受けてもいない恩を着せられて黙っているような女ではない
キラキラと輝くシャンデリアの下。
お互いを見つめ合い優雅にダンスをしている2人。
頬を薔薇色に染め、目を潤ませながらシャンデリアの光を浴びた金の髪を輝かせているオリビア・ラヴァール伯爵令嬢。
意志の強さを感じる瞳をゆるませ、優雅に令嬢をエスコートして完全に2人の世界を作り上げている"私の婚約者" オリバー・キース伯爵令息。
この場にいる誰もが、婚約者同士ではないはずの2人が纏う甘い雰囲気に気が付いている。
だが、誰もそれを指摘するようなことはしない。
こういうことは"よくあること"なのだ。
政略結婚を前に想い人ができてしまった。
だがお互いの立場を慮り、その想いは声には出さない。ただ社交界の場で目線を交わし、当たり障りのない会話を交わし、目で秘めた想いを仄めかす。
目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。
ここでお互いの婚約者を蔑ろにしていればまだ、文句の一つでも言えるのだが、この2人はそこに関して全く抜け目がなかった。
オリバー様は婚約者同士の交流を深めるためのお茶会には必ず参加し、手紙のやりとりも欠かさない。
私を貶すような言動はしないし、『グレースに似合うと思って』とオーダーメイドのアクセサリーやドレスも贈ってくれる。今日私が身につけているドレスもアクセサリーも、オリバー様からの贈り物だ。
婚約者を大切にしているのはオリビア様も同様らしい。
そして婚約者同士ではない2人は、毎回ダンスはするものの踊るのは1曲だけで、必ず2曲目には入らず婚約者の元に戻ってくる。2曲以上続けて踊るのは婚約者同士でなければならないという社交界の決まりを律儀に守っているのだ。
そのため、社交界の決まりを守り、それぞれの婚約者を大切にし、それ以上の行動を起こさないというこの"叶わぬ恋に酔いしれる2人"の醸す雰囲気は貴族社会では許容されている。
貴族社会では……。
婚約者である私からすると、気持ちの良いものではない。政略結婚とはいえ、彼とは良い関係をこれまで築いて来たつもりだ。
熱く燃え上がるような想いを抱けなくとも、これから人生を共に歩む者としての信頼が芽生えていた。
その相手が自分ではない別の女性へ心を寄せている様子は、仕方のないことだと理解はしていても面白いものではなかった。
しかし、ここで私が不愉快な顔を少しでも見せたら、私は周囲から"嫉妬深い無粋な者"とみなされてしまうおそれがある。だからこそ、今日も私は朗らかに微笑みながら小さなため息を扇子の奥にそっと隠しているのだ。
2人の空気にあてられないようにと、ふと視線を外すと1人の男性と目が合いお互い軽く頭を下げる。
(大変そうですね)
(お互いにね)
目で短く言葉を交わすと、何事もなかったように視線を元に戻す。
オリビア様の婚約者ブライアン・ビューフォード侯爵令息とは当たり障りのない会話しか交わしたことがないが、今では勝手に同志のように感じている。
そんなに長くはないはずの曲が終わるのを、永遠に続くように感じていた頃。
ようやく曲が鳴り止み、婚約者がこちらに余韻を噛み締めるようにゆっくりと歩いてきた。
「グレース、お待たせ。次の曲どうかな?」
最初の1曲を踊ってもう疲れたから、と断ってしまいたいのは山々だが、そうすると周囲からは婚約者の慎ましい秘めやかな恋心にも目くじらを立てて拗ねる器量の狭い女、というレッテルを貼られかねない。
社交界で求められるのは"器量の狭い女"ではなく"物分かりの良い女"なのだ。
「ええ、喜んで」
差し出された手を取り、ゆっくりと中央に歩み出る。
そして私はこの場の振る舞いとして大勢から望まれているように、仲良さげに微笑みながら婚約者とワルツを踊った。
※※※
夜会が終わりいつものように侯爵家に戻り、寝支度を終えた頃。
部屋にノックの音が響いた。
部屋に入って来たのはお母様とメイドのメアリー。
「少し話さない?グレース。あなたの好きなオレンジブロッサムをメアリーが用意してくれたのよ」
「はい、お母様。メアリー、ありがとう」
「とんでもないことでございます。今ご用意いたします」
メアリーは慣れた手つきでテーブルをセッティングし、お母様と私のティーカップにオレンジブロッサムを注ぐと静かに部屋を出て行った。
私とお母様がこうしてオレンジブロッサムを飲みながら語り合う時は、呼ばれるまで部屋を出るのが暗黙のルールになっている。
オレンジの爽やかで甘い香りが湯気と共に漂ってくる。
口をつけ、その香りや温かさに私の表情が緩んだのを確認したお母様が口を開いた。
「グレース、今日も変わりなかった?」
「はい。いつもと変わりありませんでした」
「そう。変わりなかったのね」
お母様はよかった、とは言わなかった。お母様も現状に気がついている。オリバー様が私ではない女性に心を寄せていることに。
それでも、それだけでは何もできない。
苦言を呈すことすら現状ではできないのだ。
何かわかりやすい行動を取ってさえくれれば現状を少しでも変えることができるのに、それすら叶わない。胸に燻るもやもやを抱えたまま、これからも2人の"秘めた恋"を見守り、私はこのままオリバー様と結婚をするしかないのだ。
「あと2ヶ月ね」
「はい」
2ヶ月後、私とオリバー様は結婚し、オリバー様は我がハートウォード侯爵家に婿入りすることになる。
ハートウォード家を継ぐのは私だ。キース伯爵家の次男であるオリバー様は次期ハートウォード侯爵である私の夫としての役割を期待されている。
「あと少しの辛抱ね」
「そうですね。でも私には遥か遠い先のことのように感じられます」
お母様は気遣わしげな眼差しを向けてくる。
なぜ2ヶ月の辛抱なのかというと、結婚後に他者へ恋心を仄めかすのは御法度だからだ。
あの2人の現状が許されているのは、一線を越えないという大前提があるからだ。
貴族の女性は結婚をして初夜を迎えるまで純潔を守らなければならない。純潔であれば、結婚相手以外の男との子供を身籠っていないという証明になる。
だがその後は?
