03 大学受験~料理~
お食べなさい、と出された料理は、まぁ、見られる物だった。
姉は器用ではないが、不器用でも無い。
壊れたテレビや家電を直すのは、父でも母でも、ましてや電機屋さんでも無く、七音と二つしか離れていない、この姉の役目だった。
いつからそうなったのかは定かではないが、きっかけは、壊れた電子玩具のヴァイオリンを諦めきれずに勝手に解体を始め、インターネットで検索しながら、総て直し切ってしまった事から、だったと思う。
「あのテレビね、一回壊れたんだけど、大学の技術部にお願いして機材と場を借りて直してみたら、案外楽に直ったわ。序に内部の掃除もしたから、前より映りが良いの。もっと褒め称えなさい」
料理に対する話題は振らず、姉は唐突にテレビの話を始めた。生憎今はテレビはついておらず、その映りの良さは窺えない。
彼女は食にはある程度五月蠅いはずだったが、自身で作るとなるとまた別らしい。食べられれば良いと言った感じで、七音が美味しいと素直に感じられるのは、ほぼマヨネーズで味付けられた、マカロニサラダくらいだった。
「……明日、料理俺が作ろうか?」
一応提案してみた。だが、姉は頬を膨らませて、眉を吊り上げた。
「今テレビの話してんのよ。何で料理の話になるわけ」
「テレビ、スゴイネ、サスガオネエチャン」
「まぁ、いいわ」
心がこもって無くても良いのは、姉の楽な所である。ただ、我儘すぎる部分はやはり面倒くさいため、どちらが勝つかと問われれば、七音は躊躇わずに面倒くさいの札を挙げるだろう。
心の籠らない解答を得ると、姉は自身の割りばしを茶碗の上に起き、手を正座した膝の上に重ね、とても綺麗に、七音に微笑みかけた。
「あたしの料理、不味いのかしら?」
威圧感は半端無かった。
そんなもの、食している姉にも解っていることだろう。ただ、弟に指摘される、という事実が嫌なのに違いない。
けれど、七音も七音である。伊達に姉と暮らして来てはいなかったし、面倒事を避けると、もっと面倒になることも知っていた。
一つ溜息を吐いて、七音も割り箸を置く。
「不味くは無いけど、美味しくも無い」
正直に言った。
姉は怒りっぽい。
と言うか、七音に対して限定で、怒りっぽい。
けれど、一件怒りっぽい姉だが、彼女が怒るタイミングは、微妙に人とはズレているのだ。
自身の料理を軽んじられれば、それは怒りたくなるものだろう。
だが
「そうよね。あたしもそう思うもの。別に美味しくないのよねー」
ふう、と息を吐きながら、七音に同意する。
彼女は例え自身が間違っていても、本当に彼女自身が間違いだと感じたなら、それをちゃんと認める事ができる人物だった。
傲慢にも見える態度は、プライドが高く一辺倒に見下ろすしかしない、高みの見物を決め込む小物のようにもみえるが、そうではない。
ただ、彼女は只管に素直なのだ。自身が悪いと思えばそれは悪い。軽んじられるのは少々腹が立つが、相手の言い分が正しい場合、彼女自身、それを認め、甘んじて受け入れることだろう。
ただ、自分の功績も正当に認めてほしい。
だから、テレビの修理の話を七音にしたのだ。
ただ姉は、褒めてほしかっただけ。
ちょっと暴力的で面倒くさいところはあるが、姉は何処までも、人間らしく、ちょっと変なだけの、一般人に過ぎないんのだ。
……それが果たして、一般人の枠に収まるかは、置いといて。
「で、おと、料理できるの?」
再び箸を持った姉の問いに、七音は首肯する。
最近は受験勉強のおかげでおろそかになっていたが、七音は料理を趣味としていた。本当は甘味を作りたくて始めたことなのに、どうにもそちらは上手く行かず、けれど料理は、師匠たる母から免許皆伝を言われるほどに上達した。
「バリエーションは多く無いけど……音々(ねね)の好きな、鯖の味噌煮も作れるよ」
「採用。あんたに任せるわね」
音々は、姉の名である。
にっこりと満面の笑みを浮かべて即答する姉に、七音は「へーい」と挨拶をし、少々味のおかしい味噌汁を啜った。これ、出汁取ってないタイプのやつ。
でも、と姉は思い出したように七音に問うた。
「あなた、受験勉強はいいの?」
