04 大学受験~バイト~
姉は元々、階段を上った二階の寝室を、七音の勉強部屋として活用する予定だったらしい。姉はベッドへ入って先に就寝。七音は後から持ち込まれたらしい小さな折り畳み式のテーブルに向い、背後に姉の寝言をBGMに、只管勉強に向かった。
姉の言った通りというか何と言うか、やはり七音は勉強に逃避するタイプの人間である。思いの外集中でき、気付いた時にはもう明け方。明日は受験当日なのだから、あまり夜更かしをするべきではないと思っていたのだが、最早今更、である。
「…………」
一緒に寝てくれとは言ったが、七音としては、姉と一緒に寝たいとは一切思っていなかった。勿論、姉もであろう。いい年をして、本気で姉弟で寝たいと思う者などいないのだから。
この時間――部屋も気付けばだいぶ明るくなっていた――になってしまったら、寝てしまうのもアレである。姉はいつ起きるか分からないが、寝るよりもまず腹が空いてきてしまったので、七音は朝食の準備を始めることにした。
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朝食と言っても、それほど手の込んだものは作らないし、作れない。
何より先ず、材料が足りなかった。
食パンをトースターで焼き、僅かに残ったベーコンと卵はフライパンでお好みに。七音は卵はとろとろ派で、ベーコンはカリカリ派だ。できれば野菜ばかりのサラダが食べたかったが、残り物のマカロニサラダで代用。それほど気合いを入れなくても、朝ごはんなのだからそう関係は無いだろう。七音にとっては朝ごはんで無く、ある意味では夜食である。
二日くらい寝なくても平気なのだが、流石に明日は試験がある。どこかで寝ておかなければ、流石にまずいだろう。気持ち的に。
「悪いけど、あたし、午後からバイト行かなくちゃだわ」
案外早く起きて来た――恐らく、ベーコンか卵を焼いた匂いに釣られてきた――姉の分も朝食を作り、そして食べつつ、七音は爆弾を投下された。
べちゃりとトーストの上から滑って、皿の上に落ちたとろとろの卵は、昨夜からずっと着っぱなしだった七音のジャージに、無残に飛び散った。
「うわっおと、それちゃんと洗濯しなさいよ。そのままベッドに入ったらしばき倒すからね」
「そうじゃない!待って!バイトって何だッぶえ!」
炬燵を叩き、身を乗り出しながら爆弾を落とした姉に問えば、当たり前のように、姉は七音の頬を叩いた。もしも受験までに頬の腫れが引かなかったら、何かしら責任を取らせようと七尾は決意する。
「何すんだよ!」
「ご飯中騒がしいのよ!座りなさい!行儀悪いわよ馬鹿おと!」
やり方は兎も角として、言っていることは正論なので性質が悪い。
頬の痛みは兎も角、大人しく座りなおす。暴力に訴える姉に言葉を通すには、暴力に訴えかけさせないことが大切である。姉は暴力的で力も強いが、筋の通らない暴力は行わない。
問題があるとすれば、その筋は姉の中で決められた筋であり、一般的常識とは斜め二十七度ほどズレた所にあること、である。
午後からバイト。姉は確かにそう言った。
「バイトってのは、アルバイトのことよ。仕送りを貰ってるとは言え、生活には何かとお金がかかるわ。節約は惜しみなくしてるつもりだけど、出来ない部分もある。服や化粧品は、女という性別に生まれたからには避けて通れないのに、一体全体、どうしてあんなに馬鹿高いのかしら。あたしもおとみたいに、男に生まれたかったわ」
はぁ、と大きく溜息をつき、姉は愚痴るように言う。
けれど、当たり前だが、七音が聞きたいのは、そんなことではない。
「ねーちゃんがバイトしてるかしてないかはどうでもいいんだよ!問題はそこじゃない!」
「あら、なんてこと言うのおと!あたしがバイトでAV女優とかしててもあんたは平気だって言うのね!?闇金融で取りたてしてても、イケナイ人たちとつるんで麻薬の売買をしてても、変な宗教でがっぽり儲けようとしてても、あんたはそれで良いって言うのね!?」
「いわねーよ!大体、ねーちゃんそういうの大っ嫌いだろ!」
「大っ嫌いよ!腹が立ってきたわ!」
「俺を殴るなよ!?」
「殴らないわよ!!姉を疑うなんてサイテーね!殴るわよ!?」
「結局殴る方向じゃねーか!!」
ぎゃあぎゃあと騒いでいれば、話はどんどん逸れて行く。
ギリギリ殴られる前に二人は落ち着きを取り戻し、七音は肩で息をしながら、姉は平然としたまま、朝食をゆっくりと再開する。けれど、肝心の七音の質問に、姉はちゃんとした答えを寄こしてはいない。
「ねーちゃんてば」
「何よ。ご飯の時は沈黙するものよ」
「俺は喋りながらの食事、好きだけどな」
「奇遇ねおと。あたしもよ」
喋るの好きなんじゃねーか。
