第3話 春香の風邪とヤコブの能力
異世界に転移して、二週間。
朝、目を覚ますと、身体が重い。
「……風邪、引いちゃったかな……」
ぼんやりとした意識の中、扉をノックする音が響く。
「春香さん、大丈夫ですか?」
(あ……起きなきゃ……)
「だ……大丈夫です……」
ふらふらと扉の前まで歩き、そっと開ける。
「春香さん!? 顔色が……」
「ちょっと熱があるみたいで……ごめんなさい、片付けできなくて……」
「そんなこと気にしないでください。今は、あなたの体が一番大事です」
ふらついた春香の身体を、ヤコブがそっと支える。
「無理しすぎましたね……だめですよ、そんなに頑張っては……」
彼は迷いなく、春香を抱き上げた。
「……しっかり休んでください」
部屋に一歩踏み入れたところで、ヤコブが立ち止まる。
「ヤコブさん……?」
「春香さん……部屋に入ってもいいですか? なるべく見ないようにしますから」
「え……」
「女性の部屋に入るのは、失礼かなと思って……」
春香は思わず小さく笑った。
「ふふ……ヤコブさんなら、いいですよ。ここはヤコブさんの屋敷ですし……それに、私……安心できますから」
ヤコブは視線をそらし、頬を赤らめながら小さくうなずいた。
「……失礼します」
春香を抱き上げ、寝室まで運んだ。
そっとベッドに横たえる。
その瞬間、春香はふとヤコブの顔を見た。
「……」
視線がかち合う。
ヤコブは慌てたように目をそらし、頬を赤く染める。
「す、すみません……」
小さく咳払いして、掛け布団を整える手つきもどこかぎこちない。
「今日は、何もしちゃだめです。心配なので、何度か様子を見に来ますね」
「……ありがとうございます」
「今、水を取ってきます。置いておくだけなので、もう目を閉じてください」
扉が静かに閉まる音を聞きながら、春香は微かに微笑んだ。
(……優しいな、ヤコブさん)
胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
春香はゆっくり目を閉じた。
──
春香の夢の中。
野営の給水所。肩に不死鳥を乗せた青年が、笑顔で水を渡す。
「はいどうぞ!」
「いつもありがとう」
「もうずっと野営だねぇ……」
「早く戦争が終わるといいね」
「そうだな! この戦争が終わったらいろんな所行こうな……」
「ミルカ!」
ふっと笑う青年。
───
──はっと目が覚める。
頭に冷たいタオルが置いてあった。
「また同じ夢……彼は誰?……戦争?」
(ミルカ……? はるかじゃなくて……?)
ノックの音。
「春香さん、入りますよ」
「──!」
春香はつい横を向いてしまう。
(恥ずかしくて……寝たふりしちゃった……)
「……寝てるか」
ヤコブがそっと顔をのぞき、冷たいタオルを絞り直して春香の額へ。
そして、優しく髪を撫でる。
「早く良くなってくださいね」
扉が静かに閉まった。
春香は顔を手で隠す。
(ヤコブさん……優しすぎるでしょ。好きになっちゃうよ……)
扉の前で、ヤコブは口元を覆い、顔を赤らめていた。
「……やはり女性の部屋に入るのは……危険だな」
──
翌朝。
「熱、下がったかも……」
トントン、とノック。
「春香さん、入りますよ」
ぱっと目が合う。優しい瞳。
「元気そうで安心しました。……パン粥を作りました」
椅子に腰かけたヤコブが、柔らかく問いかける。
「食べられそうですか?」
「はい……なんとか」
一瞬、ヤコブの眉がぴくりと動く。
「顔赤いですよ……まだ熱、あるんじゃ……?」
そっと、彼の大きな手がおでこに触れる。
「だ、大丈夫です!! 元気ですから!」
「……そうですか。春香さん、すみません。今日は仕事があります。食事は置いていきますから、必ず食べてください」
「すみません……お仕事なのに……」
「あなたの身体の方が、大切ですから」
そして立ち上がり、
ふと、彼の頬が近づいて──頬と頬がかすかに触れた。
「──っ!」
「……行ってきます」
扉が静かに閉じる。
(la biseだっけ!この挨拶……やっぱり慣れないっ!!)
