ヒロシマ・シティ・ブルース(7)
「オフクロ、おめでとうございます」
ポリバケツ型マスクのケイコが、短く祝辞を述べて頭を下げる。
「まあだ油断できんわ」
シキシマは、毘沙門一家事務所最奥で、文字通り椅子でふんぞり返っていた。アサ組長の死からわずか二日。シキシマの動きは速かった。事前にハイジローから『カオル』についての情報を聞き出し、スミキを揺さぶり確信を得てから殺害、身柄を確保させるためアリサを差し向けた。
だが、カオルは捕まらなかった。プランB。カオルの排除。彼女がアサ組長の実の娘であると知っているのは、数えるほどしかいない。幹部連中では、カネモトに自分くらいのものだろう。
カオルが、ただのヤクザのまま忘れ去られればそれでよし。アサ組長も、組長代行であるハイジローも、カオルを託されたスミキも、もはやこの世にいない。カオルが偉大なる女ヤクザの血を引くという事実は、葬り去られた。シキシマはホロ電子葉巻を取り出す。漂う水蒸気。この世の中に本物の葉巻などもう存在しない。丸箱やマスクに置換した時点で、人間は本物の嗜好品を楽しむことはできなくなった。
人間にはもはや、上を目指すことしか無くなってしまった。それ以外はすべて一夜限りの夢だ。ホロ・オブジェクトで構成されたヒロシマ・シティにあるすべてのものは、存在しないただのデータであり、電気信号だ。食欲や、性欲ですらそれは同じなのだ。
だからシキシマは、彼女の中に残された物理的暴力をもって、上を目指した。彼女はヤクザらしいヤクザであった。形なき仁義など彼女には必要ない。電熱トースター型マスクの中の、トースト・モジュールに印字された二文字は、ホロ・オブジェクトと同じやがて消えゆくデータでしかない。
仁義なき世界で、彼女は出世を果たす。そしてそれが今日だ。
「カネモトのカシラはどうしとんじゃ」
「どこにおるんか、分かりませんわ。……カシラは、やはりわしらの事を疑ごうとると思います。アリサの伯母貴の事もありましたけ、動きがえっとないんも、そういうことかと」
ケイコは油断なく現段階の懸念事項を述べた。彼女はアリサに次ぐヒットマンであり、直接的暴力も間接的殺人もお手の物だ。ハイジローの自動車事故も、彼女の部隊が仕組んだものだ。今頃、交通警察隊に身代わりの犯人が送られていることだろう。ぬかりはない。それだけに彼女は、動きを見せぬカネモトのことを不気味に思ったのだった。
「オフクロ。今からでも遅うありませんわ。カシラの命も殺っちゃりゃあええんじゃ。わしゃ、オフクロが安佐組の親分になれるんなら、臭い飯くらい何年でも喰いますで」
息巻くケイコとは対照的に、シキシマは冷静であった。懸念事項は残っている。彼女は暴力で身を立ててきた。だがそれは彼女がただそれだけの人間でないことも証明している。
「黙れや」
「オフクロ!」
「黙れ言うとんのが分からんのんか、ボケ。しばき回すど」
机の上に載せた、美しいネイルを施した左義手がぎちぎちと音を鳴らす。悪い予感がするときはたいていそうだ。彼女は右手でテンミツ・デパートメントの高級マカロンのデータを取り込み、ケイコにも食べるように勧めた。
銃声が高らかに鳴った。それに呼応するように、怒声。ガラスが割れる音。中庭にわらわらと集まる組員達。シキシマも、ケイコも窓から中庭を見下ろす。その中央に人。
銃を高く掲げ、空に向かって物理拳銃を放つ者あり。復讐者。邪魔者。排除せねばならぬ者。
「……バラし損ねたんか。たいぎいのう」
銀色の鉄仮面。スリットから覗く、バイオ・センサーの赤い光が、強く輝いたような気がした。彼女は白いドレス・シャツごと上着を脱ぎ去った。ヤクザ御用達、花柄のホロ・ノーストラップブラで、胸元をカバー。そして背中には、美しい蓮の花。泥の中から力強く咲き誇る一輪。
「お前、スミキのとこのカオルかや」
二階の窓から、シキシマは威圧的にそう言い放った。カオルはゆっくりと拳を構える。ベルトの銃をそれ以上抜こうとはしない。
「ボケが。事務所に組員が何人おる思うとんじゃ」
「……シキシマあ。わりゃ、わしを馬鹿にするのもええかげんにせえよ。何人おるかは、全員命あ殺ってからゆっくり数えちゃるけえ、覚悟せいや」
ただならぬ雰囲気に、周りを取り囲む異形ヤクザ達の手に力がこもる。ゴルフクラブに、骨董品めいた日本刀。
「死にたい奴からかかってこんかい! こんボケがあ!」
しびれを切らした組員の一人が殴りかかるのと同時に、それより早くカオルも拳をその女に叩きこんだ! さながらそれは、津波に枝を差し込むがごとく愚行にみえたことだろう。しかしカオルに愚行という考えはない。ヤクザは殴れば倒れる。刺せば苦しむ。撃てば死ぬ。不死身でなければ死ぬまで殺せばよい。目の前の全員を殴り飛ばせばよい!