純潔を失った女性は夫以外との関係を疑われないためにも、夫以外の男性に恋をしている様子など絶対に見せてはならない。
結婚をした男性も、妻以外の女性に恋をしている様子を見せれば、その女性の産んだ子供の出生に疑いを生じさせてしまうだろう。
だからこそ、結婚さえすれば、オリバー様はオリビア様への恋心を徹底的に隠す必要があり、それはオリビア様も同様なのだ。
お互いへの恋心を仄めかせなくなり私と家庭を築いていけば、私の心にじんわりと広がる靄もいずれ晴れる…お母様はそう考えている。
「グレース」
お母様の凛とした声に顔をあげる。
「人生は長いわ。これからどんなことが起きるか想像もつかない……。だからこそ、お母様がいつもあなたに言っていることがあるわよね?」
「はい。些細な違和感を見逃さず、自分にできることを1つずつやっていく、ですよね?」
「ええ」
小さい頃からお母様に言われ続けた言葉だ。お母様曰く、その言葉を胸に生きてきたおかげで今お母様は幸せらしい。
そして、この言葉が後に私をも幸せにしてくれることをまだ知らない私は、胸に広がる靄を洗い流すように、オレンジブロッサムで喉を潤すのだった。
※※※
夜会から数日後。
この日は予定通り、キース伯爵家でオリバー様とお茶会をしていた。
普段と変わらぬ穏やかな会話をしていたのだが、私が1週間後に行われる"花祭り"の話題を出した時、オリバー様の言動から些細な違和感を覚える。
「オリバー様、そういえば来週はオーセル領で行われる花祭りがありますね。今年もよろしければご一緒にいかがでしょうか?」
キース伯爵領の隣に位置するオーセル子爵領では毎年"花祭り"が開催され、ここ数年はオリバー様と花祭りを楽しんでいた。
今年はまだオリバー様からのお誘いがなかったため私からお誘いしたのだが、オリバー様は困った顔を浮かべお断りの言葉を述べられた。
「申し訳ありません、グレース様。その日は弟の勉強に1日付き合うと約束をしているのです。あと少しで私は伯爵家を離れることになりますから、弟との時間も大切にしたいと考えております。せっかくのお誘いを断ってしまうのは本当に心苦しいのですが、その代わり、来年はぜひまた一緒に花祭りを楽しみましょう。その時は夫婦として、ですね」
特に約束をしていたわけではなかったが、毎年の恒例のようになっていたこともあり、当然今年も一緒に行くのだとばかり思っていたが、そうではなかったようだ。
誘いを断られるのは今回が初めてではない。今回も同様に先に入っていた用事を理由に誘いを断られただけだ。それだけのはずなのに、私はここで違和感を覚えた。
あまりにも饒舌すぎるのだ。
何かやましいことを隠すためにいつも以上に口が回っている、そんな風に感じてしまった。
「……そうですか。それなら仕方ありませんわね。ではまたの機会にいたしましょう」
「ご理解いただきありがとうございます」
ホッとしたような笑顔。
花祭りの話は流れ、当たり障りのない話をいくつかした後お茶会はお開きになった。
「ではグレース様、お気をつけてお帰りください。次は私が伺わせていただきますね」
「ありがとうございます。お待ちしております」
侯爵家に帰ってきた私は、自室に戻り考えを整理していた。
なんてことはない通常のやり取りのようにも思える。だがあの時の用意されていたような話口調に、ほんの僅かに泳いだ目。私が了承した後の安堵の表情を思い出すと妙な胸騒ぎがした。
『些細な違和感を見逃さず、自分にできることを1つずつやっていく』
お母様、念には念を、ですよね?
意を決した私は、『花祭りの日にグロースター前公爵夫人からマナー講習を受けたい』と両親にお願いをするために、両親の部屋へと向かった。
この時の決断が正しかったと思い知る事件が起きたのはちょうど1週間後、花祭りの日だった。
※※※
花祭りの翌日。
我が侯爵家にキース伯爵家から従者が送られてきた。
従者から伝え聞いた内容に私達は絶句するしかなかった。
「オリバー様が重傷を……」
伯爵家から伝えられたのは、昨夜オリバー様が暴漢に襲われ重傷を負ったということだった。一命は取り留めたものの、二度と歩行ができない可能性が高いという。
「なにがあったんだ?オリバー君は昨日は弟君の勉強に1日付き合うと言っていたんだよな?グレース」
「はい、そうです」
「ではまさか、伯爵家に暴漢が入り込んだということか?」
「い、いえ、そうではなく…」
口籠る使者をお父様が問い詰めると、オリバー様はオーセル領の花祭りで暴漢に襲われたのだと口にした。
「花祭りだと?グレースは花祭りの誘いを断られたと言っていたな。グレースに嘘をついて花祭りに1人で行っていたというのか?護衛は何をしていたんだ」
「そ、それが、護衛をつけずに屋敷を抜け出されていたようでして…」
婚約者に嘘をつき、護衛をつけず花祭りに参加していて暴漢に襲われた……違和感しかないではないか。
お父様は青筋を立て、お母様は最初は顔を真っ青にしていたが何かに勘付いたようで冷ややかな目をしていた。
「暴漢はもう捕えられているのか?」
「いえ、それがまだでして」
それからお父様はいくつか従者に確認して従者を伯爵家へと帰すと、すぐに行動を起こした。
「オーセル子爵領に私兵団を送る」
※※※
数日後。
この日はヴィクトリア・グロースター公爵令嬢主催の令嬢限定のお茶会が開催されていた。社交界への影響力が強いヴィクトリア様のお茶会は、よほどの事情がなければ断ることができない。
和やかな挨拶の後にお茶会が始まると、1人の令嬢が心配そうな表情を浮かべながら私に話しかけてきた。
「グレース様、オリバー様のご体調はいかがですか?」
「オリバー様のご体調ですか?」
「はい。私、ちょっと耳にしたのですけど、オリバー様はオーセル領の花祭りで暴漢に襲われて大怪我をされたんですって?」
周囲に聞かせるためにわざとらしく声を張るのは、子爵家のご令嬢だ。
「まあ、そうなのですか?」
「オリバー様が大怪我を?!おかわいそうに…」
口々に心配を口にするご令嬢達は、どなたもキース伯爵家と関わりのあるお家柄の方々ばかりだ。
「まあ、よくご存知ですのね」
