1章・放り出されてー1
出鼻は挫かれた。
いや、どこであれ人里という目標があるのだから問題ないだろう。
それ以外にも考えたい事が二つある。
一つ目は魔法だ。
これは何となく使えそうな気がする。体内を巡る力を感じるのだ。これをどうにかするのだろうと本能的に理解ができている。
だが、仮に今急に火が出て周囲の森が燃える可能性もあることを考えれば自重するべきだろう。
もう一つは服だ。
事故当時、合宿に向かうバスの中で着ていた私服なのだが、妙に大きくなっている。
この問題を最後に回したのは、答えが出ているからだ。
そしてその答えを確認し、確信したくなかったのだ、が、ここまで思考する十秒未満の時間は自然と仮説を確信に変えてしまった。
それは即ち、服が大きくなったのではなく自分が小さくなったという事だ。
感じる手足の感覚、目線の低さがその証左。ズボンもパンツもガバガバなのだ。どうやっても気づこうというものだ。
とにかくベルトを締め、裾と袖を捲って調節する。
靴は耐えるしかないだろう。
それにしても随分と小さい。
体感的には小学生よりも小さくなっているのではなかろうか。
服が大きすぎるせいもあって滅茶苦茶に動きづらい。方角を定めないまま歩き回るのも危ないだろう。
どうしたものかと思い始めた時、突如として何かの鳴き声が森に響き渡った。
そして聞こえてくる、木の倒れる音。
対して自身は縮んだ身体に、武器は無い。
仮に普通の動物であっても対抗する手段は持ち合わせていない。
(ここは逃げの一手。)
音が聞こえる方向とは逆に向かうが、サイズの合わない靴と子供の身体のせいで思うように動けない。
早々に息切れを始め、呼吸が限界を迎える。
次に聞こえた獣の叫び声は近づいていた。移動方向と宗絃の逃げた先は一緒だったのだ。
運の悪さに落胆し、隠れるべきかを思案するついでに木に寄りかかって休もうとした時、唐突に森が終わった。
現れたのは綺麗な円形の湖だった。
湖から森までの距離も等間隔であり、場所も形も、人工的なものとしか思えるほどの円形である。
誰かいないかと淡い期待を抱いたが、周囲に家のような人工物は見当たらない。
落胆しながらも今度は身を隠せるような場所がないかと視線を巡らせた時、森の中から轟音が聞こえ湖のほとりに化け物が着地した。
猫背で、片手に剣を持つその姿は宗絃が本やゲームでよく見たゴブリンそのものだった。
だが、大きさはイメージしていたものと全く違う。背中を丸めた姿勢でも二メートルは超えているし、片手で軽々と持っている剣も人間の筋力では同じように持つことはできないだろう。
対抗できる手段がない今、何としてもこの場を離れるか、隠れるかでアレをやり過ごさなければならないのだが、残念ながら視線は迷うことなくこちらに向けられており、視線を逸らす様子もない。
今更ながらに息を潜めて身を屈めたが、やはりこちらを向いたままである。
(嘘だろ?これで終わり?)
逃げる算段を必死で脳内で組み立ていると、苛立ったようにゴブリンが雄叫びを上げた。
先ほどから聞こえていたあの咆哮だ。
それと同時にゴブリンから赤黒い何かが湯気のように立ち上り始めた。
あの巨体が襲いくる未来を想像した瞬間、宗絃がいる茂みとは離れた場所から獣の唸り声が上がり始めた。
草木を踏み締める音と共に森からその獣が姿を現すと、それは見慣れた熊だった。
どうやらゴブリンは元からそちらに敵意を向けていたらしい。
宗絃は少し安堵したが、少し余裕が出ると熊の様子がおかしいことに気付いた。
徐々に瞳が赤く染まり、ゴブリンと同様に体から赤黒い湯気のようなものが立ちのぼり始めたのだ。
今度は熊が吠え、四足歩行でゆっくりとゴブリンへ近づいていく。
その様子を伺うゴブリンは両手をだらりと下ろしたまま、いつ相手が突っ込んで来るのか様子を見つめている。
怪物同士により殺意を込めた視線が交わされるその光景は、見ている宗絃も神経を削られるほどである。
宗絃の逃げ回るという一択だった思考は塗り替えられ、今や固唾を飲んで野生の戦場を食い入るように見つめている。