七音が上京して、態々姉の家に身を置いているのは、受験のためである。明後日、明々後日は受験する大学に赴き、自身の賢さを十二分に発揮してこなくてはならない。
本来――一般的な受験生ならば、料理をしている暇など無いし、料理を食べている今この瞬間すら、単語帳片手に勉強していなければならないくらいには追い詰められていることだろう。だが、七音は、腐ってもこの姉の弟なのだ。
「俺頭良いし、料理は好きだし、気分転換になるから、いーの」
無表情にさらっと言ってのけたのは、世の受験生に刺されても仕方が無いような台詞だった。
「おと、あんたその内刺されても知らないわよ」
「誰も刺さないよ」
「刺すわよ。あたしとか」
「ねーちゃんかよ!!」
何で今更!と叫ぶ七音に、姉は一瞬きょとんとして、そして爆笑した。
「な、なんだよ……」
「あんた、アハハ!さっき『音々』って呼び捨てしといて……今、『ねーちゃん』って言った!」
「!!!」
不意に出てしまった言葉。出てしまった言葉は取り消せない。
七音もお年頃である。
昔は何気なしに呼んでいた「ねーちゃん」という単語もやはり恥ずかしく、姉に会ったらどう呼ぶか、姉の元で暫く世話になる事を決めた時、受験勉強よりもそちらが気にかかって仕方が無かった。そのおかげで、現実逃避をするために勉強に身が入ったとも言えるが、結局現実は、逃げてもその内追いついて来るものである。嗚呼、無情。
最終的に、姉と呼ぶのを止め、名前を呼び捨てることに決めたのは、あの駅で遭った時である。
完全に化物。
外であの化け物に会った時、「ねーちゃん」や「姉貴」などと呼んでみろ。
ほら、姉弟って、バレるだろう。
それだけは、七音は絶対に拒否したかった。
何故か、では無い。一目瞭然である。
あの化け物と、血が繋がっていると思われるのは、嫌なのだ。
音々も大概酷いが、七音も大概残酷である。
「じゃあ、いいわ。おとがやりたいなら、あたしが止めるのもおかしいもの。料理はあんたに任せたげる。明々後日、鯖の味噌煮作ってもらうから、心してかかりなさい」
ふんふんと嬉しそうに鼻歌を歌う姉に、七音は安堵の溜息を吐きながら、本題へ入ることにした。
「その代わり――」
「?そのかわり?」
きょとんと首を傾げる姉に、七音はかなりの沈黙と逡巡の後、矜持を捨て、自身の精神の安定のために、姉に頭を下げた。
「滞在の間、その……なるべく、一緒に、いて……ください……」
「……………………ぷっ」
恥を捨て、ホラー的な存在から自身を守るために行った行為に過ぎない。
姉は当然のように吹き出し、爆笑した。当然のように七音の頬は赤くそまり、けれども裏の墓を思うと青褪め、これは仕方の無い事だと自身に言い聞かせた。
「おと、アッハハハハ、あんた、ほんと……げほっげほっははは!」
「ね、え、ちゃ、ん!!」
「いーわよ……ふふっあ、でも、そうなると、あんた夜どうするのよ」
「え?」
今度は七音がきょとんと首を傾げれば、姉は簡潔に受験勉強の話を持ち出した。
「あんた、勉強に逃避するタイプの人間だから良いけど、寝る時は上と下バラバラよ。ベッドは上で、あんたにはそっち使ってもらう予定だったから」
「一緒に寝よう」
即決だった。
恐怖には変えられない。
当然のように姉は爆笑に爆笑を重ね、じたばたと暴れながら身体を倒し、床をバシバシと叩いた。下から苦情は来ないのかと心配になったが、二階建て構造のマンションだから、上に上がっていない限り、あまり気にならないのだろうと、七音は勝手に解釈しておいた。
もしくは、下に誰もいないか、姉のこういうのに慣れているか、だ。
暫くして笑いが収まったらしい姉は、ゆっくりと身体を起こし、「いいわよ」と告げた。
未だひくひくと震える肩と、目尻に溜まった涙が、どの程度彼女の笑いのツボにハマってしまったのかを顕著に表していた。不名誉だ。
「そのかわり、寝にくいとか言われても、困るからね。あと、今度ケーキ奢りなさい」
鯖の味噌煮の変わりという話はどうなったのだろうか。
けれど、こういうアッサリしたところは、数少ない、七音が好きな姉の面である。