第8話 ナナのつまみ食い
ある日の午前中。
屋敷の近くには、小さな商店街が広がっている。石畳の道の両側に八百屋やパン屋、雑貨店が並び、どこか懐かしい匂いが漂っていた。
ヤコブが春香を連れてその商店街へ足を運んだ。
「春香さん、ここで少し待って頂けますか? すぐ戻りますから」
「わかりました」
春香は雑貨店の前に立って頷いた。
ヤコブは足早にパン屋へ向かい、顔なじみのマダムと軽く言葉を交わす。
その姿を見送りながら、春香は胸の奥がほんのり温かくなるのを感じていた。
間もなく戻ってきたヤコブが、何事もなかったように袋を手にして告げる。
「では、一緒に屋敷に戻りましょう」
───
翌日。
春香はひとりキッチンに立っていた。
「今日何作ろうかな……」
「……ヤコブさん、お金を多めに置いてくれたけど、私のこと……信用してくれているんだ」
その事実に胸が熱くなり、自然と口元がほころぶ。
外は昼下がりの柔らかな陽射し。
「夕飯の買い物、私が行こう」
決心すると、財布を手にして再び商店街へ足を運んだ。
けれど歩き出してすぐ、春香は奇妙なことに気づく。
(……どうしてだろう。なんだか皆、私のことを知っているみたい)
果たして、パン屋のマダムがにこやかに声をかけてきた。
「こんにちは。ここらへんじゃ有名よ。綺麗だって」
「……えっ」
春香は思わず足を止める。
(わ、私なんか……綺麗じゃない。きっと、買ってくれたこの服のことを言ってるんだ)
けれどマダムは真剣な眼差しで言葉を重ねた。
「本当に綺麗な方ね。黒髪がとても似合っているわ」
「えっ……」
「ヤコブさんがね、あなたがこれから買い物に来るからよろしくって言っていたの。わからないことがあれば、何でも聞いてちょうだい」
(ヤコブさん……昨日、マダムと話していたのは……そのためだったんだ)
孤立しがちな自分を心配して、さりげなく橋渡しをしてくれていた。
(優しすぎる……)
春香は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、思わず深く頭を下げた。
「こちらこそ……よろしくお願いします」
──
その日の夕食後。
片付けを終えた春香は、ふとキッチンから物音がするのに気づいた。
そっと覗くと、棚の上で伝書バトのナナが夢中でとうもろこしをついばんでいる。
(あっ……あのとうもろこし、ご褒美用の高いやつだ……)
「……ナナ……」
(怒れない……こんなに夢中で食べてる顔、ほっこりしてて……可愛い)
つい声を潜めて見守っていると、背後から気配が忍び寄った。
「どうかしました?」
低く落ちる声が耳をかすめ、春香は反射的に振り返りそうになる。
「しっ!」
慌てて唇に指を当て、小声で答えた。
「ナナが……今、とうもろこし食べてて……顔がすごく可愛いんです」
ヤコブはそっと覗き込み、静かに頷く。
「……そうでしたか」
ふふ、と穏やかな笑みをこぼした後、彼は春香の耳元に口を寄せ、こそっと囁いた。
「確かに……可愛いですね」
「──!」
耳の奥をかすめる吐息に、春香の身体が小さく震え、思わず声が漏れてしまう。
ヤコブは一瞬固まり、耳まで赤くしながら慌てて視線を逸らした。
「あ……すみません。近づきすぎましたね」
「い、いえ……すみません。私、耳元弱くて……びっくりしちゃいました」
照れるようにナナの方を向く春香。
その頬を染める仕草があまりにも愛らしくて、ヤコブの理性の糸がふっと緩んだ。
彼はもう一度耳元に、こそっと囁く。
「……春香さんも、可愛いですよ」
「っ……!」
春香は顔を真っ赤にして振り返る。
「い、今の……わざとですよね!?」
「ハ、ハハハ……すみません。春香さんの顔があまりに可愛いので、つい……」
その時。
ナナが口を止め、つぶらな瞳で二人をじーっと見つめていた。
まるで「今の全部聞いたよ」と言わんばかりに。
一瞬の沈黙。
「……こら、ナナ! それは任務後のとうもろこしだぞ!」
急に声を張り上げるヤコブに、ナナは小首を傾げて羽をぱたつかせる。
春香はまだ耳に残る熱を抱えたまま、つい笑ってしまった。
「ふふ……」
その笑みを見て、ヤコブも口元を緩める。
こうして、ナナの前でも二人の距離は、また少しだけ縮まっていった。
続く




