#2 童子の落とし物
事務所を出ると、夕闇はすでに夜へと溶け始めていた。柊都の街は人通りこそ多いものの、どこか現実と薄くズレた空気を纏っている。
提灯の明かりが揺れる路地の奥、影が影でないものへと変わる境界線。
「……あの、その箱……持って歩いて大丈夫なんですか?」
例の木箱は、沙羅の脇に無造作に抱えられている。
「問題ない。万が一に備えて結界は張ってある。この程度で漏れるほど甘くはない」
「そ、そうですか……」
そう答えたものの、内心ではまったく安心できない。普通の火であっても怖いのに、怪異の持ち物となれば尚更。
「ちなみに……火喰い童子って、どんな怪異なんですか?」
「む? 知らないのか? 役人になるときに一通り説明を受けたものとばかり思っていたが……童子と言っても見た目が子供なだけだ。火を食らって生きる怪異で、人のかまどの余り火や、祭りの残り火を好む。害はほぼない」
「……ほぼ?」
淳弥の問いを他所に、紗羅は歩みを止めずに淡々と続ける。
「ああ。己の“核”を失えば話は別だ。空腹は怪異を狂わせるからな。人と同じだ」
「人と同じって……」
「人間には三大欲求があるのだろう? 空腹になれば怪異もおかしくなるのだ」
その言葉が終わるや否や――。
ぞわり。
背後で、何かが擦れる音がした。
「……え?」
振り返った瞬間、路地の奥で赤黒い影が蠢いたのが見えた。煤をまとった小さな人影。だが、頭部だけが異様に大きく、口の部分が裂けるように歪んでいる。
「――来たか」
紗羅が足を止め、尾をぴんと立てる。
「え、あれが……!?」
「あれが火喰い童子だ。……いや、正確には“成りかけ”だな。暴走の一歩手前だ。ここで食い止めるぞ」
童子はぎこちなく歩きながら、こちらへと近づいてくる。口からは、かすかな火の粉が零れていた。
「……カエセ……」
その声は、子供のものだった。
だが、感情は壊れかけている。
「淳弥」
紗羅が低く呼ぶ。
「は、はい!」
「お前は箱を開けるな。私が合図を出すまで、絶対にだ」
「え、でも……」
「いいから、言う通りにしろ。怪異遺失物取扱人は“返す”のが仕事だが、“渡し方”を誤れば殺される」
殺される、というそのワードに喉が鳴った。
逃げたい。正直に言えば、今すぐにでも。
だが――。
火喰い童子の目が、沙羅の木箱を見た。
次の瞬間。童子がびょんと跳ね、飛び掛ってくる。
「っ!」
「下がれ!」
紗羅が一歩前に出る。指先を弾くと、淡い紫色の狐火が宙に展開し、結界のように広がった。
童子がそれに触れ、悲鳴を上げる。
「アツイ! チガウ! コレジャナイ! キバコ! キバコ!」
「……心配するな。急かさずとも戻す」
紗羅は静かに言った。
そして、淳弥を振り返る。
「淳弥。お前がやれ」
「え!? ぼ、僕が!?」
「持ち主に“返す意思”を示すのは人間の役目だ。怪異は言葉より気配を見る」
震える手で、淳弥は木箱を抱きしめた。
童子の視線が、まっすぐに木箱へと向けられる。
「……返すよ」
声が掠れた。それでも、続ける。
「君の落とし物だ。……ちゃんと、持ち主に返す」
「……ホント?」
期待からか、童子の動きがピタリと止まった。
「もう一押しだ。淳弥。その火は触っても熱くないように仕掛けを施してある。安心して触ってくれ」
「は、はい!」
淳弥の腕の中で、木箱がかすかに震えた。
蓋の隙間から溢れる炎の光が、呼吸するように明滅している。
――“帰りたがっている”。
直感的に、淳弥はそう感じた。
「……開けるぞ」
紗羅が短く告げ、狐火の結界をわずかに緩め、火喰い童子と淳弥の間に細い道を作る。
「ゆっくりだ。怖がらせるな」
淳弥は頷き、両膝をついた。童子の視線と、真正面から向き合う。
煤だらけの身体。
ひび割れた皮膚の隙間から、赤い光が漏れている。
「……返すよ」
今度は、はっきりとした声で。
淳弥は、木箱の蓋に指をかける。
一瞬、躊躇いが走った。
もし失敗したら。もし暴走したら。
――それでも。
「ほら」
ふわり、と炎の玉が空中に浮かび上がる。
音はない。
熱もほとんど感じない。
それは柔らかく、優しい光だった。
「……ぁ」
童子が声にならない声を漏らす。
炎は、まっすぐ童子へ向かわなかった。
淳弥の前で一度止まり、くるりと円を描く。
――まるで、礼をするように。
「え……?」
次の瞬間、炎は弾けるように分かれ、童子の胸へと吸い込まれた。
ぼうっ、と小さな音。
煤が剥がれ落ちる。裂けていた口がゆっくりと元に戻り、歪んでいた輪郭が徐々に整っていく。
童子の姿は、ただの――赤い着物を着た小さな子供になった。
「……あったかい……」
童子は胸に手を当て、ぽつりと呟く。
「……おにいちゃん」
淳弥の喉が詰まった。
「……うん」
それ以上、言葉が出なかった。
童子は深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
そのたびに、周囲の歪んだ空気が静まっていく。
路地の闇が、ただの夜へと戻っていく。
しばしの沈黙の後、紗羅がふっと息を吐いた。
「返却完了だな」
その声には、わずかに安堵が混じっていた。
童子は立ち上がり、淳弥に向かってぺこりと頭を下げる。
「……ありがとう。もう、なくさない」
「うん。……気をつけてね」
童子は微笑み、炎のように淡く揺らぎながら、路地の奥へと溶けていった。
後には、温もりだけが残る。
「……怪異って、怖いだけじゃないんですね」
思わず漏れた淳弥の言葉に、紗羅は一瞬だけ視線を逸らした。
「……だから厄介なんだ」
そう言ってから、彼女は小さく付け足す。
「……だが、お前の対応は悪くなかった」
それはほとんど聞き取れないほど小さな声だったが、確かに――褒め言葉だった。