表にはまだ伏せられており、まだ両家とオーセル子爵家でしか知られていないはずの事件を、なぜ知っているのだろうか。
「本当に。私にもよく聞かせていただきたいわ」
凛とした声でそうおっしゃったのは本日のお茶会の主催者、ヴィクトリア様だ。
情報通で知られるヴィクトリア様は、自分の知らない情報を持つご令嬢に対し、少し面白くないという表情を向けられた。
「いえ、その、ただ私は……」
「あなたが聞いた、という内容だけお聞きしたいの。お話しくださる?」
「は、はい。私が聞いたのは、オリバー様が先日の花祭りの際に暴漢に襲われて、二度と自力で歩行ができないほどの大怪我を負われたということです。なんでもお忍びで屋敷を出られたため護衛もいらっしゃらず、多勢に無勢で、大切な方を守るのが精一杯だったそうです」
彼女の発言に場がざわつく。
「まあ、大切な方を守って大怪我を負われたということ?」
「なかなかできることではありませんわね」
「自分の身を挺してその方をお守りになったなんて、よほどその方を愛していらっしゃるのね」
周囲の視線は私ともう1人、オリビア様へと注がれる。
さて、どちらがオリバー様の大切な方なのだろうという視線に、私より先に答えたのはオリビア様だった。
「ええ、本当に。グレース様はそんなにもオリバー様に愛されて…お幸せですこと」
ここで視線が一気に私に集まった。
「ということは、オリバー様はグレース様を庇われて?」
「まあ!!なんてことなんでしょう。オリバー様はグレース様を愛していらっしゃったのね」
その場はちょっとしたお祭り騒ぎのようになっていた。
別の女性に目を向けているとばかり思われていた男性は、婚約者への愛に気付き身を挺して婚約者を守り切った。
ロマンス小説にでも出てきそうな、いかにもな出来事に盛り上がるご令嬢達。
なるほど、どうやら私はロマンス小説の主人公に仕立て上げられているらしい。
受けてもいない恩を着せられようとしているのだ。
本当に私を庇って怪我を負ったのであれば、何としてでも彼を支えて添い遂げようとしただろう。
だが彼は私を庇ったのではない。別の女性を庇い負った傷の恩を、私に着せようとしているのだ。
舐められたものね。
知っているわよ?あなた達の私への陰口。
"のほほんとしてて何も考えていなそう"
"おっとりしすぎて夫の浮気にも気付かなそう"
私が陰口通りの女じゃなくて残念ね。
反論なんて出来そうにない女からの予想外の反論に、あなた達はどんな反応をするのかしらね。
受けてもいない恩を着せられて黙っているような女ではないのよ。
怒りを押し殺しながら切り返すタイミングを見定めていたところ、私の友人であるフローレンス・ハーバー子爵令嬢が声を上げた。
「ちょっとお待ちになってください」
「まあ、なんですか?フローレンス様」
「話があまりにも足早に進むものですから、私ついていけておりませんの。何より、こんなに盛り上がっていてはグレース様のお言葉が聞けませんわ」
「フローレンス様のおっしゃる通りね。どうなのかしら?グレース様。今彼女達がおっしゃっていたことは事実なのかしら」
2人の言葉に周囲は一度静かになり、今一度私に視線を集中させた。
「フローレンス様、ヴィクトリア様、ありがとうございます。現状、私から申し上げられる事実は1つだけでございます。オリバー様が暴漢に襲われた日、私はグロースター前公爵夫人からマナー講習を受けておりました」
私の言葉に場を騒がせている張本人達は案の定まさか、といった驚愕の表情をされた。
グロースター前公爵夫人はヴィクトリア様のお祖母様で、品行方正で曲がったことが大嫌いだと社交界でも有名な方だ。
「いや嘘ですよね?グレース様は講習を受ける必要がないくらいマナーが完璧ではありませんか!」
「お褒めいただきありがとうございます。ですが次期侯爵として、改めてマナーの確認をしたいと思っておりましたの。できれば社交界一美しい所作をされるグロースター前公爵夫人から、と思っておりましたので、あの日は本当に充実した時間を過ごさせていただきましたわ」
完璧なアリバイだ。さすがにこのアリバイに異議を唱えることはないだろうと思っていたが、予想以上に彼女達の諦めは悪かった。
「で、ですが、それならオリバー様が嘘をついているとおっしゃるのですか?!オリバー様が大怪我をされているのは事実なのですよ?」
「オリバー様が、とは申しませんが、誰かが嘘をついているのでしょうね。オリバー様が誰かを庇ったというのが事実だとしても、それは私ではありませんわね。グロースター前公爵夫人にご確認いただければ私がオリバー様と花祭りにはいなかったという証明は可能かと」
私が話すほど、先程まで私にくってかかっていた彼女達の勢いが落ちていく。
そしてヴィクトリア様からのお言葉が後押しになり、彼女達は完全に押し黙った。
「お祖母様は嘘がお嫌いですの。お祖母様に講習を受けていたというのは本当でしょうね。それならその場にいたのはグレース様ではありませんわね」
彼女達は一斉に沈黙し、その場の誰もが私ではなく別の女性へと目を向ける。
「あら、どうされたの?オリビア様。具合が悪いのではなくて?」
大勢の視線を向けられたオリビア様は、疑惑を肯定するかのように真っ青になって震えていた。
※※※
お茶会を終えて屋敷に戻ると、笑顔のお父様お母様に迎えられた。
「グレース、おかえり。お茶会はどうだったんだ?」
「ただいま戻りました、お父様お母様。お母様の予想通りになりましたわ」
「そうか。うまく立ち回れたのか?」
「はい。フローレンス様やヴィクトリア様には改めてお礼をさせていただきたいです」
お父様は大きく頷き、お母様は「頑張ったわね」と私を労ってくれた。
「グレース、朗報がある。オリバー君を襲った暴漢を捕らえた」
「本当ですか?では…」
「ああ、自白はとってある。すぐに真実を広めなければな」
やはり、お父様があの日、すぐに私兵団をオーセル領に送ったのは正解だった。
あの場で両親も私も頭に浮かんだのは最悪の可能性だった。
婚約者である私の誘いを嘘をついて断り、護衛に見つからないように屋敷を抜け出して花祭りに参加していたのは、逢引きのためなのではないか?
