愛しのメドゥーサ君
田中は私の友達だ。それ以上でもそれ以下でもない。いや、それ以下ではあってほしくはないけども。とにかく、あの男はただの友達だ。そう思わないと、私はとても正気ではいられなかった。
* * *
田中のあだ名は『メドゥーサ』だ。メドゥーサとは神話に出てくる怪物で、髪の毛の一本一本が蛇になっていて見た者を石に変えてしまう女なのだが、田中は別にそんな恐ろしい雰囲気があるわけじゃない。むしろ若干腹の立つぐらい明るくて気さくだ。なぜ田中がそんなあだ名で呼ばれるのか、それはあいつの頭が蛇でも飼っているみたいにモジャモジャだからだ。私の目には蛇というより海藻類のようにしか見えないのだけれども。そして、これがあだ名の由来に関わるのかどうかは謎だが、近くで見ると田中の奴はまるで女性のような、無駄に小綺麗で整った顔立ちをしているのだ。
私がそのことに気付いたのは、高校二年の新学期が始まって間もない頃、ある日の授業中だった。黒板の前に立っている数学教師が次々と繰り出してくる呪文のような公式の嵐に私のやる気は削がれ、ついに睡魔が私を誘惑し始めた。その時田中は私の前の席に座っていたのだが、寝ぼけていた私には目の前に広がる田中の髪の毛が前日に食べたひじきの煮物に見えてしまっていた。何でこんなところに美味しそうなひじきがあるのだろうという疑念と食欲に駆られ、私は授業中にも関わらず田中の髪の毛を鷲掴みにした。「いってえな何すんだ!」という抗議の声で意識を取り戻した私は、そこで初めて田中の顔を間近で見た。その時の私は謝ることも忘れて田中の顔をじっと見つめてしまった。傍から見れば、まるでメドゥーサに石にされた人間のようだったかもしれない。今までは田中のことなど、マジでこのモジャモジャ頭のせいで黒板見えないから邪魔だな芝刈り機で刈っていいかな、くらいにしか思っていなかったのだが、意外とイケメンの部類に入ることが発覚した。
* * *
その事件以降、私と田中はよく絡むようになった。といっても、まずその事件があったせいで田中の私に対する印象が最悪になったし、私も私で売られた喧嘩は買うような性格だったので、毎日会う度に罵り合う、宿敵のような関係になってしまった。
「よお腹ペコ女。また腹減ったからってゾンビみたいに人間襲ったりしてないだろうな」
と田中が私の顔を見るなり言えば、
「ねえ田中、何か頭にゴミついてるよ、取ってあげるわ。あ、間違えたこれ髪の毛だった」
と私が田中の髪の毛に攻撃をするという、何気ない毎日。
ただ、困ったことに、私は田中と一緒にいると時々石になったかのように固まってしまうのだ。きっかけはいつも些細なことで、田中と目が合った時とか、田中の身体に何気なく触れてしまった時とか、そういう時だ。ただ動きが固まるだけならまだいいのだが、なぜだろう。胸が苦しい。田中の髪の毛が気管に入って詰まったかとも一瞬考えたが、そんなことあるはずもないしあったとしたら全力でその場で嘔吐している。私がそうやって固まっていると田中の野郎が、
「おい、大丈夫か?」
なんて、本気で心配そうな顔をしてこちらを見てくるから、恥ずかしくて顔が目玉焼きを焼けそうなくらいに熱くなる。その度に私は、なんでもないよ馬鹿、などと毒を吐いてごまかしていた。
本当は、その頃から私は、田中への気持ちに気付いていたのかもしれない。だけど、認めたくはなかった。
なぜなら、その気持ちを恋だと認めてしまえば、私は田中の頭を鷲掴んだあの瞬間に一目惚れをしたことになってしまうからだ。我ながら、とんでもなく下らない理由だと思う。それでも、私はなるべく恋愛にはロマンを求めたかったのだ。白馬の王子様なんて信じているわけじゃない。それでも、ただ、何となく、悔しくて悔しくて、認めたくなかった。