ツッコミそうになるのを抑え、七音は皿の上に落とした卵焼きをトーストの上に乗せ、口の中に含む。噛み切って、とろとろの卵が沁み込んだトーストを咀嚼する。美味しい。とても美味である。七音はこの絶妙な焼き加減を極めるのに、丸一年かけたと言っても過言ではない。
姉も二口ほどトーストを食し、カリカリのベーコンを口に含む。満足そうに「うん、美味しい」と零すので、話しかけられたわけではない、飾らない感想に、七音は少しだけ、胸が熱くなった。純粋な言葉は、それだけ純粋に、心に響くのだ。
「バイトだけど、これ、仕方ないのよ」
やっと七音の疑問に答える気が起きたのか、姉は自分で淹れたコーヒーを飲みながら、ほっと息を吐いた。
「あたし昨日、おとのお迎え行ったじゃない」
「うん」
「ホントはね、シフト、昨日だったの。でも、おとの迎えに行かなきゃだから、一日変わってもらったのよ」
「…………」
なんてこった。
七音は胸中で頭を抱えた。まさか、自分のために、姉の予定を狂わせてしまったのだとは。
姉は基本、我儘で自分勝手だが、人の用事で自分を優先させることは無い。変な所で気は利くし、理不尽な事は言うが、正論も同じくらい言う。常識外れと思われる事はいくらでもするが、決して越えてはいけない一線だけは越え無い。
こんなでも、人を思いやり、人のために動く事のできる人間なのだ。こんなでも。こんなでも、だ。
七音は静かに息を吐き出し、姉に何をどう言った物かを考える。
受験などより、やはり姉という存在の方が、よっぽど難解だ。
「昨日おとに縋られちゃったし」
七音は決して縋ってなどいない。ただ、頼み込んだだけである。
「あたしも色々考えたんだけどね。でも、良い事思いついたのよ、おと」
姉の良い事は、大体七音のいい事ではないのだが、聞かなければ話は進まない。
七音は崩れていた足を正座に直し、姉の言葉を待つ。
姉は朝食を総て平らげると、コーヒーに息をかけ、また一口啜る。
「おと、あなた、あたしがバイト行ってる間、寝てなさい」
「……………………はぁ?」
姉の言葉に、七音は本気で首を傾げた。
寝てろって、でも、一人じゃん。
「昨日は一応、あたしの友達を呼ぶ事も考えたんだけど――」
そっちを抜擢してほしい気持ちが上がったが、一瞬にして萎む。
七音は幽霊も苦手だが、生きてる人間も、それほど得意な方では無い。
それはまぁ、死人よりは得意だが、だからと言って、受験のためにこちらに来ているのに、ここで他人と関わり、要らぬ心労を背負うのも、やはり御免被りたいところである。
しかも、何よりの判断材料。
『姉の友達』というところである。
類は友を呼ぶと言う。姉と同類のような輩が来て見ろ。七音の受験は、色んな意味で崩壊しか訪れないだろう。
最早、姉の言う「良い考え」に期待するしかない。いや、期待はさらさらできないが、賭けるしかない。
これは七音の恐怖と、恐怖と、受験の、人生をかけた戦いなのだ。
(頼むねーちゃん。マシな解答を出してくれ……!)
真摯に祈っていると、姉は眉を寄せて、「真剣にこっち見ないでよ。気持ち悪いわね」と辛辣な言葉を投げかける。そんなこと言っても、七音は色々な物の瀬戸際なのだ。真剣にならざるを得ないと言って良い。
姉は人差し指でピンと天井を指示し、得意げな顔で、言い放った。
「おと、あなた、寝てなさい」
「…………」
この無言は、正しいだろう。
「……え?何?どう言う事?」
「解らないの?おとは頭良いキャラの筈よ?どうしたの?」
「キャラって言うな生きた人間だ」
首を傾げる姉に、七音は淡々とツッコミを入れる。
姉は「はいはい」と投げやりに返事をし――この返事が七音のものだったら、姉は容赦なく「ハイは一回」と言いながら頬を叩いたに違いない――コーヒーを飲み干し、ことりと炬燵の上に置いた。
「あなた、起きてるから怖いのよ。どうせ夜、寝てないでしょう?なら、あたしが出る前に寝ちゃえば、あんた、怖い事ないじゃない。夜はかつ丼でも買ってきてあげるから、あなたはゆっくり寝てなさい」
案外七音のことを考えていたらしい発言に、七音は安堵した。
確かに、今日は寝ていない。姉が出る前に寝て、姉が帰ってから夕食に起こされて、色々準備をし、軽く参考書を読めば、明日の準備は整うだろう。神経質な面もあるが、寝ようと思えばいつでもどこでも眠れるのが七音の長所だ。夕方寝ていても、夜はぐっすり眠れるので何の問題も無い。
「……わかった。そうする」
「よろしい」
姉はにっこりと笑い、「洗い物はあたしがするわね」と七音の皿に残ったパンを七音の口に突っ込み、皿を回収していく。
「あ、くれぐれも、変な時間に目覚ますんじゃないわよ。黄昏時は、出るって言うからね」
強引な姉の優しさに暫し感動していたら、それら総てを吹き飛ばす、痛快な一言を投下し、姉は部屋から出て行ってしまった。