海月記
其の夜、月は蒼白く、海は凪いで、ただ鏡面のように静まり返っていた。
私は、ある富豪の令嬢、あの方の執事であった男だ。
あの方――お嬢様は、真に美しく、また多才な御方であった。
幼き頃より、その才は光り輝き、誰もがその将来を約束されたものと信じて疑わなかった。
父君の厳しい躾の下、お嬢様の人生は、完璧に敷かれたレールの上を、ただ一筋に進むよう設計されていたのだ。
ピアノ、絵画、学問……、何を為させても一等であったが、その横顔には、常にどこか、この世のものならぬ、冷やかな孤独が漂っていた。
私は、その孤独を、その苦悩を、傍らで見てきた。
完璧であらねばならぬという、逃げ場のない拘束。
やるべきこと、演じるべき役柄に、日々をただ消費されていく焦燥。
お嬢様にとって、その溢れる才能は、己を縛り付ける鎖に他ならなかったのだ。
ある夜、お嬢様は、私に向かって、ぽつりとこう仰った。
「執事、私は、ただふわふわと浮かんでいたいのです。あの海月のように。何もしなくていい、ただそこに存在するだけの、自由な存在に」
その言葉に、私の胸は裂けるかと思った。
あの方の心が、どれほど自由を渇望していたか。
だが、私はただの執事。
その重荷を代わって背負うことも、その檻を壊すことも、出来なかった。
私は、ただ「あの方の苦悩」を知っているだけで、助けることの出来ない、無力な傍観者に過ぎなかったのだ。
そして、お嬢様は姿を消された。
幾年もの月日が流れ、私は、ある静かな海岸に立っていた。
月の光を浴びて、海面に漂う、一匹の、異様に巨大で美しい海月に目が留まった。
その青白く、透き通るような体は、かつてのお嬢様の、あの冷徹なまでの美しさを彷彿とさせた。
私は、直感した。
「……お嬢様」
私の声は、海風に消えたが、その海月は、微かに、私の方へ寄ってきたように見えた。
そして、私の心の奥底に、あの懐かしい声が、直接響いたのだ。
「……ああ、あなたでしたか。お久しぶりです」
声は、かつてのような凛としたものではなく、ただただ、静かで、ふわふわとしていた。
「驚かれたでしょう。私がこのような姿になったことを。……ですが、これが私の、本当の姿なのです」
海月は、月の光の中で、ゆっくりと、その体を伸縮させた。
「私の、完璧への呪縛と、自由への恐怖とが、私をこの海月にしたのです」
あの方の声は、冷たくも切なかった。
「誰よりも優れていなければならないという、逃げ場のない自尊心。そして、その期待を裏切ることを、何よりも恐れる、羞恥心。それらが、私の心を、あの完璧なレールの上に、縛り付けていた。才能は、私の心を育むどころか、その重みで、私を窒息させようとしていた。私は、その窒息に耐えかね、ついに、心を失うことを選んだのです。」
「この、ただ浮かぶだけの、海月の姿を」
私は、涙が止まらなかった。
あの方の苦しみを、その才能が重荷であることを、知っていたのに。
ただ知っているだけで、助けることのできなかった、私の無力が、悔やまれた。
「あなたは、知っていましたね。……いいのです。誰も、私を助けることは出来なかった。父君の、そして私自身の、その呪縛からは」
海月の心は、静かに、私の涙を包み込むようであった。
「私は、今、自由です。ただふわふわと浮かび、月の光を浴び、潮の流れに身を任せる。何もしなくていい、ただ存在するだけの、この静かな自由。
かつての私には、これが、何よりも恐ろしいものでした。……ですが、今となっては、これこそが、私の求めていたものだったと、知ったのです」
月の光が、次第に薄れていく。
海月の青白い光も、夜の闇に、溶け込んでいくようであった。
「……さようなら、執事。あなたの忠誠を、感謝しています。……もう、私のことを、案ずる必要はありません。私は、この海で、ただ浮かぶだけの、自由な海月なのですから」
声は、潮の満ち引きに、かき消されていった。
月の光は弱まり、夜の闇が、海辺を完全に支配した。
私は、ただその、完全に海月となったお嬢様の、その背中――いや、その浮かぶ姿を、涙を流しながら、見送るしかなかった。
そして、月は沈み、夜明けが来る。
お嬢様は、もう、二度と、完璧な令嬢に戻ることはない。
この海で、ただふわふわと浮かび続ける、自由な、そして孤独な海月として。




