05 大学受験~化粧~
バシンッ
と、七音は耳元で大きな音を聞いた。
「…………」
「…………」
何故か至近距離にいた姉が退くと、傾いて感じた地面が音を立てて戻る。いや、地面では無い。ベッドである。
ギイギイと鳴るスプリングは、姉のお気に入りだ。柔らかさはあまり無い、固めのマットレス。
同一のベッドではないが、姉は昔から、この何とも言えない固さを好んで使っていたのだ。
じわじわとやってきた熱と、ヒリヒリとした痛みが頬を覆っていき、あまり頭の働いていない七音の耳に、姉の「早く下来なさい。ご飯買って来たわよ」という声が届く。
(……………………………………あ、寝てたんだ)
やっと状況を把握し、この頬の痛みと、寝起きで見た姉の、キレの良い戦闘態勢のようなポーズを思い出し、そこで、姉に頬を思いっきり叩いて起こされたのだと、七音は悟った。
起こしたはずの上半身を、再度ベッドに投げ出してしまうのは、仕方ないことだと言えよう。
□■□
「かつ丼じゃないけど、とんかつよ」
家訓と言うか、風習と呼ぶか。
七音の家では、何かの大会の時や受験の時、必ずとんかつを食べる。駄洒落好きな父親から来たものだが、ずっとそれをしてきた環境下にあれば、それが当然の常識と成る。
姉は当然のようにとんかつをどこぞで購入し、キャベツの千切りも添えて、一つの更に綺麗に盛り付けた。
寝起きでとんかつ……とも思ったが、衣はサクサクで歯ごたえが良く、くるまれた肉は箸で簡単に分けられるほど柔らかい。意外に美味しく、油もしつこく無い、惣菜にしては及第点を優に超えるものだった。
一人一枚ということは無く、仲良く半分こ――キャベツは殆ど姉にとられた――で丁度腹八分目。このまま勉強して夜を明かすか、それとも勉強して寝て明日に備えるか――
考えものではあったが、その前に、七音にはどうにも、ツッコミを入れねばいけないことが一つ、あった。
「…………音々」
姉を呼ぶ。デザートを平らげ、既に歯を磨き、皿を洗い終わり、夜のニュースを二人並んでぼうと見ていたタイミングである。
「何よ。お風呂なら勝手に入りなさい。私はもう少し後で入るから、汚さないように気をつけなさいね」
「いや、風呂は音々の後で良いんだけど……」
昔からの癖である。風呂の順番は、姉が風呂に一人で入るオトシゴロになった頃、一番風呂は姉に決まった。理由があるのかは知らないが、七音はどうでもいいと思っていたので、その辺りはまったく関知していない。
ただ、染みついた習慣は消えない。風呂上がりの姉を見たら「あ、俺風呂行かなきゃ」と思うし、脳の奥から、母の「なおちゃんもお風呂入っちゃいなさい」という優しい声が聞こえてくる。
「…………」
ついでに、姉以外の家族を含む親戚一同から、「なおちゃん」と呼ばれている事実を思い出し、若干ブルーになった。
その呼び名が男子には可愛すぎる名称だと言うのを知ったのは、中学に入ってからだ。若干のトラウマなのである。
「音々、化粧してるよね」
「してるわよ。悪い?」
「いや、そうじゃなくて……」
「おと、五月蠅い。テレビしっかり見なさい。時事問題に対応できなくなるわよ」
「いや、そうかもだけど」
姉の対応に困りすぎて、それどころじゃないのが七音の本音である。
バイト帰りの姉は、当然ながら化粧を施していた。
高校時代は化粧のけの字も知らなかった姉が、当たり前のように毎日化粧を施し、化物に変身する姿を想像し、七音は陰陽師や退魔師に姉が狩られてしまいませんように、と昨日一分もかからない短い時間、祈りを捧げたのだが。
「…………」
(これは、その効果、なのか?)
