心労
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俺は今疲れている。心が言いようのないぐらいダメージを受けているのだ。この疲労は取れるのだろうか……?最近、自宅マンションから会社に出勤するにしても、妙に疲れてしまっているのが現実だ。このことを職場で上役の山岡次長に話すと、
「ああ。それなら俺が月一回通ってる心療内科に行ってドクターに話聞いてもらえよ。それに安定剤とか睡眠導入剤なんかも出してもらえるからな」
と言って、手元にあったメモ用紙に住所と病院名を書いてくれた。街の中心部にあり、ビルの中にテナントとして入っている心療内科だ。行ってみることにした。幸い平日も午後八時までやっているようで、ドクターは木山雄吾というらしい。まだ若手だが、数年前までアメリカの大学の医学部に留学していて医学博士のようだ。精神病大国アメリカで精神医療の最前線にいたらしい。十月下旬の幾分秋雨が降る日に行くと、木山が「初めまして」と挨拶してきた。俺も一礼し、勧められた椅子に座る。木山がパソコンの画面に目を落とし、キーを叩き始めた。これは電子カルテというやつで、今医師は皆こういった形で業務を執り行なっている。手書きする人間など皆無に等しい。
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「勝木さん、一体どうなさいました?」
「最近、妙に疲れてて」
「それはお仕事で、ということでしょうか?」
「そうですね。管理職ですが、部下たちと意見が合わないことがあって」
「今、そういったサラリーマンの方って結構多いんですよ。職場できついって感じてらっしゃる方たちが」
「じゃあ私のような人間も珍しくないと?」
「ええ。というよりも、私もそういった方たちを大勢見て差し上げてるんですよ。共通項がありましてね。真面目な方で、物事を考え過ぎておられますし、何かというと仕事に打ち込むタイプの方たちが躁鬱病や統合失調症、てんかんなどに罹りやすいんです」
「私、そんなに真面目ですかね?」
「上下ともスーツを着こなされて、一見してとても清潔な感じがしますね。第一印象から判断しても一番精神病に罹りやすいタイプの方だと思います」
「意外だな。私は結構抜けたようなところもあるんですが」
「今まで胃とか腸を悪くされたことはありますか?」
「ええ。前の会社辞めて、今の会社に勤め始めてから十五年になるんですが、転職時に胃を悪くしましてね。胃薬飲みました。今でも会議などで胃をやられると薬飲みますけど」
「やはりあなたは真面目人間で、おまけに完璧主義ですね。普通胃をやられるまで人間は我慢しませんよ。多少なら分かりますが、胃薬を飲まれるということは相当お疲れの証拠です」
「じゃあ、私の心労もやはりストレスや緊張感から来てるんですか?」
「そうですね。間違いありません。勝木さんの症状は典型的なストレス病です。一応軽めの精神安定剤と、眠れない夜などに備えて睡眠導入剤をお出ししておきますので、お飲みになって様子を見てください。それで改善しなければ、またおいでくださいね」
「分かりました」
頷き、席を立ってから一礼し、歩き出す。待合室は独特の雰囲気だった。精神科とか心療内科の患者のいるフロアは大抵、静かな音楽などが掛かっていて皆が黙り込んでいる。しかも決まって何もしないで、宙を見つめてボォーッとしているのだった。これが実態だ。確かに抵抗がある。俺自身、一つのフロアの主任を任されていて責任者だから、部下たちを路頭に迷わすわけにはいかないのだし、一日が終わるまでしっかりと頑張っている。管理職の実態を考えると、こういった病院での患者の行動はおよそ理解し辛い。だけど実際近くの席に座っている患者たちは何もしようとしない。おそらく強めの安定剤などを飲まされていて、眠気が差しているから何も出来ないのだろう。可哀相にと思いながらも、他人事じゃないとも感じていた。現に俺だって今日からその手の薬を飲み始めるからだ。もちろん勤務時間中に眠気が差すことはまずない。あの、俺よりも上にいる次長の山岡もおそらく安定剤や眠剤を飲んでいるものと思われる。確かに山岡は薬の効果で安定しているようだった。飲んでから一体どうなるのかは分からなかったのだが、幾分精神的に落ち着くと思う。そう思って待合室で病院代の清算が終わるまで待ち続けた。
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幾分高い治療費を支払い、同時に安定剤などの薬類を受け取ってからフロアを出る。心労も誰かに話せば少しは癒えるものだ。疲れていた心がすっきりするのが分かった。木山はさすがに現役の精神科医だ、患者の症状を見抜く力がとても早い。感心していた。一人で抱え込む必要はないと思う。これから先はこの<メンタルヘルスケア木山クリニック>に世話になるつもりでいた。仮にこれから症状が安定しないで、病状が続けばの話だが……。確か所定の手続きを踏めば、医療費が安くなるようなことも聞いていた。だが何はともあれ、木山に会えて元気が出ている。精神科や心療内科に通うということは今の日本でも珍しいことじゃないらしい。山岡に紹介してもらい助かっていた。それに木山に最後一言言われたことを鮮明に覚えている。「どんなにお忙しくても、絶対にご自宅にお仕事を持ち帰らないでください」という言葉だ。二歳年上の妻の美佳子と子供二人が家で待っているので、俺も家じゃ仕事をしないことにした。帰宅したら一家団欒して、家族内でいろんな話をしながら、ゆっくりと夕食を取ることに決めた。それに疲れたときは休むのが一番である。美佳子も俺が疲れて帰ってきたときはゆっくりとした時間を作ってくれるだろう。現に最近、俺の横顔が冴えないのを見て取り、
「モーツァルトのクラシックを通販で頼んだわ。リラックス効果があるって思って」
と言っていた。俺自身、美佳子が案外悩み事の核心部分を見抜いていることを知り、気持ちを預けてもいいと思っている。やはり妻は夫のことを察するらしい。高校卒業後、最初の会社に入って丸五年、その後、今の会社に落ち着いて十五年になるからだ。サラリーマンとしてのキャリアはちょうど二十年だった。三十八歳という今が一番脂の乗った時期である。美佳子や子供たちのために働かないといけない。だけど木山の忠告通り、仕事は持ち帰らないことにした。自宅マンションに帰れば、美佳子や子供たちと一緒に食事を取る。大概、午後八時前には帰宅していた。子供たちは年子で二人とも小学校の高学年だ。直に中学に入る。また新たに学費などが必要となった。それを工面するためにも働かざるを得ない。子供たちもどんどん大きくなっていくからだ。それに美佳子も通販などで化粧品やブランド物などを結構買い込んでいる。専業主婦だが、家にいても退屈なので普段は外で主婦仲間たちとお茶会などをしているらしい。妻の気持ちは十分分かる。そういったときに使う金として毎月給料から五万ほど渡していた。それで穴埋めが出来るようだ。まあ、美佳子もお金があった方がママ友の中にいても困らないのだから……。
そして安定剤と眠剤を飲みながら、俺は溜まっていた心労がまるでウソだったかのように止まった。もう疲れることはない。安心して仕事に精を出すつもりでいた。もちろん自宅ではいい父親として妻や子供たちの顔を見続ける。その繰り返しで時が流れていった。確かに職場に行けば仕事はきつかったのだが……。
(了)