四
あなたが僕を好きでも、僕は僕が嫌いです
「狡いなお前は」
保健室のソファに座る僕にそんな言葉を贈ったのは、他でもないこの部屋の統括者、保険医の若野祥子先生である。三十路は越えているらしいが、細かい年齢は知らない。長く綺麗な黒い髪と白衣のコントラストが目を惹く。そして特筆すべき点だが、若野先生の前に年齢はあまり関係ない。「学校の保険医は総じて老けこんだお婆さんである」という僕の偏見を覆す程に彼女は美しい。もっとも僕のもう一つの偏見、「大人の綺麗な女性は総じて性格が悪い」の方は現役だ。
若野先生は診察シートに怪我の状態を記入し終えると、僕の方を睨むようにして向き直った。
「全部が全部見かけ倒しだ。鼻の怪我くらいか、見た目通りなのは。一見すると大怪我に見えるが、血が付いているに過ぎん。大方鼻血を顔面に塗りたくったか」
全くもってその通り。僕は赤石に蹴られる傍ら、鼻血をそれとなく、それでいてしっかりと自己主張するように塗りつけていたのだ。痛くないと言えば嘘になるが、全部「芯」を外しておいたので、鈍い痺れ程にしか痛まない。
殴られたりするのは慣れっこだから。
「ま、怪我しているのは事実だ。治療はしてやろう。おい、顔をこちらに寄せろ」
言われた通りに顔を寄せた僕に、若野先生はティッシュを丸く、細めた物を鼻の穴に勢いよく捩じり込むように突っ込んだ。
ぐりぐり。
ぐりぐりぐり。
めちゃくちゃ痛い。涙も溢れるほどに痛い。芸人の鼻フックの痛みを学校で、しかも保健室で知る事になるとは思わなかった。
「治療終了」
若野先生は僕の涙まじりの視線による訴えを無視し倒し、ぶっきらぼうにそう告げた。何が治療だ。更なるダメージすら生じたのに。遅療みたいな造語すら生まれそうな行為だ。僕はこれを治療とは認めない。
「で? 通算五度目か、お前がここに入学してから私の治療を受けるのは。さして人との交流を望んでいるようにも思えないのに、何故にお前はここまで人とぶつかるのだろうな」
「それは違いますよ、先生。僕からぶつかった事は勿論ありませんが、そもそもに僕は人とぶつかった事などありませんから」
涙を拭いながら僕は答える。その答えに偽りは無い。
人とぶつかれるのは、意見や意思のぶつけ合いが出来るのは、きっと同じ人間、人だけだろうから。僕は自分を人と認定する程愚かでは無い。僕なんかはヒトで十分だ。
「ふむ、言い方を変えよう。お前はどうして、こうもそうも問題事を起こすのだろうな」
「それも違うでしょう。僕は問題事を起こした事はありませんし、仮にそれらしい事が起きていたとしても、それは僕の預かり知らぬ物ですよ」
鼻を抑えながらも続けて答える。
僕は自分から何もしない。それは僕自身、僕自身がどうでもいいからであり、僕がどうこうしても良くならない事を知っているからだ。昨日の田崎さんの件然り。
「ふう……。いいか、不二。問題事と言うのはだな、大それた事じゃあない。人に不快感と迷惑を与える事だ。その点、お前は自覚しているだろう」
「ええ、確かに。そう言われればそうですね。人に迷惑を掛ける事に関して、僕以上の存在はいないでしょう」
若野先生は「自覚的だな。だからこそ問題だが」なんて言いながら、自分の分だけのコーヒーとお菓子を机の上に用意し始めた。若野先生は白衣にコーヒーが飛ばないように気を付けながら、湯気立つそれを口に含む。その所作は、僕に昨日の田崎さんの事をまたも思い出させる。
「自覚と言うのは酷く曲者だ。一見すると自覚は素晴らしい物かもしれないが、それは飽くまで凝り固まった主観の意見に過ぎん。如何に実体験を踏まえようと、如何に正確な予測を立てようと。世の中が不条理で溢れている以上は自覚なんてのは信じないくらいが丁度良い」
おおよそ自覚を促す立場の者から漏れる言葉では無かった。僕のその機敏を察したのか、それとも露骨に顔に出ていたのか、若野先生はコーヒーカップを机に置いて、両手を上皿天秤のようにしておどけるように付け加える。
「勘違いするなよ? 教師って言うのは生徒に適した、時には反した問題を出す存在でしかないんだ。自覚を促すも、無自覚を促すも同じ事さ」
「なるほど、五度目の謁見にして先生が真面目な先生で無い事が分かりました」
若野先生は僕の言葉に目を細めた。その目は何を考えているのか、イマイチ分からない。でも、先生はとりあえずの返答として次のように述べた。
「分かってるじゃないか」
まだ五度しか会っていないが、若野先生の言いぶりはとても彼女らしかった。
それからしばらくどうでも良い話――例えば「楽しい時間は早く過ぎると言うが、あれは楽しいあまりに時計を見る頻度が減るから感じる錯覚だろう」とか、「青空なんて言いますけれど、大抵薄らと雲があるから水色空ですよね」とか、そんな些細に些細を足して掛け合わせたような話を楽しんでいた。
会話も転々としながらもそこそこに盛り上がり、若野先生のコーヒーカップの底が見えた折、僕達二人のみの保健室にノックの音が響いた。見ると、廊下には赤石を連れて行った教師、確か尾根高一夜なる人物がいた。僕を呼びに来たようだった。
「それじゃあ先生、楽しい会話をどうもありがとうございました。ぜひ、またの機会に」
「私は結構だ。お前の場合、またの機会はまたの問題事の際に、だろうからな」
軽口を叩きあって、僕は保健室を出た。茶番劇はすっぱりと終わるに限る。若野先生も「そこ」は自覚的なようだった。
さあ、真面目に行くとしよう。僕の舞台はきっとここからなのだろうから。