あの馬鹿を、好きになってしまったなんて。
だから、私は田中に告白しなかった。そのことを後悔するのに、そう時間はかからなかった。
* * *
田中に、彼女が出来た。
そのことを私が知ったのは、クラスの男子が大声で騒いでいるのが耳に入ってしまったからだった。世界が崩れる音がしたような気がした。嘘だと信じたかった。あんな奴に彼女なんてできるはずがない、なんて、好きになった私が言う台詞じゃなかったけど、少しでも、ほんの少しでも希望を捨てたくなかった。
教室に入ってきた田中に問い詰めた。彼女が出来たのか、と。田中は一瞬本気で困ったような顔になって、分かりやすいくらいに慌てふためいて、ただでさえ乱れきった髪をさらにかき乱しながら何とかごまかそうとして、でもやがて諦めたかのように、小さく頷いた。
不思議とその瞬間は、悲しくはなかった。ただ、田中の顔を見て、こんな可愛い表情も持っているのかと思って、また田中のことが好きになった。きっと、それが原因なのだろう。私は、いつもしかめっ面ばかりの顔を緩ませて、いつも憎まれ口ばかり叩く口を開いて、
「良かったじゃん。おめでとう」
そう、告げた。
そう、告げてしまった。
だから、もう先には進めなかった。後にも戻れなかった。ただ、ただ、胸が痛かった。
* * *
それから私は何度も、田中が私の知らない女子と並んで歩いているのを見かけた。田中は、笑っていた。いや、私と一緒にいる時だって、笑わないわけじゃない。誰と一緒にいても、馬鹿みたいに笑う奴だ。だけど、その時に見せる田中の優しげな笑顔を、私は知らなかった。
あいつも、あんな風に笑えるんだ。
隣を歩く彼女は、とても可愛らしい女の子だった。いかにも男子が好きそうな、保護欲を引き立てるようなタイプだ。見ていると無性に腹が立つ。どうせ私は可愛くない。どうせあの子みたいにはなれない。田中の好みの女の子には、なれない。なれない自分に、どうしようもなく、腹が立って仕方がない。
腹が立ったから、甘い物をやけ食いした。別に太ったところで関係ない。どうせあいつは私に興味がない。分かってる。分かってるのに、体重計の目盛を見る度に溜め息が出るのは、どうしてだろう。あいつの顔が浮かぶのは、どうしてだろう。
分かってるよ、そんなこと。
* * *
ある日の帰り道、一人で歩いている田中を見つけた。せっかくなので一緒に帰ろうと誘うと、田中は一瞬嫌そうな顔を見せた後、普通に私の隣を歩き始めた。よく見れば、片手に何かを持っている。
「何持ってるの?」
「うるせー、やらねーぞ」
何故か田中はそれをひた隠しにするので、私はだんだん面倒くさくなって、それ以上追及するのをやめた。
「今日一人なの? もしかしてフラれた?」
「ちげーよ、用事があるから先に帰っただけだよ。日曜日にもデートすんだよ、ラブラブだっての」
「なーんだ、フラれたなら慰めてあげようと思ったのに」
「お前に慰められても嬉しくねーよ」
そう言われた瞬間、私はまた石にされたように固まってしまった。いつもとは違う、冷たい石になったような感じ。
そっか、嬉しくないのか。
私が下を向いて俯いていると、田中は何を思ったのか、その手に持っていたものを私に差し出した。
「仕方ねえな。これ、やるよ」
それは、学校の傍にある店で売っている、一匹のたい焼きだった。
「……何これ?」
学校帰りの買い食いは、校則で禁止されているというのに、この男はあろうことか私にもその罪を着せようとしているのか。私が訝しむような目で見つめると、田中は不敵に笑った。
「最近お前元気ないみたいだからよ、美味いもん食って元気出せ。そして太ってしまえ、今以上に」
「喧嘩売ってんのか」
