ろから名前を呼ばれ振り返ると、横一列に並んぶ父兄の中で、1人だけ慈しむように笑う花さんの姿が見えた。
「最後まで読みなさい、ほれ」
空を見上げた後と同じ気持ちになった俺はさっきのようにまた胸を張る。
「危ない仕事をしながら僕のために働いて、だけど帰る時間には家にいてくれて、美味しいご飯を作ってくれる花さんが大好きです!けど、花さんが死んだら絶対嫌なので、慎重に注意深く仕事をして、必ず帰ってきてください!」
と作文を読み終えた。と同時にパチパチと手を叩く音が聞こえた。それが花さんだとすぐわかる。するとさっきまで笑っていた父兄や、先生を含め教室にいたみんなが俺に手を拍手をくれた。嬉しくて振り返って花さんを見ると俺をまっすぐに見て自慢げな顔で手を叩いていた。その日作文を読んで拍手をもらったのは俺1人だった。
帰りの会が終わり廊下に出ると花さんが作文の事を褒めてくれ、「偉かったね」と俺の頭をガシガシと撫でてくれた。そばにクラスの人達がたくさんいたから少し恥ずかしかったけど褒めてくれて嬉しかった。
「これから花さんは先生とお話があるから先帰ってて良いよ」
「遅くなるの?」
「う〜ん?どうだろ?順番が遅かったら時間かかるかも?」
わかった、と返事をしたけれど俺は校庭で花さんを待つことにした。ジャングルジムの1番上に腰掛け空を見る。さっき天井に邪魔されていた空をやっと見る事ができた。さっきの国語の時間の事をひとつひとつ順を追って思い返す。そこに感情もつけて。そうやって空に報告するように見上げていたら首と頭が痛くなって校庭のベンチに横になってさっき褒められた事を思い出すと自然と笑みがこぼれた。
かれこれ1時間半は待っただろうか。さすがに待ちくたびれて、俺は「ブランコを思いっきり漕いだら1回転できるのか?」という思いつきを実践したくなり勢いよくブランコを漕いでいた。けれどある高さまで行くと怖くなって漕ぐ力を緩めてしまう。次こそは、次こそは、と104回チャレンジしたところで花さんの姿が玄関に見えた。俺は名前を叫びブランコから飛び降りて花さんの元に走っていった。
「待っててくれたの?遅くなってごめんね。」
俺は勢いよく首を振る。が、さっき首を痛くしたのを思い出してすぐ止めた。
「帰ろうか?ちょっとスーパーで買い物するから付き合って。さっきの秋は偉かったから今日は秋の好きなもの作ってあげる」
迷う事なく即答する。
「ビーフシチュー!」
今日はなんて良い日なんだろう!作文もちょっと失敗したけどうまく読めた。花さんに褒められた。その上いつもは
「え〜、それめんどくさいから花さん嫌〜い」
と誕生日やクリスマスしか作ってくれないビーフシチューが食べれるなんて。嬉しかったので思わず手を繋いだ。冷んやりとした花さんの手が俺は好きだった。
「先生と何話したの?」
ただなんとなく気になって聞いてみると
「あはは、先生に怒られちゃった」
と花さんは笑う。
なんで?花さんなんか悪い事したの?どうして先生は花さんを怒るの?
またあのモヤモヤとしたあまり楽しくない気分がやってきたのを感じ慌てて空を見る。この気分はなんなのだろう?なんて名前をつければ良いんだろう?
「大丈夫。先生は秋と花さんの味方だよ」
冷たい花さんの手にぎゅっとされ、空を見上げた顔を少しだけ下げると笑っている花さんの顔があった。味方なのに花さん怒られたの?とは思ったけど、花さんが言うのなら絶対にそうなのだろう。それに俺はあの先生の事が好きだった。
「じゃあいい」
心の中で「ビーフシチュー♩ビーフシチュー♩」と歌いながら花さんと帰り道を歩いた。