もしそうであれば、婚約破棄に繋がる大問題だ。何も、婚約破棄になるのは"一線を越えたから"だけではない。婚約者を蔑ろにし、浮気相手を優先するという信用失墜行為もまた、場合によっては婚約破棄になる。
今回、婚約者を蔑ろにし、浮気相手を優先した結果二度と歩行ができない可能性が高いほどの大怪我を負ったとすれば……。
もしこれが事実なら、キース伯爵家が誠意を持ってしなければならないのは、我が家への謝罪と共にオリバー様有責での婚約破棄の申し出といったところだろう。
だが従者から伝えられたのはオリバー様の状況のみ。しかもオリバー様は1人でいたことになっている。
まだ事件から一夜明けただけで伯爵家が混乱しているから、という可能性もあるが、そうではなかったら?
伯爵家はオリビア様の存在を隠し、オリバー様をそのままハートウォード侯爵家に婿入りさせようと考えているかもしれない。
そこでお父様はすぐにオーセル領に"娘の婚約者の仇を見つけ出す協力をしたい“という名目の元、侯爵家の私兵団を送った。オリバー様を襲った暴漢なら、その場に誰がいたのかという証言ができる。だが、それをよく思わないキース伯爵家に先に見つけられてしまえば消されてしまう可能性が高いだろう。
それから暴漢を捕まえられないこと数日。
こちらから話がしたいとキース伯爵家に何度連絡をしても『待ってほしい』としか返事がなく、当然謝罪も婚約破棄の話も出なかった。
もしかして本当にオリバー様は1人で被害に遭われたのだろうか?
あれほど自制されていた2人が、お互いの護衛の目を掻い潜って逢引きをするという大胆な行動を本当に取るのだろうか?
疑心暗鬼になりつつ答えが出せないままに迎えた今日のお茶会。
事前にお母様と色んな可能性を考えていた。
その中の1つが"オリバー様が庇った人物として私の名が挙げられる"という可能性だった。
『お母様はね、オリバー君が想い人と花祭りに参加していた場合、これが一番あり得ると思うのよ』
『どうしてですか?』
お母様がいうには、ラヴァール伯爵家は婚約者に頭脳を求めているらしい。こういってはなんだが、余程のことがない限り長子が爵位を継ぐ中で、長子であるオリビア様はあまり賢くない。そこで、頭脳で支えられる人物としてブライアン様が選ばれたのだそうだ。
だからこそ、ラヴァール伯爵家は勉強があまりお好きではないオリバー様を迎えたくないはずだという。
『できればそのままブライアン君を迎えたいでしょうね』
キース伯爵家としても、我が家からの金銭支援を受けるために結ばれた縁を切ってまで、ラヴァール伯爵家と縁を結ぶメリットがないのだという。
『ラヴァール伯爵家もあまり財政がよろしくないそうよ。だからこそ、賢いブライアン君の手助けを受けて伯爵領を盛り立てたいっていう思惑があったんでしょうけどね』
『なるほど…。それとオリバー様が庇った人物として私の名が挙げられるかもしれない、というのはどう繋がるんですか?』
『グレース、他の女性を庇って大怪我を負った男性と婚約者をそのまま結婚させるにはどうすればいいと思う?』
『どうすればって…』
そんなことできないだろう。
オリバー様は浮気の最中に浮気相手を庇って負傷したのが事実なら、婚約破棄に繋がる信用失墜行為に他ならない。その後の負担を裏切られた婚約者が被るのはさすがにおかしい、と周囲も納得してくれるだろう。
……そういうことか。
『庇われたのが私なら、私のために大怪我を負ったオリバー様との婚約破棄なんてできませんし、むしろ私はオリバー様に恩を受けているので一生オリバー様を支え続けるべきだ、ということになりますね』
お母様は大きく頷く。
『でもお母様、暴漢が捕まれば、庇われたのは私ではないことは明らかになりますよね?』
『そうね。でもね、あなたと彼女、髪色も背丈も似ているわよね?暴漢の証言だけでは弱い可能性があるわ』
確かに、私とオリビア様は同じ金髪。背丈も似通っているため、当のオリビア様に否定された場合、暴漢の証言だけでは心許ないのかもしれない。
『確かにそうですが、私はその日グロースター前公爵夫人の講習を受けていたという鉄壁のアリバイがあります。ですから、そんな嘘をついたところで無意味なのではないでしょうか?』
『その通りよ、グレース。でもね、グレースがその日講習を受けていたことは我が家とグロースター前公爵夫人しか知らないでしょう?』
確かに。
『だからこそ、キース伯爵家は縁者を使って先に"美しい噂"を流そうとするんじゃないかしら?オリバー様は浮気相手との逢引きで大怪我を負った愚か者ではなく、真実の愛に気付いて愛する婚約者を守り名誉の勲章を負った英雄なんだって』
なるほど、と納得して迎えたお茶会。
残念ながらお母様の予想は見事に的中してしまった。
私はオリバー様に庇われた悲劇のヒロインの座に一瞬座ることになってしまったが、その座は正しい持ち主にきちんと返却させていただいた。
「それにしてもグレース、あの日グロースター前公爵夫人のマナー講習を受けていたなんて、あなた本当に運が良かったわね。他の方との用事だったり、家でゆっくり過ごしていたりでもしていたら、あなたがオリバー様と一緒にいなかったとわかってもらうのは難しかったかもしれないわ」
お母様の声に、現実に引き戻される。
「お母様、掴める運は自分で掴むものですわ」
「まあ、そういうことなの?」
「はい、お母様からのお言葉のおかげですわ。些細な違和感を感じて念のために、と思いまして」
私が意味あり気に微笑むと、お母様は満足そうに頷いた。
※※※
それからしばらく経った某日。
私達関係者はキース伯爵家に集まっていた。
集まった参加者は会わせて12人。
私達ハートウォード侯爵家からお父様お母様私の3人。
キース伯爵家からはキース伯爵夫妻とオリバー様の3人。
ビューフォード侯爵家からはビューフォード侯爵夫妻とブライアン様の3人。
