06 受験後~姉の策~
弟である七音の受験が一段落し、弟は実家へ帰って行った。結果が出るのは暫く後で、しかも郵送。態々姉の家に居座る必要も無く、試験が終わると外食を御馳走した後、もうこの家にはいられないとばかりに、さっさと音々の家をあとにした。
音々の予想では、訳あり物件である音々の家に、もう居たく無かったのだろうと確信している。訳あり物件は家賃が低くて家計が助かるというのに、あの男は何処までも非科学的に堪え性が無い。「得体の知れない物が怖い」という感情はだれしも持つものだと思うのだが、『だれしも』の中に、どうやら音々は存在しないらしかった。
音々は今日、休み前に借りる予定だったが貸し出し中だった図書が返却済みになっている事を知り、インターネットで貸し出し予約をし、大学の図書館へと赴いていた。音々の通う図書館は、市立図書館以上に蔵書が多く、雑誌や新聞の種類も多岐にわたる。それに、音々は上京組だ。なので大学近くの――しかも訳ありの――マンションを借りている音々にとって、大学は格好の暇潰し場所と認識されているのだ。
「あれ、音々じゃない」
「卯月ちゃん」
その図書館で会ったのが、この大学で出会った友人、卯月である。
「弟君の受験どうだったの?」
「さぁ。まだ結果が出てないから解らないけど、あの子頭良いから、受かったんじゃないかしら」
赤みがかった濃い茶の髪と、音々よりもボリュームのある胸、そして丁寧で、尚且つケバくないがしっかりとしたメイクが、彼女を年齢よりも妖艶に魅せる。
「で、あんたは何してんの、学校の図書館なんかで」
「あたしは資料を借りに来たのだけど……卯月ちゃんこそ、まだ冬休みまっしぐらよ」
お互いに自身を棚上げした質問を繰り出しつつ、二人は自然と、足を学生のフリースペースへと向けた。
そこは学生ならば誰でも入れる建物で、一階には第二学食、三回には謎の運動器具が並んだ内の、二階部分に当たる。ただの一室だったが、時折何かしらの授業に使われている、もしくは使っていたらしく、黒板と教壇があり、大きめのテーブルが四つとパイプ椅子が二十四脚、ログインに生徒のIDを必要としないパソコンが四台と、何かの資料と思しき書物が壁一面にずらりと並んでいた。
使い勝手の良い、音々も気に入っているスペースなのだが、利用者はそれほど多くない。この場の存在を知らぬ者が多いのと、知っていても、音々がここを良く利用しているのを知っているが故に近寄らない者のおかげで、その部屋の治安は保たれていた。
構内のコンビニで買った昼食とお菓子をずらりと並べ、音々と卯月は遅めの昼食を始める。卯月がサンドウィッチで、音々が季節を考えない冷たいサラダパスタ。
あらかたを食べ終え、卯月はお菓子を広げ、音々は借りて来た資料を繰り始める。無駄に分厚く重たい資料なのに、必要があるのは数頁の内のたった一行だったりするのが、勉強と言うものの無情さを感じさせた。
どんな大作の物語も、評論文も、研究所も、結局言いたいことは一つしかないのだ。そのたった一つを強調するために、前置きし、冗長な文章を付け足し、余計な脚色や、余分とも思えるほどの裏付けを繰り返す。
音々は思うのだ。
一言でまとめろ、と。
必要なページの検討をつけ、そこに栞替わりにメモを一枚挟む。
本をそのまま持ち帰るのは重たいので、コピーを取って本は返却することにしたのだった。
「そういえば、アレは上手くいったの?」
手を止めた音々に、卯月はチョコレート菓子を勧めながら尋ねる。
音々は効果音が付きそうなほど顔を綻ばせ、「えぇ」と半オクターブほど上がった声で、ことの成功を告げた。
卯月からしてみたら、予想外の上機嫌。音々は勧められたしみチョコを一つ口に放ると、ふんふんと鼻歌を口ずさみ始めた。別に意味は無く、ただ自然と零れ落ちてしまったのだが、それが更に音々を上機嫌に見せてしまったがために、卯月から純粋に意外を表す視線を向けられる羽目となった。
けれども、音々にはどうでもいい話なのである。『アレ』が上手く行こうとも、行かなくとも、音々の日常にはそれほど大差は無い――少なくとも、今は――のだが、それでもやはり、張った罠に獲物が引っ掛かるのを見て、心踊らずにいろという方が無理難題に思えた。
「良かったじゃん。化物メイク研究したもんね」
「本当よ、酷い出費だったわ。こっちが必死で節約して化粧品使ってるっていうのに。ケバい人ってすごいわね。お金の有難味を知らないんだわ」
「そう言うやつは化粧の有難味を知ってんのよ」
卯月が擁護するような言葉を吐くと、音々はきょとんとした。
「あら、あたし、別に喧嘩を売る気は無いのよ。勝手に湯水のように金を使って、自滅すればいいと思ってるだけで」
「……まぁ、思想は自由だからね……好きにしな」
「えぇ。言われなくても」
さらりと、音々の心に触れることなく、卯月の言葉は通り過ぎる。
自分勝手で、清楚な見た目を裏切る女王様。確固たる自身の意志を尊重し、相手の意見はどこ吹く風。時には物理も厭わない。
それが、波取音々である。
「……弟君がかわいいって言ってくれたこと、そんなに嬉しい?」
歓喜に溢れんばかりの笑顔を浮かべる音々に、卯月は確認するように聞く。
音々が計画していた『アレ』とは、受験のために上京し、暫し音々の家に滞在することになっていた、弟との諸事情にあった。
音々は、弟に以前「ブス」と言われたことがずっと気にかかっていた。気にかかっていたと言うより、イライラしていた。
だから音々の素顔を褒めざるを得ない状況を作りださんと、音々は常の講義よりも必死に策を練っていた。否、練っていたのは策では無く、化物メイクのデザイン、だが。
音々にとって、この作戦は、失敗すれば『それまで』の、小さなものだった。
もし弟が――七音が音々の容姿を褒めなかった場合、音々は弟との縁の一切を切り落とし、一生彼と関わらないつもりだったのだが。
彼は、七音は最善を尽くした。
例え棒読みだろうが、その言葉は、確かに音々を褒めた。
百点満点、とは言い難い。けれど、及第点である。
「いえ、別に」
卯月の問いを、これもまた酷くあっさりと切り捨て、音々は昼食残りのカフェオレで喉を潤した。ブラックコーヒーも飲めないわけではないが、音々はやはり、ミルクで口当たりがまろやかになった、カフェオレの方が好きだった。
間抜けたようにぽかんと目を丸くする卯月に、音々はふふっと可愛らしく微笑む。
「嬉しいのは、『かわいい』って言われたことじゃないわ。ただ――弟が、女性に『ブス』なんて言って、謝りもしないミジンコ野郎じゃなくて、良かったってだけの話よ」
音々は独自のルールに生きている。
他人にそれを強要する気は――ある程度――無いが、それでも、音々自身がその人物を『人間』として扱うかどうかは、音々独自の、ある一定のラインが引かれているのだ。
そのラインを、一度七音は『人間として扱わない』側へ、足を踏み入れかけた。弟だからと情をかけ、音々が作ったのがこの機会。それを逃さず、音々に人間と認められた七音。
「でも、ま。信じてはいたのよ」
音々は言葉を続ける。
信じては、いた。
彼が音々の弟なら。血を分けた、同じ両親から生まれた落ちた、音々の世界の一部である、彼ならば。
「だって、あたしの弟だもの」
そう言って音々は、凛々しい『姉』の顔で微笑んだ。