元気ないのは誰のせいだと思ってるんだ。そんな言葉も出てこなくなるくらい、私を安心させるのは、相変わらずデリカシーもくそもない、憎まれ口。いつも交わしていた会話。ああ、いつもの田中だなあ。
今日はお互いに、いつもよりも口数が少ない。だけど、それが不思議と気まずくはない。傍にいるだけで、満たされる。一緒にいると、心も体もうまく動かないのに、鼓動は踊り跳ねるようだ。幸せだ。
ああ、やっぱり私、こいつのこと好きなんだ。
そう思った瞬間――
「……あれ?」
涙が、溢れてきた。
止めようとしても、涙が次から次へと堰を切ったように流れ出して止まらない。
「……おい、泣いてんのか?」
「う、うるさい! 泣いてない!」
「いや、泣いてるだろ……どうしたんだよ?」
田中は私を落ち着かせようと手を伸ばしてきた。
私は、その手を振り払って逃げ出した。石になった身体を無理矢理動かしたせいだろうか。胸の奥の方から身体中へ、ひびが入っていくような気がした。
* * *
「あーあ……やっちゃった」
家に帰った後、私はベッドに横たわって呆然としていた。
田中は私の友達だ。それ以上でもそれ以下でもない。ただの友達だ。そう思わないと、私はとても正気ではいられなかった。だから今まで、我慢してきたのに。
「学校行きたくない……」
そう呟かずにはいられなかった。
幸いにも今日は金曜日で、次の登校日までには二日間も猶予がある。とは言っても、ぐちゃぐちゃの心の中を整理するには、時間がいくらあっても足りる気がしない。
でも、私がどれだけ悩んだとしても、今日みたいに取り乱したとしても、どうせあいつは馬鹿だから、私の気持ちには気づかないかもしれないな、と思った。その可能性に安堵する自分と腹を立てる自分が両方いて、気づかないでほしいな、いや気づけよと、頭の中で二人の私があまりにもうるさくするので、もう寝ることにした。
* * *
そして無情にも時間はいつもと変わらず流れて、私は結局、三日連続寝不足で気持ちの整理もつかないまま登校した。
「…………おはよ」
「…………おう」
早速田中に遭遇したものの、お互いに気まずい空気が流れて、素っ気ない挨拶をしただけで、いつものように会話することはなかった。
喧嘩でもしたの? と、友人には聞かれたけど、どう答えたらいいか分からなかったので、黙っていた。
ただの喧嘩だったら、どれだけ楽だっただろう。というか、私たちはいつも喧嘩しているようなものだ。だから、喧嘩もできなくなった今の状況は、どうしたらいいか分からない。そもそも、どうにかできるものなのだろうか。私はこれからどうしたいのだろうか。分からないったら分からない。ああ、昨日の私をぶん殴ってやりたい。
そうして思考回路をぐるぐる回転させていると、だんだんと視界がフィルターをかけられたようにぼやけてきた。
やばい。眠い。
ただでさえ寝不足なのに、我ながら似合わない考え事なんかしていたせいで、余計に眠くなってきた。
こんなことではダメだ。切り替えよう。
私は立ち上がり、教室を出て、水道で顔を洗い、次の授業の準備をした。それからいくつかの授業は乗り越えたが、午後の授業の恐るべき睡魔の群れに敗北を喫し、ついに力尽きてしまった。
* * *
どのくらい眠っていたのだろうか。気がついたら教室には誰もいなくて、時計は下校時刻を告げていた。
結局田中とは、朝以降言葉を交わしていない。会えば気まずくなって話せもしないのに、話していないという事実に勝手にため息が出てしまう。そんな今の自分の状態に、またため息が出てしまう。
その時、廊下から誰かの足音が聞こえた。見回りの教師だろうか。慌てて帰る支度を整えていたら、その人物は私のいる教室に入ってきた。
「……お前まだ帰ってなかったのかよ」
田中だった。私が現在最も会いたいようで会いたくない人物が、今確かに私の目の前に立っていた。