そしてついに、二体の距離がゴブリンの剣が届くであろうところまで縮まった。
だが、ここでゴブリンが剣を振ることはない。一刀で熊を仕留める事ができればいいだろうが、しくじって間合いを詰められてしまえばその牙と爪には抗えないと直感しているのだ。カウンターの要領で熊に剣を突き立てる体勢を貫いている。
そしてついに熊の後ろ足に力が込められた。
(行くっ⁉︎)
宗絃がそう思ったのと熊の前脚が浮き上がるのはほぼ同時だった。
だが、想像したように熊が前進することはなかった。
ただその場で立ち上がったのだ。
その高さは一瞬でゴブリンを超え、目線は敵を見下ろすほどに上昇する。
想定外だったその瞬間、ゴブリンの思考に空白ができた一瞬に熊の爪が襲いかかった。
意識を取り戻したゴブリンの剣を持つ手が跳ね上がったが、既に密着され、のしかかってきた巨体に耐えきれず倒れ始めていた。
そんな状態では狙いを定められるはずもなく、熊の横腹を裂いたものの致命傷には程遠い。
大きな衝撃音と砂埃を上げながら引き倒された直後、ゴブリンの顔面に熊の牙が突き刺さり、熊の体を押し返せないまま首から上は噛み潰された。
グロテスクなグシャリという音の後、抵抗しようとしていたゴブリンの体から一気に力が抜け落ちた。その後も怒りに任せて熊が何度か噛み付くと、その衝撃に合わせて揺れるだけの屍と化していた。
ゴブリンの屍肉を齧り、引き裂いた熊は勝ち誇ったように雄叫びを上げた。
戦いが終わった後も目は赤いまま、体からは何かが立ち上っている。感情がまだ落ち着いていないのか、あるいは無関係な何かなのだろうか。
(何でもいいけど、そのままどこかに行ってくれ。)
たった一つの宗絃の願いは通じることなく、熊はその場で何かを嗅ぎ回るように鼻をヒクつかせながら周囲を警戒している。
そうして視線が向いた先は、間違いなく宗絃のいる茂みの方向だった。
再び視線が鋭くなり牙を剥き出しにするとこちらへと近づいてくる。
ゴブリンに近づいた時のように戦う動きではない。
ひ弱な獲物を狩る時の躊躇いのない動きだ。
逃げるという選択肢が生まれる隙すら与えない速度での接近から、前脚を振りかぶった瞬間、宗絃は本能でその場を跳び退いた。
空中で靴下以外の下半身に着けていた衣類が全て脱げていく、いや、衣類から宗絃が抜けたという方が正しい表現かもしれない。
そして眼下に見える先ほどまで自分が隠れていた場所の木は熊の一撃で抉れ、ゆっくりと倒れていくところだった。
二本ほどが同時にである。
さらには地面も、熊の一撃が通ったことが分かるほど抉れているのを見て、背筋が凍るほどの恐怖を感じる。
そして恐怖を感じたことがもう一つ。
(俺、跳びすぎでは?)
力加減など考えず全力で跳躍したことは確かだが、ここまで跳び上がることは考えていなかった。
というよりまともな人間がこれほど跳べるものではない。
これも魔法の効果なのだろうか?
標的を見失った熊から視線を逸らさないまま、この高度からいかに着地すべきかに思考を巡らせる。
身体能力が上がって着地も問題ないのならそれでいいが、失敗して死ぬのは恥ずかしすぎる。
何より下半身に靴しかしか身に付けていないのが恥ずかし過ぎる。靴下だけ履いているのが逆に辛い。このまま死んでしまったら誰にも見られなかったとしても跡形もなくなるほど熊に粉々にして欲しい。
思考が「恥」の一文字に邪魔され、染められそうになるのと戦いながら迫る着地に備えると、接地の瞬間、体を丸めて回転することで衝撃を完全に殺すことに成功していた。
身体能力の全てを出し切り無傷で乗り越えた宗絃だったが、その胸中に安堵はなかった。
未だに眼前の熊をやり過ごす未来は見えないままなのだ。
あのゴブリンを瞬く間に葬り去った攻撃力を防ぐ手段を持たないままでどうしてこの状況を打開するのか。
そのための策は今、宗絃の視界の端に映り込んだ。
着地した場所が運よく倒れたゴブリンの付近だったのだ。
その亡骸の横には熊を倒しうる可能性を秘めた武器が転がっている。




