07 受験後~猫屋敷林~
「やっべーーーー!!!」
轟音の襲来。
この時、驚いた音々と卯月の考えは合致した。「やべぇのはお前だ」と。
「五月蠅いわよリン」
「うっさいわよ猫屋敷!」
「わ、わっゴメンー!誰もいないと思って!」
二人の女性から鋭い瞳で睨まれ、電光石火のごとく現れた青年は、酷く狼狽えた。
髪は明るいオレンジで、癖っ毛。身長は音々より高く、卯月とさほど変わらない。カラフルなパーカーは、個々の噛み合う歯――エレメントが大きく、それに伴いスライダーも大きい。丁度鳩尾辺りで揺れていて、中からは暗い色のインナーが覗いていた。
鞄はワンショルダーのバッグを背に、右手にはキツいピンク色のキャリングケース。
狼狽えた筈の青年は、謝った次の瞬間には破顔し、音々の横を駆け足で通り過ぎ、正面の椅子に腰かけた。
「音々様、卯月ちゃん、久しぶりー!まだ休みだからさ、二人に会えるなんて思わなかった!」
太陽のように眩しい、親しみと喜びに満ちた笑顔を向ける。彼は音々、卯月共通の知り合いで、姓は猫屋敷、名は林。いつも明るく、言ってしまえば軽厚――軽くはあるが、薄くは無い――な性格で、性別を問わず誰とでも仲良くできるのが特徴の、コミュニケーション能力の高い好青年である。
生きる伝説と化した音々を怖がらない珍しい人種であり、この手の軽薄そうなタイプにはとても稀少な、音々が友人として接している存在であった。
卯月は笑んで軽く手を振り、音々はふわりと笑いかける。
「音々より意外ね。猫屋敷、あんた何しにこんなとこ来たの?」
「卯月ちゃんヒッデー!」
卯月がどこまでも本心で物を言えば、卯月の指摘を、リンは快活に笑い飛ばした。キャリングケースを机の上、ワンショルダーの鞄を隣の椅子へ下ろし、中から取り出されたのは、やはりコンビニのビニール袋。中に入っているのは大概がコンビニデザートで、比較的形の整った物を、音々と卯月に彼は譲った。
「俺だって、休みでも偶にくらいガッコー来るって!でも、それが音々様や卯月ちゃんとタイミング合ったんなら、ラッキーだよな!俺、二人に超会いたかったもん!」
邪気無く、彼は笑いながらさらっとそういう事を言う。
下心の無い好意は暖かい。彼は生来の人好きで、そして人誑しである。リンに必死で頼み込まれては、大概の人間は折れる。バッサリと否の意志を押し通す人間がいるとすれば、音々くらい、だろうか。
「で、結局、リンは何をしに学校に来たのかしら?」
「音々様ぁ、その、『用事が無かったら来ないでしょ?』みたいな言い方ぁ」
「その通りじゃないの」
情けない声で不平を漏らすリンに、音々はズバンと言い放つ。効果は抜群。リンは机に上半身を投げ、観念したように舌を出し、「まあね」と眉を下げて笑った。くるくる変わる表情も、彼の持ち味だ。
リンは一つコンビニデザートを開封し、現れた生クリームの固まりにスプーンを埋めた。案外値の張る、大きなプリンの上に生クリームをたっぷりと乗せただけのデザートである。
音々達も倣い、差し出されたデザートをそれぞれ開封した。
音々にはイチゴのタルト。卯月にはミルクレープ、である。
「それがさぁ」
食べ始めたと思ったら、リンは当然のように口を開く。きちんと口の中を空にしてから喋り始める彼の癖に対し、音々はそれなりに好意的な評価を下していた。
「俺さー図書館に用があったんだよ。授業の資料借りに来たんだー。今朝確かめたら、貸出だったのが『開架』表示になってたから、よっしゃー返却された―!って……そんでいざ大学に来るじゃん?もう貸し出されてるじゃん?俺の借りたかった資料どんだけ人気なんだよー!って……」
言い終ると、彼は残ったプリンを一気に口にかきこみ、無念な気持ちと、ととろける甘さの幸せな感情を混ぜ、ひどく奇妙な表情をした。
それにしても、既視感。
一度卯月と顔を見合わせ、音々は膝の上に置いていた本を、彼に見える様に差し出した。
「リン、あなたの借りかった本って、これかしら?」
「あーー!!俺の本!」
「いや、あんたのじゃないわよ」
卯月のツッコミに、リンは「そっか!」と元気よく一つ頷く。
机に置かれた本を掲げ、何故か開かないままに、いろんな角度からその本を眺め、しゅんと表情を消沈させ、机の上に戻した。
「なんだよもー。音々様が借りちゃったのかよー」
「えぇ、あたしが借りちゃったわ」