「何してたんだよ、こんな時間まで」
「そう言うあんたは?」
「……テストで赤点取った生徒のための補習があったんだよ。んで、それが終わってから教室に忘れ物したの思い出して、取りに来た」
「二重に馬鹿じゃん」
「うるせー、放課後までずっと居眠りしてた馬鹿よりマシだ」
なんで見てるんだよ。
そう言ってやりたかったけど、きっと私は自分にとって素晴らしく都合のいい答えを期待してしまいそうだったからやめた。
「いいの、そんなんで? 補修なんか受けてたら彼女と一緒に帰れないじゃん」
私は、自分自身にも突き刺さるような諸刃の皮肉を放った。効果は抜群だ。主に私に対して。馬鹿だな、本当に。
数秒の間が空いた後、田中が口を開いた。
「――別れた」
田中が言ったことを理解するまで、数秒時間がかかった。
私の好きな人が、付き合っていた相手と、別れた。
どうして? ついこの間まであんなに楽しそうにしていたのに? いや、それよりも。
今、どんな言葉をかけるべきだろうか。
「ドンマイ、そのうちいい人見つかるって!」とでも言って、励ませばいいのだろうか。「どうせ馬鹿だからフラれたんだろ、ざまあみろ!」とでも言って、貶せばいいのだろか。分からない。どんな言葉も、私が言うには相応しくない気がした。
そうして私が一言も発せないまま俯いていると、突然田中が私に向かって憎らしげに、
「お前のせいだからな」
などと言い出した。
「はあ?」
私は意味が分からず、声を上げた。
「この前お前が、俺の前でいきなり泣き出した日から、何か頭の中がこう、ぐちゃぐちゃした感じになってよ……」
「……頭ぐちゃぐちゃなのはその髪型見れば分かるし」
私は目を逸らして、感情も込められないまま話に水をさした。
「うるせー、茶化すな」
もう一度田中の方に視線を戻すと、今度は田中は真剣な表情で私を見つめていた。
「それであれ以来、何故か何やっても楽しくなくて、ずっと頭ん中はすっきりしないままで、こないだのデートもずーっとテンション低いまんまで、おかげで彼女とも別れて……。だから、お前が悪い」
「……私が悪いのか」
「…………うん」
うん、じゃないだろ、馬鹿。
こいつは自分が何を言っているのか分かっているのか。その言葉が、その表情がその視線が、どれだけ私の心を惑わせるのか、分かっているのか。
私たち以外誰もいない教室を、沈黙が包み込んだ。
何故黙る。もっと喋れ。いつものお調子者ぶりはどうした。そう言ってやりたかった。でも、今の私はそれどころじゃない。言葉に言い表せないような高揚感が胸の中から溢れてきて、喉につかえて、声が出せない。
いいのかな? 私は、素直になっても?
しばらくすると、田中が勢いよく立ちあがった。
「もう遅いから、早く帰ろうぜ。ついでに送るわ」
早口でそう言って、田中は教室を後にした。素っ気なく向けられたその背中を、早く追いかけたい衝動に駆られた。だから私は、迷うのをやめた。
* * *
この前通った時と同じ帰り道を、並んで歩く。夕焼けが二人の影を伸ばして、時々それは重なって、実際はそんなことはないけれど、手をつないでるように見えなくもなかった。
こいつの元カノは、きっと今頃傷ついていることだろう。だから、今の私は他人の不幸を喜ぶような、最低な人間なのかもしれない。そんな醜い自分が、嫌いで、嫌いで、嫌いだ。
だけどそれ以上に、私は今、田中が好きだ。
私はその場に立ち止まった。石にされたからじゃない。私は自分の意志で、立ち止まって伝えるんだ。今、ここで。
「私……、田中のことが好き!」
思い切って伝えはしたけど、田中の反応を見るのが怖くて、私はずっと目を瞑ったままでいた。
恐る恐る目を開けると、私の愛しのメドゥーサは、顔を真っ赤にして、石にされたかのように固まっていた。