そしてラヴァール伯爵家からラヴァール伯爵夫妻とオリビア様の3人だ。
「まあまあ、随分とおやつれになって」
「まあ無理もないでしょうな」
口火を切ったのは私の両親だった。
「この度は誠に、誠に申し訳ありませんでした」
「何とお詫びをしたら良いか……」
冷や汗をかきながら私達に向かって必死に頭を下げるキース伯爵夫妻。
その横には、すっかり以前の覇気を失ったオリバー様が静かに座っている。
「まあ起きてしまった事実は変えられませんからな。早速婚約破棄の手続きを進めましょうか」
「お、お待ちください!!そこを何とか、婚約破棄だけは……一線はまだ越えておりませんので」
キース伯爵としてはこんな状況になってもなお、婚約破棄を避けようとしている。伯爵家としては息子の真実の愛が実るより、経済的支援を受けられている現状の方が優先したい事なのだろう。
「信じられませんな」
静かに、しかし威厳のある声でそう言ったのはビューフォード侯爵だった。
「婚約者に隠れて逢引きをした者達の証言をどう信じろと?」
こちらまで震え上がりそうになるほど怒りを含んだ声だ。その場に一層緊張が走る。
「ほ、本当でございます!!そうだな?オリビア!!」
「は、はい。確かに私はオリバー様とあの日花祭りに出掛けましたが、それだけなのです。それ以上のことはしておりません」
ラヴァール伯爵もオリビア様も必死に否定するが、お父様はそれを鼻で笑った。
「やれやれ、お話にならないですな。今日はオリバー君の体調を鑑みてわざわざ伯爵家まで足を運んだというのに。話し合いを何度も行うのはそちらも大変だろうと一堂に会してね……。我々被害者にこれ以上無駄な時間を過ごさせるおつもりかな?」
「いえ、いえ!それは本当に申し訳なく思っております!!ですが、このように心身共に傷を負っているオリバーに対して婚約破棄とはあまりにも……」
キース伯爵がそう言うと、キース伯爵夫人はオリバー様を抱きしめて泣き始めた。
「すでにハートウォード侯爵から事件の日について詳細な報告をいただいておりましてな。暴漢に囲まれるきっかけについてもよく知っている、と言えばおわかりかな?」
ビューフォード侯爵のその言葉に身を縮めたのは、オリバー様とオリビア様の2人だった。
今日を迎える前に、覚悟を決めるために、情に流されないために、とお父様から見せてもらった事件の報告書によると、金銭目的だったという暴漢はいかにも貴族のお忍びといった様子の2人組が仲良く腕を組んで路地裏に入っていき、口付けを交わして盛り上がっているところを襲ったのだそうだ。
「随分とまあ夢中になっておられたようで、それで危機察知能力も低下してしまわれたのでは?」
「ははは、恋は盲目とはよく言ったものですな」
わざとらしく豪快に笑うお父様とビューフォード侯爵の笑い声に、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに下を向く当事者2人。
「お、お言葉ですが、婚約破棄となればハートウォード侯爵も困ることになるのではないでしょうか?オリバーとグレース様の婚約が成立したのは……」
「ああ、それでしたらキース伯爵、あなたにご心配いただかなくて結構。婚約破棄となれば、今融通していただいている小麦は他の領と取引すれば済む話ですから」
「……!!そんな…」
この結婚は元々こちらにそこまでの旨味があるわけではなかった。
小麦が仕入れやすくなるといいと考えていたお父様と、財政が安定せず、潤いのある貴族との繋がりを求めていたキース伯爵。
両家でなければならないというほどの理由ではなかったが、試しに会わせてみた子供達が楽しそうにしていたから、それこそがこの婚約が成立した最も大きな理由だったのだ(最もキース伯爵もそう思っていたのかはわからないが)。
「それならば是非私にご協力させていただきたい。我がビューフォード侯爵領はご存知の通り、小麦生産量が国内で一番多いですからな」
「おお、それはありがたいですな」
どうやら今後の小麦の入手という懸念点も解決の目処があっさり立ったようである。
「これでキース伯爵にご心配いただくこともなくなりましたな。では、今度こそ婚約破棄を……」
「お、お待ちください!!」
驚いた。
この状況で声を上げたのはなんと、先程まで力なさ気に座っていただけのオリバー様だったのだ。
「オリバー君、何かな?」
「まあまあ、あなた。この際ですから、最後に言いたいことは言わせてあげましょう?」
その方があなたも心残りがないでしょう?
目が合ったお母様の心の声が聞こえたような気がした。
お父様からは『どうする?』といった視線を向けられたため、小さく頷く。
その様子を見守っていたであろうオリバー様はパッと表情を明るくすると、私に向かってその胸の内を語り出した。
「グレース様、あなたを傷つけてしまったこと、本当に、本当に申し訳ありません」
そう言ってオリバー様はキース伯爵夫人に支えられながら、深く深く頭を下げた。
「ですが、どうか信じていただきたいのです」
顔を上げたオリバー様の目には涙が滲んでいた。
「私はグレース様を心より大切に思っておりました。覚えておいでですか?結婚をしたらどのような生き方をしていきたいのか、と私達は何度も話しましたよね」
「そうでしたわね」
私がそう答えると、オリバー様はここだ!!とばかりに情に訴えるように涙を流しながら言葉を続けた。
「子供が2人欲しいという私に対して、グレース様は3人欲しいとお答えになった。侯爵になったグレース様を私が隣で支え、夜にはグレース様のお気に入りのハーブティーを私が淹れて……」
そこまで言うと感極まった様子で目頭を押さえるオリバー様と、そんなオリバー様を不憫そうに見つめるキース伯爵夫妻。
この白けた空気がなぜわからないのかしら?
