ヒロシマ・シティ・ブルース(1)
人というものは、なにを持って決まるのだろう。
地位か、名誉か。顔か、体か。金か、女か。旧世代はそんなものだったと聞く。今は違う。
「すんません……えろうすんません……」
男は這いつくばり許しを請う。高級そうなスーツにはオイルが飛び台無しだ。再び買わねばならないだろう。しかし、目の前に立つ女には全く関係のないことだった。
「わりゃ、もっぺん言うてみいや。お?」
そっけない顔であった。銀色のマスク。スリット状のバイザーの中から、赤い瞳──バイオ・センサー──の光が覗く。まるで絹糸──旧世紀に存在した昆虫から採取した繊維のこと──のごとき、美しい黒髪が腰まで伸びている。それと同じ、これまた真っ黒のそっけない黒スーツ。
「すんません……そんなつもりはわしゃあなかったんじゃ」
「ボケ、コラ。お? 丸箱コラ。わりゃわしの事をなんちゅうたんじゃワレ」
男の顔は文字通りの『丸箱』であった。企業による量産型の『機械顔』。最新鋭の科学が詰まった顔は、女の蹴りで凹み、割れた顔から血のごとくオイルが流れているのだった。
「『ナマモノ』言うたじゃろ、われ。わしのことを、言うに事欠いて、ナマモノか。お? もういっぺん言うてみいやコラ!」
鋼鉄製のヒールがうなりをあげて、男の機械顔の顎部分を砕く! あふれ出るオイル! ゆがんだ電子音声で叫ぶ、哀れな一般人!
女は躊躇なく、男の胸倉をつかみ上げ、スーツの内ポケットを探る。独立電子端末。女はそれを左右に展開すると、ホログラフィ式の一万電札をあるだけひっつかみ、端末を男のそばに放り投げた。
「喧嘩売るなら言葉と相手を選びんさいや」
猥雑な文言を浮かべたホログラフィ・ネオンが、街に瞬く。
ナガレカワ・ストリート。風俗とドラッグ、そして金が渦巻く大通り。画一的な丸箱顔の中に、一人だけ女の姿が混じっていた。丸箱顔の違いは、製造メーカーのデザイン、年式程度のものだ。
日本は変わった。国民が番号で管理されたのをきっかけに、人と機械、そしてネットワークは急速に接近し、人はそれに適合した形で明らかな進化を迫られた。
それが、ネットワーク常時接続と脳と置換された記憶デバイス及び各種拡張機能を搭載した『丸箱』だ。人々は半機械の体に完全な機械の頭を手に入れ、半不老不死を手に入れた。
それは顔を、個性を失うということと同義であった。
中にはそれに抵抗する者たちもいた。しかし行政サービスはそんな反社会的人物たちを許さず、頭を指定の丸箱に置換しない者は行政サービスはおろか、まともな教育も受けられない社会が出来上がっていた。
アウトロー達はアウトロー達で固まる他無かった。
丸箱でないが、同等の性能を持つ『マスク』へ置換することで、アウトロー達は社会にようやく寄生することができた。旧世代のヤクザ達のごとく、あきらかな異質をもって社会に反するアウトロー達が、現在のヤクザの姿だ。
カオルもそうした丸箱を拒否したアウトローの一人だ。裏社会で流通するマスクをつけ、かろうじてネットワークへアクセスできる。行政サービスなどくそくらえだ。税金も払っていない。
ナガレカワストリートのはずれ、三階建ての雑居ビルの二階にあるスミキ興業が、カオルのホームだ。そっけない鉄の扉を開けると、ばね仕掛けのおもちゃのごとき勢いで頭を下げる者がいた。
「ウス! カオルの姉貴、お疲れさまっす!」
「ミキかいや。わりゃちゃんと今日の集金行ってきたんか」
ミキはこのスミキ興業唯一の構成員だ。天神会直系安佐組内スミキ組。このヒロシマで泣く子も黙る天神会の三次団体と言えば聞こえはいいが、カオルの立場はそのような単純なものではない。
「大丈夫ですけ! 自分、集金は得意ですけ、今日も一件残らず回ってきましたわ」
「当たり前じゃろうが、そりゃ。わりゃ前からわやばっかりしよるけんの。こないだなんぞ、アリサの伯母貴んとこのもんと喧嘩しよるけえ、わしゃ肝を冷やしたわ」
ミキは丸箱の代わりに、キツネ型のマスクへと置換していた。ヤクザは女が多い。初期の丸箱置換手術は、置換対象が頭そのものということもあって、比較的体力の多い成人男性に限られていた。それは行政サービスからはじき出される男性が減っていくことを意味し、ヤクザ達は強制的な世代交代を強いられていった。
すでに、ヤクザとは女のアウトローのための職業であり、そうした世界でもあるのだった。
「オフクロは?」
「へい、なんやよう分からんのですが、安佐の親分からじゃ言うて急な呼び出しがあったんですわ。自分はカオルの姉貴を待っときんさい言われまして」
安佐の親分。このナガレカワ・ストリートの王者。天神会の大幹部。かつてこのヒロシマは大陸から流入したマフィアやらゴロツキやらにいいように食い物にされていたが、安佐組が台頭してからと言うもの、このストリートの価値が変わり、ヤクザの価値は跳ね上がった。
「それにしても、安佐の親分も人使いがわやじゃ。こがあな夜中にヤクザを呼び出しちゃいけん」
「ほいじゃが、姉貴。安佐の親分に逆らえる人間なんぞ、このヒロシマにはおりゃせんですよ」
「気に食わんわ」
カオルは電子ホロタバコを咥えると、雰囲気作りのためのホログラフィ・紫煙を吐き出した。カオルは、このスミキ興業のいわば客分である。社長のスミキにはひとかたならぬ恩義がある。
仁義。
旧世代の男の論理。恩義を受けたら行動で返す。そしてそのことを忘れぬこと。それが仁義である。すでに放逐されて久しいその論理を、カオルは捨てていない。スミキは自分の命を救ってくれた恩人だ。その恩人が、たとえ親だとしてもぞんざいに扱われるのは、我慢ならぬ。
その時、事務所に備え付けてあるホログラフ・黒電話が鳴った。ミキが半ば飛びつくように電話を手に取った。
「はい……はい……」
短い時間のやりとりに、カオルは嫌なものを感じ取った。どれだけ電脳化されたとしても、人間の直感は残る。第六感。そしてそれは往々にして、悪しきものを感じ取るようにできているのだ。
「……安佐の親分が、亡くなられたそうです」