五
人生楽しく生きるコツは恋と愛と憎悪を程良く抱く事だ
僕は保健室から赤石の待つ職員室に行く傍ら、道も分かっているので先導する意味も無いだろうに、健気に僕の前を歩く尾根高先生に事のあらましを聞いた。
そもそも、僕が大袈裟に大怪我を誇張表現したのは、一つに僕の周囲からの評価を被害者側の方へ傾ける為であり、一つに冷静さを失っていた赤石にクールタイムを設ける為であり、最後に僕を介さずに情報を手に入れる為だった。
先の様子、教室に入ろうとするや否やストレートをかまされるような状況では、到底僕には事の経緯を理解する事など叶わなかった。赤石が何に怒っているのかも知らないし、その後ろをぞろぞろと群がっていたその他大勢の意思も分からないし、何よりあの場では僕が多勢に無勢、圧倒的不利である。それならば、公平な審判を介し、公平な環境の下、一対一に持ち込んだ方が幾分僕に有利になるだろうと、そう企てたのだ。
そしてそれは成功する。僕は職員室までの決して長くない道中に、わざと歩くペースを落とした上で(ここにも怪我の誇張が効いて来る)、尾根高先生から聞きだせるだけ聞いてみた。
まとめるとこんな感じだろうか。
・赤石(とその他大勢)は田崎さんの友達である。
・昨日の件は罰ゲームで無いらしい。
・田崎さんは僕に罰ゲーム扱いされた事に酷く傷心である。
・結果、田崎さんは昨日家に帰ってから一度も部屋を出ていない。
・よって学校にも来ていない。
・その為、友達として怒らざるを得ない。
「ふむ……」
げに美しき友情かな。もっとも僕にしてみれば傍迷惑極まりないのだけれど。関係無い奴らがピーチクパーチクとうるさ過ぎる。とにかく、事のあらましは把握できた。元を辿ればどうやら僕の言葉が発端のようだ。
だからどうした。
僕の意思は尾根高先生から説明を受ける前とさして変わらない。
職員室に辿り着く。ノックをしてから中に入る。尾根高先生と共に職員室の隅に設けられている、無骨で赤い字の「使用中」の札が印象的な、通称「説教部屋」へ。
パイプ椅子が四つに教室にもある机が二つ。話をする以外に使用用途を想定していない部屋がそこにある。赤石は扉から最も遠い位置のパイプ椅子に座って天井を見上げていたが、僕が入って来るのを見るや、一気にその目は厳しくなった。僕は扉から最も近いパイプ椅子に座って赤石へ声をかける。
「おいおい、落ち着いてくれよ? 僕は親の敵とかじゃないんだぜ?」
「友達の敵ではあるけどな」
見え見えの挑発に易々と乗って来る赤石。これは与し易そうだ。僕の後ろで扉が閉まる音がする。横目に見ると、尾根高先生が後ろ手に扉を閉めて、そのまま扉に背を預けていた。飽くまで審判として居るらしい。好都合だ。
「で、何だっけ? 今日の宿題を見せてくれって話だったかな?」
「ふざけんなよ! てめえ、舐めてんのか!」
良い感じに赤石の怒りのボルテージが上がり直す。僕は内心赤石の怒りを笑い、しかしそれを外には出さずに、右手をひらひらと振りながら道化た調子そのままに彼曰くふざけた言葉を続けてみた。
「もちろん分かっているさ? 田崎さんの事だろ? 確かに彼女のポニーテイルはいけてるよね。中々に高得点だ」
「それがふざけてるってんだ! てめえ――」
「赤石、落ち着け。不二も。煽るな」
尾根高先生が赤石の言葉に割って入って制止した。実に良い流れだ。僕の言葉は止められず、赤石は怒りを溜めこみ、それをぶつけようにも、言葉にしても暴力にしても尾根高先生という障壁に阻まれる。これで対等だ。
赤石は尾根高先生の言葉に自分の怒りを止められ、やるせない心を拳に込めて机を叩きつけた。
「備品に当たるなよ、壊れでもしたら弁償物だ」
「うるせえ、うるせえよ。てめえにとやかく言われる筋合いは無い。お前は何であんな事をした。田崎がどれほど傷ついたか分かってんのか」
赤石は僕を睨んで吠える。僕はそれに昨日田崎さんがしたような、オランウータンが如く両手を大袈裟に掲げて驚いたポーズを取る。
「そんな事言われても! 田崎さんとは殆ど昨日しか話した事が無いんだよ? いやはや、そんな事で相手を理解しろなんて言われてもね。僕はすれ違ったおじさんなんかと数分で無二の親友になる事は出来ないんだ。それと同じさ」