私がそんな言葉で婚約破棄を思い止まるような女に見えているのなら、オリバー様は私のことを何も見ていなかったということなのでしょうね。
ねえオリバー様、もしあなたが1人で不慮の事故にあったのなら、私以外の愛する方のために怪我を負ったわけではなかったのなら、あなたとそれでも結婚をしようと思うくらいの情はあったんですよ。
でも、他の女性のために一生消えない傷を負ったあなたを支えていきたいとまでは思えなかった。
それに、先に嘘の噂を流して私に偽りの恩を着せようとしたこと、発案者はキース伯爵なんでしょうけど許せなかった。
そろそろこの茶番を終わらせて、メアリーの淹れるオレンジブロッサムを飲みたいわね。
「その夢を叶える相手は、オリバー様、もうあなたではないのです」
オリバー様の泣き声がぴたっと止まった。
「オリバー様、あの日私の誘いを断ってオリビア様と花祭りに出掛けられた時点で、いえ、そうしようと思った時点で私達の未来は交わらなくなっていたのでしょう。あなたの人生のパートナーは私ではなかったのですね。あなたがその身を挺してまで守った方こそが、あなたの人生のお相手なのでしょう」
私がそう言ってオリビア様に目を向けると、オリビア様はあの日のように顔を真っ青にして震えていた。
だがこの流れはまずいと思ったのだろう。
オリビア様は意を決した様子で、唇を震わせながら話し出した。
「わ、私、私は、私の本当に愛している方はブライアン様です!!あれは無理矢理オリバー様に連れ出されただけで…それで…」
「もうやめてください、オリビア様。自分をそれ以上偽らなくていいのです。オリビア様の本当のお気持ちを誤魔化さないでください」
オリビア様の必死の訴えをにべもなく叩き落としたのは、"本当に愛している方"に指名されたブライアン様だった。
大きな目を溢れ落ちそうな程見開いてブライアン様を見つめるオリビア様に、こちらの方が驚いてしまう。
ここまできても自分は許されると思っていたのか。
「お2人の想いには気付いていました。オリビア様が私を見る目と、オリバー様に向けられる眼差しは全く違いましたから。オリバー様のように、オリビア様もオリバー様と花祭りに出掛けようと心に決めた時点で私達の道は違えたのでしょう。そこまでして想い合う2人を割くことは私にはとてもできません」
「ブ、ブライアン様、ちが、違うんです……いや、私……」
オリビア様は涙を流しながら必死にブライアン様の言葉を否定しようとするものの、ブライアン様への愛は否定され、オリバー様との世紀の愛へと変えられてしまう。
それでも諦めない様子のオリビア様に触発されたのか、オリバー様も勢いを取り戻し私への愛を叫び始めたところでパンパン!!と大きく手を叩く音が聞こえた。
手を叩いたのは、先程からずっと成り行きを見守っていたビューフォード侯爵夫人だった。
「最近流れている噂についてご存知ないのかしら?」
「噂、ですか?」
ビューフォード夫人の言葉に反応したのは、話し合いの前からしくしく静かに泣くだけだったラヴァール伯爵夫人だった。
「ええ」
オリバー様とグレース様の結婚が近づき秘めた想いを抱えていた2人は、遂に抑えていたお互いへの熱い想いを抑えられなくなり、最後の思い出にと花祭りに出掛けた。
綺麗な思い出のまま終わるはずだったその日、愛し合う2人を悲劇が襲う。
卑劣な暴漢から愛するオリビア様を守ろうと、数人相手に果敢に立ち向かったオリバー様はオリビア様を守り抜いたが、その代償は大きかった。二度と歩けなくなってしまったのだ。
オリビア様は受けた恩を返すためにオリバー様と添い遂げたいと願い、またオリバー様も身を挺して守った真に愛する女性と添い遂げたいと願っている。
「ち、違います!!私はそんな、オリビア様と添い遂げたいだなんて…」
「わ、私もです!!こんな…オリバー様と添い遂げるなんて…」
ビューフォード侯爵夫人は、揃いも揃って息もピッタリに反論する2人を手で制す。
「あら、後半はともかくとして、大部分は事実でしょう?それなのに、身を挺して庇われた女性と、身を挺して婚約者以外の女性を庇って大怪我を負った男性が結ばれないなんて、社交界で何て言われるかしらね?」
受けた恩を返さぬ薄情者。
他の女を庇ってできた怪我を自分が裏切った婚約者に負担させる鬼畜。
ただ、2人が予定通りそれぞれの従来の婚約者と結婚をしたとしても、婚約破棄して2人が結婚したとしても、どちらの場合も社交界に2人の居場所はないだろう。
目で愛を囁くことは許されても、婚約者を蔑ろにして逢引きすることまでは許されていない。ましてや護衛をつけないだなんて、貴族としての危機管理能力にも欠ける。
全てはあの2人が選択した結果なのだ。
婚約を蔑ろにしたという事実と、それによる結果はもう変えられない。
2人はどちらの道に進んでも祝福はされない。
だが、事を起こした2人が結ばれた方が、被害者が割を食うという事態にならない方が、まだ向けられる批判も少しはましになるだろう。
「ご安心ください。私は"物分かりの良い女"ですから。お2人がそのように呼ばれることは望みませんわ」
「私もグレース様と同じく。"物分かりの良い男"ですから」
私達の言葉に、オリバー様とオリビア様は取り付く島もないことがわかったのか、がっくりと肩を落としてうなだれた。
しかしキース伯爵はまだ諦められないようだ。このままだとオリバー様は経済的支援を期待できないラヴァール伯爵家に婿入りすることになる。必死に抗おうとしていた。
「う、噂はあくまで噂ですから。グレース様とオリバーは何年も積み上げてきた関係性がありますし、ここで婚約破棄してしまったらグレース様もブライアン様もこれから結婚相手を探さなければならなくなりますよ?目ぼしい方々はみな婚約されていますし…でしたら」
そこまで言いかけてキース伯爵が口をつぐんだのは、お父様お母様、そしてビューフォード侯爵夫妻からの溢れ出る殺気をさすがに感じ取ったからだろう。
「噂はあくまで噂、か。それならばなぜ嘘の噂を流そうとされたのかな?ヴィクトリア嬢主催のお茶会での件、当然私の耳にも入っている」
キース伯爵の目が泳ぐ。