七音は心の中で、首を九十度傾けた。
姉の顔は、化粧を施しているにも関わらず、化物化していなかったのだ。
ファンデーションは薄く、頬は健康的に、不自然で無い程度に彩られ、瞼もキツい色ではなく、恐らくベージュ系統で着色され、唇は控えめで可愛らしい、淡いピンク色を薄く塗っただけ。元々まつ毛は長く、アイラインもくっきりしていたので、態々しっかりとラインを引く必要も、つけまつげとマスカラを大量に使う必要はない。
極端に控えめな、素材を生かした、ナチュラルメイク。
化物が嘘のように美しく――化物と比較して、という意味で、姉が美しいという意味では無い――しっかりと、人間のままだったのだ。
「……音々、駅に迎えに来てくれた時と、随分化粧が……その、違うね」
勤めて淡々と、無表情に、若干どもってしまったが、テレビだけを見つつ気の無い風にそう問えば、姉は「あぁ」と、こちらも気の無い返事を寄こした。
「バイトよ?メイクきっちりしっかりばっちりやって、どうしろって言うのよ。別に、好みの男性もいないし、化粧品代もタダじゃないわ。気合い入れるだけ損ってものよ」
つまるところ、バイト先へはいつも、気合いの入ってないメイクで行っている、らしい。
「………………これだからねーちゃんは!!!」
「きゃっ!」
「ぐあっ!!」
「いきなりなによ驚くでしょう!?」
突如叫んだ七音に驚きつつも、姉は的格で正確な拳を、七音のわき腹に叩きこんだ。敵認識されたらしい。
七音は呻き、わき腹を抑えつつ絨毯の上に転がったが、痛みはしっかりしているし、顳顬を伝う冷や汗も本物だ。生きてるって素晴らしい。
怒りよりも驚きが強かったらしく、姉が七音の患部をつつきながら七音の安否を確認する。
「悪かったわ、おと。ちょっと本気で殴っちゃったけど、明日の受験、大事ないかしら……」
「ちょっと……わかんない……」
「今日は早めに寝なさい」
「そうする……って、そうじゃなくてだねお姉さん」
痛みを堪えつつ起き上がり、七音は炬燵に座り直す。身体は半ば姉に向け、テレビはリモコンで音量を下げた。
「波取音々さん」
「何かしら、波取七音さん」
「…………」
改まったは良いが、七音は言葉に詰まった。
どう伝えたものか。「あの化粧は完全に化物なのでやめなさい」という説教か、それとも「そっちのが可愛いよお姉ちゃん」という弟の可愛い懇願路線か。
「…………」
「なんなのよ。はっきりしなさい、おと。私が面接官なら、即刻不採用よ」
真剣に悩んでいれば、姉は呆れたように溜息を吐く。
七音は眉間に皺を寄せ、姉の言葉に反論した。
「大学受験もまだなのに、人事の話持ち出すなよ。気が滅入る」
「それもそうね。ごめんなさい」
「こちらこそ」
茶番のような会話は続くが、七音の頭はしっかりと、あの化け物メイクをどう止めさせるかに向いていた。
姉が化物メイクになるのは、決して姉の化粧技術が酷いからなどでは無かったのだ。
器用不器用で言えば、姉は器用な人間である。美術も技術も家庭科も、彼女の通知表は当然のようにオール五だった。勿論、五点満点中である。頭だって悪くない。美的センスが壊滅的であるとするならば、その見に纏っている服装は些か綺麗に纏まりすぎている。
(……ねーちゃんは、何であんなメイクしてたんだ……?)
心の底から、七音は疑問に思った。
だが、あんなメイクで外を歩いていたことは事実である。彼女は、それにまったくの躊躇いが無かったのだ。
「…………音々、俺、あの気合入ったメイクより、今のナチュラルメイクの方が、音々には似合うと思うよ」
可愛い弟も、説教まがいも違うと思い、ただ淡々と、七音の意見としてメイクの感想を伝える。
褒めるような言葉は使わず、似合うという言葉で濁す。
偏屈な姉に、これでどこまで通じるかは解らない。が、これが七音にできる最大の譲歩なのだ。
あとはもう、ノリと勢いでどうにかするしかない。
勢いなど、七音には欠片も無いけれど。
姉は眉間に皺を寄せ、地獄の氷よりも冷たい、刃のような鋭い視線で七音を睨めつけた。
「なに、おと。あなた、あたしのメイクに文句があるのかしら?」
それはもう。
しかし、姉の視線をナメてはいけない。
視線だけなら人は死なない。いくら死にそうに震えあがったって、まるで心臓に刃を刺し込まれたような気持になろうとも、決して死ぬことは無い。生き地獄と言ってもいいが、地獄イコール現世だとか、そう類の話は今していないのでパス。
若干意識を持って行かれかけたが、ぐっと堪え、七音は姉に対峙する。
「文句じゃなくて……ほら、姉にはいつでも綺麗でいてほしいっていう、弟心っていうか……」
「なら、前ので良いじゃないの。何で駄目なのかしら?」
腕を組んで、立ってもいないのに姉は酷く威圧的だ。いつの間に七音の身体は縮められてしまったのだろう。回避力が上がっていればいいのだが、伸しかかられたら二倍のダメージなのだ。ぺったんこならまだいいが、プチッという音と共に腹の中身を文字通りぶちまけることになるのは目に見えている。
(怖い……この人、ほんと怖い……)
血を分けた姉に対する感想ではないが、七音は昔から、姉の事を心底怖い人間だと思っていた。
死なない死なないと言い聞かせても、死のイメージは中々消えない。
想像上の七音はもう何度も死んで行った。己の屍を超えて、七音は行かねばならぬのだ。
「……ブスって言ったのは、おとじゃないの……」
俯き気味だったため、姉の様子を窺うのを七音は忘れていた。
姉はいつの間にか視線を逸らし、拗ねたように机の角を睨みつけていた。心なしか頬が膨れている気もするが、そんな子供っぽい拗ね方を姉がするとも思えないので――いや、この姉ならばするかもしれない。変に子供っぽいところのある人なのだ。
ブスって言ったのは。
(あれは――)
「いや、あれは!」
七音はそこそこ新しい記憶を呼び起され、焦ったように姉の肩を掴んだ。
別に、必死になって弁解する事も無い。
あれはただの反抗期で、姉弟喧嘩なのだ。
約二年前、姉がまだ高校三年生の実家住まいだった頃。
当時反抗期真っ盛りで、ある程度家族との接触を拒んできた七音。その時は酷く不機嫌で、無視よりも先に、口が勝手にものを言ったのだ。
『うっせぇ、話しかけんなブス』
その時の姉の顔を、七音は今でも覚えていた。
(そう、例えるなら、流れる水の様な……他の感情を総てシャットアウトし、赴くまま、本能のままに打撃を入れるまさにプロの殺し屋――!!)