───
春香は少し寝てから、ゆっくり起き上がった。
階段を降りていくと、伝書バトがじっと彼女を見つめていた。
小さなくちばしで差し出されたのは、封をされた手紙。
「……ヤコブさんから?」
こくん、と頷く仕草に、春香は思わず笑みをこぼした。
便箋をそっと開く。
(わぁ……綺麗な字……)
――春香さん
体調は大丈夫ですか?
今日は夕飯を買って帰りますので、どうか休んでいてください。
万が一、具合が悪くなったら、そばにいるナナに手紙を託してください。すぐに戻ります。
ヤコブ
「……あなた、ナナっていうの? よろしくね」
「ポッ……」
鳩は頬を赤らめたように小さく鳴き、春香の肩にぴょんと乗る。
(可愛い……女の子かな?)
春香は目を細め、つい頬ずりしてしまう。
──
街の巡廻をするヤコブ、そして隣には肩にフクロウを乗せた後輩のマタイ。
「ヤコブさん……いつもより落ち着きがないように見えますが……」
「……なんでもない」
「いや……マタイなら話してもいいか」
「今、一緒に住んでいる女性が体調が悪くて気がかりで……」
「では……あなたの能力で伝書バトの視界を借りて、その女性の様子を覗けばいいではありませんか?」
ヤコブは少し顔を曇らせた。
「……そう簡単にはいかない」
「任務では平気で使うのに?」
「過去……容疑者の自宅を捜査する為に、ハトの視界で追っていた事がある」
ヤコブの声がわずかに震える。
「……容疑者が寝室で女性と抱擁しているところを見た……」
唇を噛みしめる。
「……当時、私が付き合っていた女性だった」
「………!」
マタイはその場で固まり、息を呑む。
「それ以来、女性が信じられなくなってしまった」
ヤコブは顔を覆い、苦笑に近い歪みを浮かべる。
「だからもし……はるかさんが男性を引き込んでいたら……私は立ち直れない……」
マタイは拳を握りしめながら、心の中で呟いた。
(……それは……女性不信にもなるな……)
ヤコブは苦笑を浮かべ、低く続けた。
「……でも、もし倒れていたら困りますね、一度だけ、確認しますか」
左目に触れ、ゆっくりと開くと──
目の前に映ったのは、ナナを抱きしめて
「ナナ〜可愛い〜もふもふ最高〜!」とはしゃぐ春香の姿だった。
「……っ!」
「どうかしましたヤコブさん!」
「……なんでもない」
キリッと表情を戻したが、耳まで真っ赤に染まっていた。
(……こんな動揺してるヤコブさん、初めて見たな)
「……他の者には言わなくでくれ」
「わかりました」
マタイはふっと口元を緩め、歩きはじめる。
(浮気現場ではなさそうで良かった……)
───
ヤコブは帰宅後、真っ先に春香のもとへ
「今帰りました」
「おかえりなさいヤコブさん」
「体調は良さそうですね……良かった」
「あの……春香さん……私の能力の話をしていいですか?」
「私は契約している霊獣の伝書バトと意思疎通と……」
ヤコブが急に視線をそらす。
「彼らの視界を共有できるんです……」
「ん?」
「なので、伝書バトが見ている光景を……私も見る事ができます。基本能力は切っていますが……」
春香はナナのほうをじっと見る。
春香は日中、ナナにずっとほぼずりをして
「ナナ可愛い!」と話しかけていた事を思い出す。
顔が一気に真っ赤に染まる。
「……っ、わ、私……めっちゃ恥ずかしいです……!」
「すみません……最初に伝えとくべきでした。一応音声は聞こえません」
「ただ……あなたの体調が心配で一度見ました。すみません……もうそんな事はしませんから」
「心配してくれたんですか?」
「当たり前です。倒れていたら困りますから」
春香は少し顔を押さえながら、
「心配してくれてありがとうございます。でもヤコブさんが話さなければ、私ずっと気づきませんでしたよ」
「いえ……あなたに隠し事はしたくないと思いました。嫌でしたら、鳩達も屋敷には入れませんので……」
「別に大丈夫ですよ……私鳥好きですし、正直に話してくれて嬉しいです」
春香はナナをそっと持ち上げる。
「ポッ……」とナナが鳴く。
「ありがとうございます」
つい視線をそらすヤコブ。
(あんなあどけない笑顔をナナにはするのか……)
春香の笑顔を思い出し、少し顔が紅くなるヤコブ。
──それ以降、春香はナナに頬ずりを控えた。
続く