ちらりと目線をやれば、オリビア様も、その隣のラヴァール伯爵も身を強張らせていた。
「そもそも、我々がオリバー君のために私兵団を派遣しなければ、オリバー君は1人で被害に遭ったのだと言い張って婚約を続けるつもりだったんだろう?」
もしオリバー様が1人で被害に遭ったのだとしたら、婚約破棄は考えなかった。それほど、これまでのオリバー様は私を大切に扱ってくれたし、そのことを両親も知っていた。
「我々が私兵団を送ったことを知って、真実が我々にばれるのは時間の問題だと思ったからこそ、先に嘘の噂を流してグレースに偽りの恩を着せ、婚約破棄できない状況に持っていこうとしたんだろう。何人か協力者を使ってね」
そう言うとお父様はラヴァール伯爵とオリビア様を見た。
「噂も馬鹿にできませんからな。グレース嬢がその噂で雁字搦めにされてしまっては、ブライアンもそのままオリビア嬢と結婚していたでしょうから」
もしかしたらキース伯爵は先に暴漢を見つけて始末したかもしれない。暴漢が我が侯爵家の私兵団によって見つかったとしても、一緒にいた女性をオリバー様が私だと言えば?暴漢がオリビア様の特徴を言えたとしても、髪色も背丈と似通った私達を見分けられたとしても、暴漢の言葉よりもオリバー様の言葉の方が信用される可能性が高かった。
そこで私が否定をしたとしたら何と周囲に言われたことか。
『自分を庇って怪我を負った恩人を厄介払いとばかりに捨てようとしている薄情者』
そう言われて婚約破棄ができない状況になってもおかしくはなかった。あのアリバイがあったからこそ、そうならないで済んだのだ。
「グレース嬢、あの場での立ち居振る舞い、我がビューフォード侯爵家からも改めて感謝申し上げたい」
「もったいないお言葉をありがとうございます。私があの日あの場で立ち向かえたのは私を大切に思ってくださる方々のおかげでございます」
お母様は目が合うと嬉しそうに微笑まれた。
お父様は少し目が潤まれているようだ。
ここにきて、これ以上騒いでももはや初めから決められていた結論は何も変わらないとようやく理解したキース伯爵家とラヴァール伯爵家の両家は、泣き続ける当事者2人をよそに各々婚約破棄に同意した。
手続きを速やかに終えた私達ハートウォード家とビューフォード侯爵家の両家は、さっさとこの場を後にしようと席を立つ。
「グレース様」
部屋を出ようとした所で掛けられた声に、最後、と決めてゆっくりと振り返り声の主と向き直る。
「なんでしょう」
なぜオリバー様の方が傷ついた顔をしているのだろうか。
「グレース様、どうか、どうか幸せになってください」
その言葉にはなぜか、申し訳なかったと謝られるよりも心が乱された。
「はい。どうかオリバー様も……」
お元気で、お幸せに、どちらを言うべきなのだろうか。
私の迷いを感じ取ったのか、お父様は私の肩にそっと手を置くと私を安心させるように微笑んだ。
「キース伯爵、最後に言い忘れていたことを1つだけ。グレースも、ブライアン君も、素晴らしい伴侶を得るでしょう」
お父様の確信めいた声が、私の漠然と抱えていた不安を和らげる。
「行きましょう」
お母様に促され部屋を出ていく。
私の名を呟くオリバー様の声に、今度は振り返らなかった。
※※※
キース伯爵家を後にした私達はそのままハートウォード家に、と思っていたのに、現在私はブライアン様とビューフォード侯爵家の庭を歩いている。
お父様はビューフォード侯爵から少し話が出た小麦についての話を詰めようというお誘いを受け、お母様もビューフォード侯爵夫人からお茶に誘われた。それならと庭を案内したいとお誘いくださった物分かりの良いブライアン様と、物分かり良い私はゆっくりと庭園を歩いているのだ。
今頃、お父様はビューフォード侯爵と私達の婚約について話を進めていることだろう。
現在、家柄も年齢も釣り合う貴族令息、貴族令嬢はもうお互いしか残っていない。
ちらりとブライアン様に目を向ける。
オリバー様と同じように私の歩幅に合わせてエスコートしてくださっている。
背丈はオリバー様よりも少し高い。
キリッと釣り上がった目付きのオリバー様とは異なり、私と同じ垂れた目尻。
……だめね、無意識にオリバー様と比べてしまうわ。
お母様もお父様も時間薬だとおっしゃっていたけど、本当にいつか忘れることができるのかしら。
「グレース様、お好きな花はありますか?」
いけない。今はブライアン様との時間に集中しないと。
「そうですね…今の時期ならネモフィラが好きです」
「ネモフィラですか。よかった、それならお目にかけることができますよ」
そう言ってエスコートされた先には一面の青が広がっていた。
「こちらへどうぞ。ここに座ってネモフィラを眺めながら少し話をしましょうか」
「ありがとうございます」
案内されたベンチに腰掛ける。
目の前に広がるネモフィラが風にそよそよと揺られている様子を、私達はしばらくの間静かに眺めていた。
「グレース様、グレース様はハーブティーがお好きなんですよね。何のハーブティーがお好きなんですか?」
「そうですね…ローズティーやカモミールティーも好きですが、最近気に入って飲んでいるのはオレンジブロッサムです」
「オレンジブロッサムですか。実は私も最近よく飲むんですよ」
「まあ、そうなんですか?」
「はい。爽やかな柑橘の香りがいいですよね。そういえばそろそろラベンダーティーも楽しめる季節ですね」
「ええ、そうですね。ラベンダーティーは苦手な方もいらっしゃいますがブライアン様は?」
「私は好きですね。グレース様は?」
「私も」
よかった。ハーブティーの好みは合いそうね。
お互いの事を1つずつ知り、合うところ合わないところを見つけていく。まさかもう一度それをやることになるとは思っていなかったが、ブライアン様のおかげで想像以上にこの場の会話を楽しめていた。
しばらくの間穏やかに会話を続けていたが、お互いあの話題には触れられなかった。
触れない方がおかしい、とわかってはいるものの、どう話せばよいのかお互い探っているように感じる。
この穏やかな会話をいつまでも続けていきたいが、このままでいいのだろうか?
