六
恋せよ乙女とは言うが、愛せよ乙女とは言わない。
乙女に愛は重いからだ。
僕が先に戻った教室には終ぞやって来る事も無く、そのまま赤石は家に帰ってしまった。赤石の後ろに群れていたその他大勢ABCは僕に詰問してきたけれど、僕はまるで惚けた様子で「知らないね」とだけ答えておいた。昼頃までは懲りずに聞いてきたが、昼休憩が終わる頃には僕に赤石の件を訊ねる奴は一人もいなくなった。
これでいい。僕の平和平凡悠々自適な学校生活が戻って来た。
「と、思ってたんだけどなあ……」
「ん、なに? 私の顔に何か付いてる?」
翌日、入れ替わったように、赤石が休んで田崎さんが戻って来た。伝え聞いていた状況から察するに後数日は学校に来ないと思っていたけれど、来たとしてももう接点は消えて無くなったものと思っていたけれど、田崎さんは一昨日と同じ笑顔で、一昨日と同じ声で、一昨日と同じように僕に近づいて来るのだった。そこには絶望も失望も見当たらない。
一体彼女は――。
「一昨日はごめんね。不二君に迷惑かけたよね」
「別にいいよ。特に何かあった訳でもないしね」
今は朝のホームルーム前。わいわいぎゃあぎゃあと騒がしい教室の中、僕と田崎さんは一昨日の放課後と同じように、僕の机を挟んで向き合っていた。
「でも、昨日も大変だったんでしょ?」
田崎さんは僕の顔を覗き込むようにして、申し訳なさそうに言った。赤石の上目遣いとは違って、やっぱり女の子がやると絵になるね。――じゃない、田崎さんは今「昨日」と言ったのか? 昨日、どこまでを指しているのかは分からない。僕はそこら辺を明確にせずに答える事にした。
「そうだね。まあいいよ、過ぎた事だからね」
「そっかあ……ありがとう」
田崎さんの笑顔が晴れやかな物になる。僕からすると、彼女のその笑みは一種の嫌悪感すら抱かせる。何が彼女を笑顔にするのか。
「じゃあ、不二君。大事な話があるんだけど、いいかな?」
「大事な話ね。いいよ、場所と時間はどうするんだい」
「場所はココ、時間もイマ。大事な話だけど、場所とか時間とかは大事じゃないんだよね」
「中身で勝負だよ」なんて言ってから、田崎さんは深呼吸を挟んで、僕に教室中に、それどころかこの階ならほぼ全域に聞こえる位の大声で、驚く事に僕に向けて、信じられないような事を言い放った。
「不二君、あなたの事が好きです! 付き合って下さい!」
うわあ……、凄いな。教室中に声が乱反射して山彦みたいになってるよ。見渡さなくても教室中から僕に視線が集まっているのが感じられるし。何て事をしてくれたんだ、田崎さんよ。事の張本人の彼女は、顔を赤く染めてうつむいている、――のではなく、ただこちらを真剣な眼差しで見つめていた。鋭い視線は相手を縫い付けるかのような力こそ持っているが、不思議と睨まれた気分にはならない。
「ああっと、もう一度言ってくれるかな? 最近耳が悪くてね」
「不二君、あなたの事が好きです! 付き合って下さい!」
僕の惚けに先程と一言一句違わず、それでいて先程より更に大きい声でもう一度田崎さんは言った。もう叫んだって形容したい程の声だった。要するに、考えなくても分かる話だけれど。それでも僕なんかには驚天動地の不可解な異常現象だから。ここではっきりと結論付けておく。どうやら田崎さんは、本当に本気らしかった。
そして田崎さんの二度目の告白に伴い、僕の方に向いている田崎さん以外の視線が恐ろしく鋭い物になる。
「何恥かかせてるんじゃボケェ」
そんな声すら聞こえてきそう。そっちに向いてないから分からないけれど。いや、怖くて目線を合わせたくないからってだけだけれど。
「田崎さん、どうして僕なのかな? 僕なんかを選ぶって言うのはとてもとても賢い選択と言えないと、そう僕は思う。それに、だ。昨日の今日、じゃないけれど、一昨日の今日でそんな事を言うのは、僕には正直理解できない」
「私がどう思うかに不二君の考えは関係ないよ。それに、ね。私は勘違いをしていたんだよ。不二君、君は察しが悪いみたいだからさ。ちゃんと自分の気持ちを伝える事にしたんだ」
「言葉を返すようだけれど、君の覚悟なんて僕には関係ないよ。君が大声で告白した所為で僕は今とても、さっきまでと同じ学校生活を送れる環境じゃ無くなった。噂されて後ろ指を指されて生きていく訳だ。とんだ恥さらしだよね。人の噂も四十五日なんて言うけれど、逆に言うとそんな長期間も羞恥プレイに耐えなくてはいけないんだよ? ……要するにね、僕は、被害者だ」
教室中の視線の種類が変わる。嫌悪、侮蔑、醜悪。汚い物を、醜い物を、あり得ない物を、信じられない物を。そんな物を見る目に変わったのを、僕は静かに感じた。
この状況を見越しての告白なら、少しだけ田崎さんと付き合うのも悪くない気がした。この状況は僕の欲した物に他ならないだろうから。
僕を貶めてくれ。
僕を蔑んでくれ。
僕を嬲ってくれ。
僕を罰してくれ。
僕は、それ位されないと生きていけない。
「そうだね。だから私はまた不二君に迷惑をかけてるんだよね。でも、不二君は自分の事なんてどうでもいいでしょ? きっとそんな不二君なら許してくれると思って」
「許さないよ、怒ってないからね。それに君の言う通りだから。他人からの評価を気にする事が出来るなら、それは恐らく僕じゃない」
「でも、他人の気持ちを無視できるのも不二君じゃないと思うよ。不二君は自分の気持ちに素直なだけ。それならそれは偽善でも偽悪でもなくて、ただ純粋なだけだよ」
――本当に何があった、いや起こったのだろうか。僕には彼女が一昨日の彼女と同じようには見えなかった。男子三日会わざれば刮目して見よとあるが、男女平等社会を目指す現代には女子にも適用するのか。三日経っていない気もするけれど。
とにかく、今の彼女は一昨日の彼女じゃない。何も見えていない少女では無く、僕を僕として見た上で、彼女は勇気をふり絞っている。それがどこまで凄まじい事か、恐らく誰も分かるまい。
「ふう……」
田崎さんに見習って僕も深呼吸をしてみた。特に何も変わらなかったけれど、儀式的な行為は一つの区切りとして大事だ。
「田崎さん」
「はい」
僕からの呼び掛けに、田崎さんは恐れる事無く、妙な力強さを持って答えた。だから僕も恐れる事無く伝えてみよう。田崎さんほど声は張らないけれど。
「付き合うよ。とりあえず一学期が終わるまで位は」
「……うん、よろしくね」
田崎さんは僕の答えに、いつもより輝かしい、それでいて陰りのある笑顔で応えた。不思議な事に、祝福の声は何一つ上がらなかった。