その後訪れた、全身を抉るような体中の痛みと共に。
七音も馬鹿では無いし、何よりもう子供では無い。
たった二年ではあるが、七音もそれなりに成長したのだ。
「……あれは……その、反抗期で……えっと……だからその……」
そう、成長したのだ。
と言うより、体感したのだ。
(『コレ』に逆らったら……命は無い……!!)
経験に基づく、切実な生存への道、である。
「…………あの、あれは……ごめんなさい。俺が、悪かったです」
「……七音、解るかしら?」
姉がちゃんと名前を呼ぶのは、それだけ真剣である時だ。声は冷え切っていたが、敵に対して鋭く切り込む様子は無い。
あるのは鞭。
後輩を扱こうとする、先輩的な姿勢と視線。鞭は鞭だが、彼女の持つそれは制裁的なものではない。
怒りに任せた暴力で無く、次に繋げるための、叱責。
姉は淑やかに、正座した膝の上に両手を緩く重ねる。背筋はしゃんとのばされているのに、無駄な力は全く入っておらず、小さな子供の粗相を窘める、裕福な厳しい老婦人の様な風格。
「いくら昔の言葉とはいえ、七音は人間です。言葉を発した瞬間から、その言葉は七音のもの。七音が意識しなくても、例えうっかり出した言葉でも、出したからには七音の責任です。いいですか?責任です。責任なんです。悪口も褒め言葉も日常ぽろっと零した労いの言葉も、総て七音の責任。――そして、それをどう受け取るかは、七音の推しはかる向こう側。七音の預かり知らないところにあります」
敬語で、淡々とした説教。
普段が一撃で沈めていく爆発的な暴力で数多の事柄を押しきる姉なだけに、こういった、静かで圧力をかけて行く説教は効果的だ。
暴力的なのに静かだから効果的なのでは無く、オーラというか、見せ方と言うか。
自身が放つ雰囲気というものを、その場に合わせて、自在に操れるのが、波取音々という人間なのだ。
だからこそ効果的。そして、言う言葉にも重みがある。
姉の言葉は、基本的に誰かの付焼き刃だったりしない。姉が心に留め、心から支持した場合それを引用することはあるが、姉の言葉は、基本的に総て、姉の心からの言葉なのだ。
(あれっ俺、ねーちゃんの化物化を止めようとしてたんじゃなかったっけ……?)
「七音、聞きなさい」
自身の置かれた状況が解らなくなり、一瞬初心に立ち返るが、姉の一喝で現場に引き戻される。
「あたしは姉だし、家族だから良いです。いや、良くは無いんだけど……でも――七音が何気なく発した一言が、誰かの心を壊すことだってあるの。肝に銘じなさい。心に刻みなさい。人を傷つけてから気付くようなクソヤロウになりたいなら、受験も何もかも失敗して、電車の来てる駅のホームから滑り落ち、九死に一生を得て、ホームレスになって路頭に迷いなさい。……いいわね」
「…………はい」
後半部分は全く良くないが、姉の言いたいことは理解が行く。九死に一生を得たのは優しさなのか、まだ生き地獄を味わえというお達しなのか。
姉の言葉は正論である。
正論すぎて、日常で忘れてしまう。
けれども本当に、大切な事。
言葉はただの音では無い。単なる振動や周波数何かでは無い。
形には残らなくとも、それは確かに、誰かが生きて来た証に変わる。
「えっと……ごめんなさい。ねーちゃんは、今のままで十分……カワイイ、です」
『かわいい』だけが酷く棒読みになってしまった。恐らく、目も死んでいたことだろう。
だが、姉は満足そうに微笑み、「よし」と言った。
「じゃあ、あのメイクは止めてあげるわ。おと、良いわね、何度も言うけど、刻みなさい。言葉は得物よ。軽率な心で、振りかざしていいもんじゃない。わかったわね」
あなたのその特有の、場を作りだす能力と、『圧』も。
なんてことは言えず、七音は従順に、ただ小さく、それでもしっかりと頷いた。
音々さんは独特のオーラを持ってらっしゃいます。
七音は女子に陰で(もしくは目の前で)キャーカッコイーって騒がれるタイプのイケメン(性格は別)で、音々は平凡なりに整った容姿というイメージ(性格は鬼)。
そういや七音さんのビジュアル描写したこと無いなって気付きました。どっかにねじ込めたら今度ねじ込みますね。
ちなみに七音さんが「これだから!」ってキレた理由は、「気合の入れるとこがおかしいんだよこのタコ!」って感じです。