第3章「揺らめく陽炎と揺らめく街」
放課後。
『お買いものを頼みたいのですが』
『了解』
祀の命令を一言で了承した僕はスーパーに来ていた。
彼女からの命令は絶対だ。
僕の居候という立場が弱いからではある。
しかしこれといって仕事などは殆ど何もしていない(阿形と吽形が自分から進んでやる)からこれくらいは当然といえば当然とも言えるだろう。
という訳で現在は独り。
全国で展開されている店舗というのもあって客は多い。
夕飯時というのもあるだろう。
取り敢えず頼まれたものをカゴに入れる。
あ、シャンプー無くなりそうなんだった。入れておこう。
ついでに全員分のアイスを入れ、会計を済まし、店を出る。
太陽は沈みかけ、街を赤く染めていた。
悪霊じみた陽炎がゆらゆらと揺らめいている。
僕はアイスを買うべきではなかったか、と反省しながら足早に歩道を進む。
融けてしまう、という理由もある。
しかし最も大きな理由は僕が誰かに追われている、という事だ。
数日前からこんな事が始まっている。
勿論、僕に心当たりは無い。
後ろを振り返っても一般人に扮しているのかそれらしい者は見られない。
だから僕はできるだけ裏道は使わず、遠くても大通りを歩いていた。
少なくともこうしておけば襲撃される事は無いだろう。
「ん?」
その時僕は疑問を持った。
何かがおかしい。
僕は街の中心にそびえたつ、駅の時計塔を見上げた。
針は午後7時前を示している。
買い物に行き帰りをする主婦、帰宅するサラリーマンや学生。
まだまだ人が活動する時間だろう。
ひどく静かだった。
僕は周囲を見回す。
洋風建築の並ぶ風景。
街灯や街路樹が連なる景色。
そこには存在する筈の『歩行者』が一切居なかった。
それだけではない。
大通りには車も通っていなかった。
まるで精密な映画のセットの中に入ってしまったような気分。
いつの間に、と僕は戦慄する。
流れる汗が急速に乾き、暑さはどこかへ行った。
寧ろこんな光景に怖気すら感じる。
僕は焦りからそこを走りだし掛けた。
しかし足が竦む。
呆然としながらそこに立ち尽くす。
僕だけがこの世界に取り残されたとでも言うのか。
「突然ごめんなさい、あなたの姿が見えたから」
唐突に掛けられた声に僕は飛び上がりそうになった。
がちがちと振り返る。
「……千鶴?」
そこに居たのは見慣れた顔。
僕は安堵の溜息を吐いた。
知り合いに出会えた、という事だけで安心した。
一体どんな現象なのか知らないが彼女ならこの状況から助けてくれる筈。
「で、君がどうしてここに?」
「この現象、私が起こしているのよ」
「……え?」
一体どういう事ですか。
「人前では話せない事だからこうして作った異空間に招いて話しているって事よ」
人前では話せないだって。
「もしかして告は」
「違うわよ。冗談はやめて」
鋭い睨み付きでばっさりと切り捨てられた。
ちょっとふざけただけでこの破壊力。
僕のテンションが2割程下がる。
「……で、話って何なのさ?」
「ある企業に突入する話」
あっさりと、千鶴はとんでもない事を言った。
この人は一体何を言っているんだろうか。
異空間に僕を誘い込んでまでする話ではあるのだろうが。
確かに人に聞かれたらまずい話ではあるだろうが。
「今から貴方の頭に突入する研究所の情報を送るからパニックにならないで」
「本当にやる気なのか……」
僕はうんざりとする。
「巻き込んでしまったのには謝罪するわ。だけどこうしないと貴方にも危機が及ぶ可能性があったの」
彼女は瞼を閉じる。
その顔に一粒の汗が浮かんだ。
「転送」
そう呟いた瞬間、僕の脳裏に何かが浮かび上がった。
それは鮮烈に、鮮明に焼き付く。
僕は情けなく叫び出しそうになったがなんとか堪えた。
眼を開いているのに、ちゃんと現実? の風景を認識しているのにこの映像は細部まで見てとれる。
それは研究所の見取り図らしかった。
実際の風景も浮かんでいる。
一見すると病院の中みたいだ。
しかし不思議な事に鉄格子の部屋がいくつも見られた。
その中には衰弱した幼い子供が何人も入っている。
その顔には一切の生気が感じられない。
廃人のような姿だった。
訳がわからなかった。
これが彼女の能力である『テレパシー』なのはわかる。
しかし僕は気圧されていた。
「『異能真理研究所』という名前は知っているかしら?」
慣れて動悸が収まった時、千鶴がそんな事を訊いた。
その名前には覚えがあった。
「能力を研究してる研究所だろ? 事故とかで業績が下がってるっていう」
「それでも未公表の研究理論を持っているという理由から日本においてはかなりのシェアを誇っているけど」
そう言う千鶴の顔は興味無さげだった。
「で、いきなりどうしてそんな研究所に襲撃なんて物騒な事を?」
それがわからない事だった。
超能力の研究とはまだまだ発展途上だ。
メカニズムはある程度解明されているとはいえ『能力』にはまだまだ謎が多い。
ゆえに能力開発のトップである朧想街ではそういった研究所が重要視されている。
更に、その中で独自の研究理論を持っているという『異能真理研究所』を襲撃するというのは研究対象として多くのお金を支給されている彼女にとってはおかしな話である。
そこまで行って僕はふと千鶴の立場を考える。
彼女は一応能力者である。
巳肇程ではないが高いレベルの。
ならば彼女はバイトをする必要は無い筈だ。
しかし千鶴は西風苑でアルバイトをしている。
そこから推測される理由。
それは彼女がどこの研究機関にも協力していないという事。
つまり千鶴にとっては研究所などどうでもいいという事になる。
しかしそれでも襲撃する理由にはならない。
何より僕の身に危険が及ぶ、という言葉。
不明な点があまりにも多すぎる。
「第1の理由。『異能真理研究所』は非人道的な実験を繰り返している」
千鶴の言葉を僕はそのまま呑み込めなかった。
非人道的な実験だって?