「てめえは、田崎がすれ違っただけの奴と同じだって言うのか」
「そうだね、概ねその通りだ」
僕の言葉に赤石は下を向いてしまった。もっとも様子を見るに、意気消沈でも失意のどん底と言う訳でもないらしい。ぶるぶると肩を震わせているからには、僕の顔を直視出来ない程に怒っているのだろう。
見れば殴ってしまう。だから殴らないように下を見る。
中々どうして冷静に思えた。
「ふざけるなふざけるなふざけるな――」
赤石は小さな声で恨めしそうにぶつぶつと呟く。何だか呪詛みたいだ。だから僕も恨み言の一つでも言ってみる。君に残った冷静な心、そんなのは君にいらない。
「僕からすれば君達の方こそふざけてるけどね」
「あ?」
赤石は顔だけをこちらに向ける。これがにこやかな女の子、もしくは涙ぐんだ女の子だったら見事な上目遣いの完成だが、鬼の形相の男がした所で気持ち悪いだけだ。僕は構わず続ける。
「だって、そうだろう? 考えても見てくれよ。まず昨日。僕はお昼も放課後も彼女の一方的な都合で束縛されてるんだ。それにお昼なんて半ば強制的に肉うどんを奢らされるしね。放課後もそうだ。接点の無いクラスメイトと二人きりで沈黙の時間、それも十五分は優に超えていただろうね。そんな沈黙、君には耐えられるかい? コミュ障ぼっち非リア充の僕には拷問だったよ。それで今日だ。朝長々と自転車をこいで通学して、さあ朝のホームルームまで休むぞなんて思いながら扉を開けたら、待っていたのは君の拳だ。これをふざけてるって称さずしてなんて言うんだい」
赤石の鬼の形相がぽろぽろと剥がれ落ちる。仮面の奥から覗いていたのは恐怖だった。赤石はぶるぶると肩を震わせながら、僕にぼそりと言う。それは地雷原への一歩目を踏み出すかのような慎重さを思わせる声だった。
「お前、本気で言ってんのか?」
「ん? 逆に嘘とでも? じゃあ試してみるといいよ。券売機がある飲食店で勝手に人の金で飯を食べて、その相手にそのまま勉強を教えて下さいなんてふざけた事を抜かして、それからそれから、他に誰も居ない二人きりの空間で何するでもなく沈黙を貫いてみてさ。きっと相手は良い顔はしないと思うよ。そもそも最初の段階で通報されるだろうけれどね」
赤石が力無く両の手をぶらんと下ろした。顔だけは辛うじて僕の方を向いているが、その目には怒りどころか光すら宿って無かった。ぐでぐでに煮込んだ魚の頭みたいに、白く黒く濁った目をしている。
「お前は、お前は、お前は……。じゃあ、田崎の事をどう思ってるんだよ、田崎がお前の事をどういう風に思ってるのか、考えたのかよ」
「そうだね、僕はさっき言った通り通行人Aと大差ない認識だし、田崎さんは僕の事を見下していたんじゃないのかな。罰ゲームで無いのならそれ位しかあり得ないね。昼飯代、それに自分より劣る野郎と自分を比べての優越感。それが田崎さんが得た物じゃないかな」
僕の言葉を聞き終えた赤石は「はは……」と乾いた笑いを上げて、首が頭を支える機能を放棄したのか、折れたかのような動きで天井に顔をぐんと向けて、それっきり一言も話さなくなった。
赤石、君は少し都合が良過ぎる。誰も彼もが敵になってくれると思うなよ。迷惑だから。
――僕の後ろで扉が音を立てる。もたれかかっていた尾根高先生が動いた音だった。
「不二、お前はクラスメイトを悪く言い過ぎだ。赤石、お前は直情的に動き過ぎだ。この件を深く反省して、後日これにその旨を書いてこい」
机の上に三枚一組の原稿用紙が二つ、静かに置かれた。一番上の原稿用紙の欄外に大きく「反省文」の文字が見える。六〇〇文字も書くのは億劫だな。慣れっこだけれど。
「それじゃあ、後数分もすれば二時限目が終わる。三時限目からは合流するように」
その言葉を置き土産として尾根高先生は説教部屋を出た。後に残る僕達二人と沈黙。僕は別れの挨拶くらいはしておこうと思った。挨拶は大事だから。
「じゃあ、赤石。僕は先に戻るよ。またね」
赤石からの返事は無かった。僕はそれに満足して部屋を出た。