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海月記

作者: Gaia
掲載日:2026/03/24

其の夜、月は蒼白く、海は凪いで、ただ鏡面のように静まり返っていた。

私は、ある富豪の令嬢、あの方の執事であった男だ。 

 

あの方――お嬢様は、真に美しく、また多才な御方であった。

幼き頃より、その才は光り輝き、誰もがその将来を約束されたものと信じて疑わなかった。

 

父君の厳しい躾の下、お嬢様の人生は、完璧に敷かれたレールの上を、ただ一筋に進むよう設計されていたのだ。

ピアノ、絵画、学問……、何を為させても一等であったが、その横顔には、常にどこか、この世のものならぬ、冷やかな孤独が漂っていた。

 

私は、その孤独を、その苦悩を、傍らで見てきた。

 

完璧であらねばならぬという、逃げ場のない拘束。

やるべきこと、演じるべき役柄に、日々をただ消費されていく焦燥。

お嬢様にとって、その溢れる才能は、己を縛り付ける鎖に他ならなかったのだ。

 

ある夜、お嬢様は、私に向かって、ぽつりとこう仰った。

 

「執事、私は、ただふわふわと浮かんでいたいのです。あの海月のように。何もしなくていい、ただそこに存在するだけの、自由な存在に」

 

その言葉に、私の胸は裂けるかと思った。

 

あの方の心が、どれほど自由を渇望していたか。

 

だが、私はただの執事。

 

その重荷を代わって背負うことも、その檻を壊すことも、出来なかった。

私は、ただ「あの方の苦悩」を知っているだけで、助けることの出来ない、無力な傍観者に過ぎなかったのだ。

 

そして、お嬢様は姿を消された。 

 

幾年もの月日が流れ、私は、ある静かな海岸に立っていた。

 

月の光を浴びて、海面に漂う、一匹の、異様に巨大で美しい海月に目が留まった。

 

その青白く、透き通るような体は、かつてのお嬢様の、あの冷徹なまでの美しさを彷彿とさせた。 

 

私は、直感した。

 

「……お嬢様」

 

私の声は、海風に消えたが、その海月は、微かに、私の方へ寄ってきたように見えた。

 

そして、私の心の奥底に、あの懐かしい声が、直接響いたのだ。

 

「……ああ、あなたでしたか。お久しぶりです」

 

声は、かつてのような凛としたものではなく、ただただ、静かで、ふわふわとしていた。

 

「驚かれたでしょう。私がこのような姿になったことを。……ですが、これが私の、本当の姿なのです」

 

海月は、月の光の中で、ゆっくりと、その体を伸縮させた。

 

「私の、完璧への呪縛と、自由への恐怖とが、私をこの海月にしたのです」

 

あの方の声は、冷たくも切なかった。

 

「誰よりも優れていなければならないという、逃げ場のない自尊心。そして、その期待を裏切ることを、何よりも恐れる、羞恥心。それらが、私の心を、あの完璧なレールの上に、縛り付けていた。才能は、私の心を育むどころか、その重みで、私を窒息させようとしていた。私は、その窒息に耐えかね、ついに、心を失うことを選んだのです。」

 

「この、ただ浮かぶだけの、海月の姿を」

 

私は、涙が止まらなかった。

 

あの方の苦しみを、その才能が重荷であることを、知っていたのに。

ただ知っているだけで、助けることのできなかった、私の無力が、悔やまれた。

 

「あなたは、知っていましたね。……いいのです。誰も、私を助けることは出来なかった。父君の、そして私自身の、その呪縛からは」

 

海月の心は、静かに、私の涙を包み込むようであった。

 

「私は、今、自由です。ただふわふわと浮かび、月の光を浴び、潮の流れに身を任せる。何もしなくていい、ただ存在するだけの、この静かな自由。

かつての私には、これが、何よりも恐ろしいものでした。……ですが、今となっては、これこそが、私の求めていたものだったと、知ったのです」

 

月の光が、次第に薄れていく。

 

海月の青白い光も、夜の闇に、溶け込んでいくようであった。

 

「……さようなら、執事。あなたの忠誠を、感謝しています。……もう、私のことを、案ずる必要はありません。私は、この海で、ただ浮かぶだけの、自由な海月なのですから」

 

声は、潮の満ち引きに、かき消されていった。

 

月の光は弱まり、夜の闇が、海辺を完全に支配した。

 

私は、ただその、完全に海月となったお嬢様の、その背中――いや、その浮かぶ姿を、涙を流しながら、見送るしかなかった。

 

そして、月は沈み、夜明けが来る。

 

お嬢様は、もう、二度と、完璧な令嬢に戻ることはない。 

 

この海で、ただふわふわと浮かび続ける、自由な、そして孤独な海月として。

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