そんなのまるで、
「フィクションじゃないか……」
「だけどそれが真実なの。残念だけれど」
「……それを裏付けできる材料は?」
「いくつもあるわ。抱え切れない程は」
千鶴はスカートのポケットから何やら書類を取り出す。
突き付けられたそれを僕は見詰める。
それは『異能真理研究所』がどのような実験をしているかを詳細に纏められたものだった。
20枚近くはあるだろうか。
データのテキストを印刷したもの。
「これだけでもほんの一部よ」
千鶴がぼそりと告げる。
僕は恐る恐る、その紙を受け取る。
そして落ち着く為に深呼吸すると、それに目を通した。
第1762次『能力開発』実験報告書
提出日:7月 13日
担当者:3875-D 福来伴拮
1.目的:
・主題:能力の開発と効果の観察
・予想結果:発現、効果共に個人差有り
2.方法
・被験者名:683-S 長納巳肇
・実験日:6月21日
・実験材料:モルフィア・ヘライア・ピノリジニン・アンフメア・ミルファナ・LDXA・痛覚刺激
・実験方法:上記薬物、及び器具を用いた痛覚刺激、閉所、暗所の中での拘束による脳のダメージとそれに伴う能力発現の観測
3.結果
被験者に30日間上記の実験を繰り返した結果、被験者の脳に大脳皮質が12cm^3程肥大化するなど変化が見られた。それに伴い、能力にも大幅な変化が観測された。
4.考察
脳を破壊寸前まで刺激を与えた場合、通常の場合と比較し、能力に向上が見られた。これらの結果から脳は生命の危険を感じる事によって能力を発展させるのだと推測できる。他の被験者と比べて明らかな差が見られた為、ほぼ予想通りと言える。今後は発現する能力の差について研究するべきであろう。
明朝体で印刷されたその文章は一切の味気が無かった。
故に背筋がゾッとする。
文章やグラフがあるだけなのに不気味だった。
力が抜けて、持っていた紙の束がばさばさと地面に落ちる。
地面にへたり込みそうになった。
まさか彼女がこんな目に遭っていたとは思いもしなかった。
何故だか泣き出しそうだった。
「――ごめんなさい」
千鶴が申し訳なさそうに謝った。
僕は重々しく口を開く。
「こんなのが本当に行われているって言うのか……?」
「……ええ。何もかもが事実よ」
「なら、これを世間に公表すれば……!」
「134回。各機関に報告したけれど全部無駄だったわ。つまり、国家レベルの組織がグルなのよ」
腐っている、と思う。
必要悪という言葉が脳裏を過った。
確かに朧想街は能力開発によって力があると言っても過言ではない。
しかし、だからと言ってはい、そうですかなんて言える訳がなかった。
「だから私は止めに行かなければならないの。実験の被害者の1人として」
「実験の被害者?」
「昔の話よ。それにここまでではなかったわ。それでも悪夢のような日々だったけれど」
千鶴はどこか遠い場所を見詰めて話す。
その横顔はいつもの仏頂面にも見えるがどこか恐怖に怯える子供の顔にも見えた。
「だから私は見逃す訳にはいかないの。この事実から」
千鶴はこちらに向き直る。
「そして研究所は貴方を標的にしているの。心当たり、あるわよね?」
「うん、数日前から誰かに追われてる」
「おそらく彼らね。私や彼女――巳肇に近い人物を狙っていたところ、比較的簡単そうな貴方が選ばれたみたいね」
「簡単そうって……みんなの協力があったとはいえ一応朧想街の危機を救ったのに……」
「研究に没頭しているとニュースを観ている暇なんて無いのよ」
で、と彼女は続け、こちらの目を見詰める。
「貴方に危機が及ばないように研究所が無力化するまでこの空間に居て欲しい訳だけれど。どうする?」
その言葉を僕は反芻する。
無力化されるまで?
それはいつまでだ?
こんな何にも無い世界でたった独り、過ごせって?
非道な実験を繰り返す悪魔じみた連中を無視して?
冗談じゃなかった。
見過ごせる訳がない。
僕はさっきの光景を思い出す。
希望を失った子供たち。
そしてこんな過去を体験しながらも気丈に振る舞っている千鶴や巳肇の顔。
僕はゆっくりと口を開く。
「千鶴、僕も付いて行かせてくれ」
「本気なの? 死ぬかもしれないわよ?」
鋭い眼。
それが僕を射抜く。
怯みそうになるが僕は彼女の目を見返す。
「当り前だよ。テレパシーしてまで僕に研究所の見取り図や現状を教えたのに確認する必要があるの?」
千鶴は僅かに目を見開いた。
僕は彼女の顔を見据える。
「早く行こう。手遅れになる前に」
「……感謝するわ。では付いて来て頂戴。案内するから」
そうして景色が歪む。
町並みが歪曲していく。
千鶴が発生させた空間から僕達は元の世界に戻る。
僕は拳を握り締めた。
巳肇は独りで戦っているのだから。