イチゴタルトは、タルト部分手掴みで食べるのが音々流だ。右手でタルト、左手でタルトの収まっていた容器を持ち、食べ屑が落ちない様に受け皿にする。
「音々様!本返す時さ、学校で待ち合わせしよーよ。俺すぐ借りたいし、予約ってことで!」
名案!とでも言いたげな明るい表情で、リンは立ち上がって音々に問う。
澄まし顔で食べる音々の正面で、リンは何処までも馬鹿だった。
音々はタルトを胃に流し込んでから、はぁ、と一度溜息を吐いた。
「リン、あたしはあなたのそういうところを気に入っているけど、馬鹿も大概にしなさい」
「うえ?」
本を押し、リンの方へとやる。
「今読んで、必要な部分だけコピーしていけばいいじゃない」
音々はそうする予定である。なので、返却は音々の帰宅時。正確には、これからバイトが入っていたので、家には帰らず、バイト先へ赴くのだが。
「帰りに返す気だから、全部読みこみたいって言うなら、あたしが図書館行くまで待ちなさい」
友人が目的の本を借りているのだから、共有すればいいのだ。
音々は他力本願で何もしない奴は嫌いだったが、頼ってくる友人を無碍にする気は無い。別に他人であっても、「必要なので本を拝見させてください」と頼まれれば、当然渡す。勿論、借りたのは音々なので、音々の把握できる範囲まで、だが。
リンは必要以上に、人を当てにしない。音々に限らず、卯月にも、その他友人にも、兄弟にも。
いらなくなった教科書を人にあげてしまう癖に、自分が誰かからもらうということはすっかり失念して新しい物を買おうとするのだから、周りが彼に貢ぐのだ。
リンには邪気も他意も無い。それが普通で、助けてくれた人には、倍以上のお礼をしようと、いつも感謝の心を忘れない。だから彼は慕われ、皆に可愛がられ、純粋に手を差し伸べられるのだ。
音々の申し出に、リンはぽかんと瞳と口を丸くし、次いで表情を明るくした。コマ送りでアニメを見ているような替わり方だった。面白い。
「マジで!?良いの音々様!?」
「いいわよ。どうせ返却するし、あたしはコピー取るから」
「もー!音々様ってばホント良い女!良妻賢母!大好き!」
「知ってるから何度も言わなくていいわ。それと、あたしに子供はいないわよ」
音々の訂正も聞かず、リンは「今度お礼するね!」とだけ告げ、本を読み始めた。見た目の軽さとは裏腹に、彼は文章を読むことに抵抗が無い。書物はある程度好きで、読み始めたら集中して、誰の何の話も聞かなくなるタイプである。気付いたら深夜で夕食を食べそびれた、とか、良くある話だと世間話に聞いたのは、彼らが全員一年生の頃の話だ。
ミルクレープを完食した卯月から容器を受け取り、ゴミ袋と化していた音々のコンビニ袋へ入れる。スプーンはどうかとも思ったが、リンのプリン容器とビニールの蓋も一緒に回収してぶちこみ、さてどう暇を潰したものかと音々は思案した。
「そういえば」
口を開いたのは、卯月だった。
「弟君、受かったらどうするの?やっぱりこっちに来るんでしょ?」
「そうね。……はぁ、きっと引越しになるんだわ。あの子ホラーが苦手だから、あたしの部屋には棲めないもの……」
「…………」
卯月の沈黙には、「えっ性別違う姉弟が一緒に住むの!?ありえない!」という言葉が隠れていたのだが、それを音々が知ることは無い。一般的に、姉弟が同棲するのが正しいのか間違っているのか、それは解らないが、音々にとってはどちらでもいいことなのである。
ただ、七音に関しては特に子煩悩な両親のことだ。
音々は兎も角、彼を一人暮らしなど、させるはずもないだろう。
「音々様引越しすんの?あのオバケマンション?」
本に集中していた筈のリンが、会話に参加する。それほど興味の沸く話題だったらしい。
音々は頬杖をつき、卯月が三人の中央に置いたスナック菓子へ手を伸ばす。
「どうかしら。多分、そうなるんじゃないかしらね」
酷い呼称には訂正を加えず、音々は小さく息を吐く。
七音が音々と暮らしたく無いと言うか、受験に失敗するか、可能性は低いながらも、一人暮らしの許可を貰わない限り、彼は音々と共に暮らすことになるのだろう。アレはアレで気にする方では無いので、九十五パーセント程の確率で、彼は音々と同居することとなる。音々はそう予想していた。