振り下ろされたゴルフクラブを左手で受け止めながら、別のヤクザにハイキック! 日本刀を避け、別のヤクザに左ジャブを叩きこむ! マスクは衝撃にあまり強くない。人間の頭も当然そうだが、マスクはそうした生身と精密機械のハイブリッドでもある。メリットもデメリットも享受せねばならぬ。ヤクザどもをちぎっては投げ、ちぎっては投げる。奪い取ったゴルフクラブで、様々な異形マスクをゴルフボールに見立てて殴り飛ばす!
「死にさらせやァ!」
日本刀を振りかぶり、携帯ラジオ型マスクのヤクザがカオルのマスクめがけて振り抜いた! キン、と鈍い音を立て、カオルの美しく長い黒髪が切れ、はらりと落ちた。鋼鉄マスクの部分で刃が止まり、折れたのだ。すかさず回し蹴りで鋼鉄ヒールをラジオヤクザに叩きこむ! その場にくずおれピクリとも動かなくなった。
「カオルのガキィ……オフクロ、わしゃもう我慢ならんですわ! あんガキ、わしがバラしてオオタ・リバーに流しちゃる!」
ケイコは息巻くと、肩のホルスターから物理拳銃を抜き、階段をあわただしく降りてゆく。シキシマは動かぬ。見惚れている。カオルはどこもツメていない。マスクも、アウトローの世界では地味な部類に入るだろう。
トースト型モジュールが立ち上がる。プリントされた仁義の二文字。ここで彼女を殺せば、シキシマの計画は盤石になる。だが、カオルがここで暴れていったい何になるというのだろう。金も、出世もあり得ない。
「敵討ちかや? 古臭いのう……」
シキシマがホロ電子葉巻を灰皿に置こうと部屋に向き直ったその時であった。轟音。爆発音かと聞き間違えるようなその音に、シキシマは再び中庭に注視した。リムジンが中庭に突っ込んでいる。何人か組員が巻き込まれ、地面に転がりうめいている。
「カオルゥ! こがあな面白そうなことやるんじゃったら、わしも誘ってくれんと寂しいでえ!」
リムジンの運転席扉を蹴り破って出てきたのは、アイロン型マスクのアリサであった。派手なピンク迷彩は痛々しく血染めになっているが、ドレスシャツの上から荒々しく包帯を巻いている。
「アリサの伯母貴、なんでこがあなとこに!」
カオルは近づいてきたヤクザに頭突きをくらわし、ヒールでキックを叩きこみながら、アリサに近づいた。お互い背中を合わせる。周りは敵だらけだ。
「アリサの姉貴! こらどういうこっちゃ!」
ケイコが銃を構えながら叫ぶ。当然のことだ。アリサは暴力を是とする毘沙門一家の大黒柱だ。それがこうしてカチコミにきたカオルの味方をするなど、あってはならないことだ!
「ワレ、よりにもよって親を裏切るんか!」
ケイコ達毘沙門一家の非難にも、アリサはどこ吹く風だ。彼女はヤクザである以前に、女であることを、楽しいことを、自分がしたいことを一番重要視しているのだ!
「わしゃ女じゃ。情に深く愛に生きる生き物じゃけえ。カオルゥ、何度も言うが、こがあに面白そうな事があるんなら言えや。わしが地獄の底までついて行っちゃるけえの!」
アイロンマスクから、高圧スチームが噴き出す。両腕を振りかぶり、地面に叩きつける! 小さく地震が起き、組員達が揺れ、リムジンから炎が上がる!
「伯母貴、こがあなことに首をつっこんじゃいけませんで」
「アホ言うなや、カオルゥ。直結データ交換が嫌なら、わしゃ死ぬまでお前に付き合ってやるしかなかろうが! わしゃ、お前とやる喧嘩ならなあんでも好きなんじゃ!」