隣にいるブライアン様に顔を向ける。
すると同じようにブライアン様も私に顔をちょうど向けたところだった。
思わず2人で苦笑する。やはり同じ気持ちなのだろう。
「婚約をされたのはおいくつの時でしたか?私は12歳で婚約して、4年が経っておりました」
「私は13歳で婚約をして、5年でした」
私よりも1年長い。
1年長く、順調に関係を築いていた分、私よりもブライアン様の方がお辛いのかもしれない。
ブライアン様の受けた私以上の傷を思うと、胸が痛んだ。
「グレース様、私達はあの事件が起きるまではそれぞれ元婚約者と良好な関係を築いていた、これは紛れもない事実だったと思います」
「ええ、そうですね。あの事件がなければ、私達は全てに目を瞑り、そのまま予定されていた通り結婚していたでしょう」
彼ら自身も、婚約者以外へと愛を向けていても、婚約破棄をしようとまでは考えていなかった。それくらい、私達は良好な関係を築き上げていたのだ。
「全てを過去のことだとグレース様と私が笑って話すには、まだまだ時間が足りていません。彼らと向き合ってきた年月が過去になるのは、私達が考えているよりもずっとずっと先のことかもしれません」
最初から関係が良好でなければ、今回の事件にここまで心を乱されることはなかっただろうに。
心を乱されるくらい、裏切りに傷つくくらいにはオリバー様と過ごした時間は幸せだった。
「ですが、それでも私は少しずつでも進んでいきたいと思います。時には立ち止まり、過去を振り返って苦しむこともあるかもしれません。それでも、グレース様と一緒なら進んでいけるのではないかと、そんな希望を感じています。グレース様はいかがでしょうか?」
「私も、私も同じ気持ちです。そんなにすぐには進んでいけないかもしれません。それでもブライアン様と未来を作っていきたいと思います。ブライアン様が立ち止まった時には私が寄り添います」
「ありがとうございます。心強いです。グレース様が立ち止まった時には私が寄り添いますからね」
「ありがとうございます。私も心強いですわ」
私がそういうと、ブライアン様はふわりと笑われた。
※※※
あれからしばらくして、私とオリバー様、オリビア様とブライアン様それぞれの婚約破棄と新たな婚約が公表された。
新たな婚約は3組。
私とブライアン様。
オリビア様とオリバー様。
そして、ジョージ様とエマ様だ。
ジョージ様はオリビア様の弟で、現在10歳になられたばかりの"次期ラヴァール伯爵"だ。
つまり、オリビア様は次期伯爵の座を剥奪されたことになる。
社交界にあれほど醜聞が広まり居場所がないことを鑑みて、ラヴァール伯爵家とキース伯爵家は2人を次期伯爵夫妻にしないと決めたらしい。これは誰もが仕方のないことだと納得する決断だったのではないだろうか。
これから予想される2人への風当たりとそれに伴う両家への逆風を考えれば、ジョージ様を次期当主に据えて少しでも風当たりを和らげたいと考えたのだろう。
ジョージ様は婿入り先探しを変更し、急遽嫁いでくれる相手を探すことになったのだが、現状のラヴァール伯爵家への風評の影響もあってなかなか見つからなかったそうだ。結局、ラヴァール伯爵家の分家の男爵家から迎え入れることになったそうだが、周囲の心配をよそにジョージ様とエマ様はどうやらうまくいっているようである。
ではオリバー様とオリビア様はどうなったのかというと、とある男爵領に居を移し、勉学に励まれているという。キース伯爵家の分家である男爵家は子供に恵まれず、いずれ養子をと考えていたところに今回の事件が起きた。男爵領は遠いところにあるため、特別なことがなければ社交界に出ることもないというのも2人には好都合だったのだろう。
男爵夫妻は2人の身に起きたこと、社交界における2人の立ち位置、全てを知った上で2人を受け入れてくれたそうだ。
オリバー様もオリビア様も男爵夫妻に涙を流しながら感謝し、オリバー様は次期男爵になるためにあまりお好きではなかった勉学に懸命に励まれている……という噂を耳にしたが、噂が当てにならないことは身にしみてわかっている。
最後に会った時の2人の様子から、相当な苦労がこの先待ち構えているであろうことは想像がつく。社交界が大好きでダンスが何よりもお好きだったオリバー様とオリビア様がこの先手を取り合って社交界や王都から離れた土地で幸せに暮らしていけるのだろうか?
だがひとつだけ確実なことがあるとすれば、すでにそれぞれが、それぞれの道を進んでいるということだ。
私とブライアン様はというと、現在婚約者のお茶会を楽しんでいる最中だ。
「うーん、これは……美味しいです、グレース様」
「本当は?」
「……すみません、ここまで酸っぱいものは口に合わなくて」
「ふふ、やっぱり」
何か失敗をした時の大型犬のようなお姿がなんと可愛らしいことか。
グッと堪えて耐えられていたけれど、やはりローズヒップティーはブライアン様のお口には合わなかったらしい。
私が笑っていると、何かを思いついたような顔をされたブライアン様がテーブルの上の焼き菓子を指した。
「グレース様、もう1ついかがですか?」
ブライアン様が指差したのは、今日ブライアン様にお持ちいただいた胡桃のクッキー。
「ええ、ありがとうございます。いただきますわ」
私が取ろうとすると、ブライアン様の手が待ったをかけた。
「本当に食べたいんですか?」
「……申し訳ありません、胡桃の苦味が少し苦手でして……」
完璧に隠し通したと思っていたのに、ブライアン様にはお見通しだったらしい。
先程と立場が逆になってしまった。ブライアン様は身を震わせて笑っている。
オリバー様には気づかれなかったことを、ブライアン様には気づかれてしまう。それがなぜこんなにも胸を高鳴らせるのだろうか。
理由がわかるのはもう少し先になるのかもしれない。ただ確実に言えるのは、ブライアン様と過ごす時間はあっという間に感じてしまうということだ。
何となく気恥ずかしく思っていると、少し涼しくなった風が通り抜けた。
風に漂う晩夏の香り。
季節はまもなく秋に移り変わろうとしていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
至らない部分も多々あったと思いますが、ここまで読んでいただけたこと、心から感謝致します。
また評価やブックマーク、リアクション、誤字報告、感想など、ありがとうございました。とても励みになります。