ところが彼は、ホラー関係の話題を潔癖なまでに恐れていた。結局最終日までに寝たのは音々の仕事時間か、音々が一緒に寝られる時のみ。裏のお墓を視界に入れるのを拒み過ぎて、階段で上の階に住むフリーターに何度もぶつかった。
彼があそこで生を全うすることが出来ないのは、火を見るより明らかだろう。
音々がうんうんと頷けば、リンは効果音着きで顔を綻ばせた。「やったあ!」と大声で叫び、椅子から立ち上がる。
「やったー!!じゃーさじゃーさ、音々様うちの隣おいでよ!」
「行儀が悪い」
「あぐっ」
机に乗り出して音々を誘うリンの額に、ある程度加減のされた、けれども見た目の単純さ以上の力強さで音々の手刀が入る。淡々とした口調が余裕を伝え、彼女の屈強さを遺憾なく饒舌に語っていた。
隣で見ていた卯月は「またか」と瞼を下げ、最早見慣れた思い出の一ページから、何の感慨も無く瞳を逸らす。リンは行儀面で頻繁に音々に叩かれていると言うのに、あり得ないほど音々に懐く、奇跡の人物なのである。
「いっだぁぁ……」
「苦痛の伴わない教訓って、覚えないのが人間だものね」
苦痛を伴っているのに学習しないのが、猫屋敷林という人物なのだが。
その場では刻み込まれるので、リンは椅子に腰かけ直し、それでも半ば机に乗り上げつつ、再度音々の説得を始めた。
「うちの隣、角部屋何だけど、まだ誰も入んないんだー。あそこ大学が近いのがウリだけど、2LDKって、単身の学生には広いし、そうなると家賃も高めじゃん?学生向けだから普通より休めに設定されてるけど、学生多いとフーフみたいな人たちは入り辛いし、全然人入んないの。俺、音々様が隣に来てくれたら、すっごい楽しいと思うんだけどなー?」
リンも音々と同じ、正し出身の違う上京組である。彼には双子の兄がおり、最初一年は彼と二人で2LDKに住んでいた。その後弟がリンと同じ大学に通う事となり、双子の兄は女性と同棲を始め、偶にしか帰宅しなくなり、実質今はリンと弟の二人暮らしとなっていた。
問題があるとすれば、その弟が、音々に恐怖を覚えている点、だろうか。
「大樹可哀想じゃない。私たちが隣に住んでも、良いことなんて醤油きらした時くらいしか無いわよ」
「もっとあるって!お味噌きらした時とか」
「何かきらさなきゃ良い事無いの?あんたたちは」
卯月のそれとないツッコミに、ううんと音々は唸る。
このご時世、お隣さんトラブルというものは厄介だ。その点で行くならば、知人で仲の良い、猫屋敷兄弟の隣に引っ越すのも、悪い手では無いだろう。
「……まぁ、候補の一つとして、考えといてあげるわ」
「ほんと!?ヤッター!」
リンは歓喜の雄たけびを上げつつ、勝利の拳を掲げ、天を仰いだ。その拍子に膝が机の裏側を蹴り上げ、ガタガタと机上のゴミやお菓子が揺れる。冷やかな音々の視線を察知し、素早い動作で読書に戻ったが、彼の顔は次第に緩んで行き、スライムのような頬で幸せに浸っていた。
「卯月ちゃんの所は?」
「ん?うち?」
卯月は電車で二時間の隣接県に実家を持つが、こちらに単身越してきた身の上にある。確か、彼女の妹も、受験に合格すれば、こちらに来るはずだと思い出し、音々は卯月に問いかけた。
ぱたぱたと手首を軸に、掌を左右に振る。
「うちは1DKだから、あんたと弟、二人は流石に住めないと思うわよ」
「そうではなくて」
具体的に説明を加えると、卯月は「あぁ」と頷いた。
「あの子も、うちには来ないかなぁ。学生寮のある大学、片っ端から受験したって言ってたから」
「それは『このブルジョワめ!』って怒るべきところかしら?」
「私の隅かよりは、マシかしらね」
たかが学生寮にブルジョワも何もないのだが。
音々は腕時計で時間を確認し、卯月はスマートフォンを取り出して、なにがしかのアプリケーションを起動した。
そしてふと、
「音々」
「ん?なあに?」
「弟君来るの、楽しみね」
そう言うと、音々はきょとんと二度ほど瞬きをした。けれど直ぐに、その整った顔立ちを頬笑みに変え、「そうね」と柔らかく返事を返す。
例え心の中で「鯖の煮付け」と考えていても、音々が七音の上京を楽しみにしていることに、変わりは無いのだ。
猫屋敷林→馬鹿な子ほどかわいい純粋な子。明るめのオレンジの髪は地毛で、ピアスは怖いから開けてないけど興味はある。好きな物はコンビニスイーツだけど、甘い物よりは辛い物が好きな変な子。三度の飯より楽しいことが好き。