第14話 22時の約束
マルメイユは奇跡的に人命の被害はなく、ただ道の確保や瓦礫の撤去に追われていた。
救助隊員たちは夜通し作業を続け、野営を余儀なくされる。
「そちらで休んでください」
避難していた住民が声をかけてくる。
ヤコブは笑みを浮かべ、首を振った。
「大丈夫です。私たちは慣れていますから」
──嵐から一週間。
少し街が落ち着き、ようやく春香に手紙を送ることができた。
「……やっと伝えられる」
短い言葉で綴ったのは
ただひとつ「無事です。大丈夫です」。
───
春香の元。
夕暮れの室内。
テーブルの上に手紙が届くと、春香ははっとして震える指で封を切った。
「……無事……」
一行の文字を読み、安心と同時に堰を切ったように涙があふれる。
「よかった……よかった……っ」
声にならない嗚咽がこぼれ、頬を伝う。
その肩に、ナナとニコラがちょこんと乗り、頭を傾けて慰めようとする。
「……ありがとう……」
涙でくしゃくしゃになった顔を撫でながら、春香は手紙を胸に抱きしめた。
「手紙……書かなきゃ……」
───
再びマルメイユ。
夜。
復興作業を終えたヤコブのもとに春香からの返事が届いた。
疲れを押して封を開くと、そこには端的な言葉が並んでいた。
『元気で安心しました。よかったです』
ふと、紙の端が水滴で縮んでいることに気づく。
「……泣いて……私に心配をかけまいと……」
手紙をぎゅっと握りしめ、ヤコブは時計を見やった。
「……二十二時……少しだけ」
伝書バト・ナナの視界を借りると、そこに映ったのは、腫れぼったい瞼で眠りについている春香の姿だった。
「春香さん……」
思わず胸が締めつけられる。
眠る横顔を見つめながら、彼は囁いた。
「もっと……私に甘えていいんですよ……」
───
翌日、夜の二十二時。
約束の時間。
ヤコブはナナの視界を借り、静かに息を整えた。
──そこには、窓辺に立つ春香の姿。
彼女は真っ直ぐナナの方を見つめ、少し恥ずかしそうに笑うと、ゆっくり手を振った。
『……見えてますか? ヤコブさん』
音は届かない。けれど唇の動きで、確かにそう言っているのがわかる。
「……見えてますよ。元気そうで……本当に、よかった……」
胸の奥から言葉が零れ、自然と笑みがこぼれた。
春香は今度は手を胸に当て、もう一度大きく手を振る。春香はヤコブがこちらを見ているという確証は得られなかったが、きっと見ていると信じていた。
ヤコブはその姿を、息を呑んで見つめ続けた。
声は届かない。それでも彼女は信じてくれている。
(……こんなにも俺を……待ってくれて……)
視界の端が滲んでいく。
彼女に触れたい。抱きしめたい。だができない。
ただ見つめることしかできないのが、余計に胸を締め付けた。
「……春香さん……」
そのとき──。
「ヤコブさん、コーヒーを……」
テントの布がめくれ、マタイが入ってきた。
慌てて背筋を伸ばしたヤコブにマタイは、目を丸くする。
「……あ。すみません、お邪魔でしたか?」
「……っ! 入る前に声をかけろと言っただろう!」
マタイはフフッと笑い、肩をすくめた。
「はいはい。……なるほど……」
「……くっ……」
ヤコブは片手で顔を覆い、春香の方へ視線を戻す。
手を振る彼女は、もちろん何も知らない。
───
三週間の任務を終え、マルメイユの街に落ち着きが戻った頃。
ヤコブは住民たちを前に、きちんと敬礼して告げた。
「明日、私たちは本部へ戻ります。これまで協力していただき……感謝します」
すると、ざわりと笑いが広がる。
「おいヤコブさん、その格好で帰るのかい?」
指差された自分の服を見れば、泥にまみれ、何度も雨風を浴びた跡が残っている。髭も伸び放題、まともに風呂も浴びられていなかった。
言葉に詰まるヤコブに、あの時助けた老人が前へ出る。
「なぁ、もう仕事は終わったんだろう? なら、今夜くらい俺たちの“友人”としてもてなさせてくれないか」
「……」
しばし迷ったが、周囲の住民たちが同じように頷き、笑みを浮かべているのを見て、ヤコブは深く息をついた。
「……では、お言葉に甘えましょう」
──その夜。
老人は自慢の魚を焼き、香ばしい匂いが辺りに広がる。
「たんと食え。お前さんに助けてもらった命で焼いた魚だ」
笑う老人の声に、ヤコブの胸が熱くなる。
風呂を勧められ、湯気に包まれた小屋で久しぶりに体を洗い流す。泥と疲れが落ちていくと、心まで軽くなっていくようだった。
洗濯された服は清潔に干され、子供たちは走り寄ってきて小さな掌を差し出す。
「これ、あげる!」
差し出されたのは、光を反射する綺麗な貝殻だった。
ヤコブは膝をつき、子供たちの目を見ながら受け取った。
「ありがとう……大切にする」
──翌日、本部への帰還。
そして帰宅。
扉を開けた瞬間、春香がそこにいた。
彼の姿を見た途端、春香の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……っ……無事で……よかった……!」
声を震わせ、堪えきれずに泣きじゃくる。
ヤコブが何か言おうとしたその瞬間、春香は勢いよく飛び込み、彼の胸に顔を埋めた。
そして、泣きながら彼を強く抱きしめ、まるで二度と離さないとでもいうように腕に力を込める。
「……良かった……!」
その必死な温もりに、ヤコブも抑えきれなくなった。
大きな腕で春香を包み込み、彼女を離すまいと、さらに強く抱き寄せる。
胸の奥からこみ上げるものを抑えきれず、ただただ全身で彼女の存在を確かめた。
「…………」
春香が顔を上げたとき、その頬は涙で濡れていた。
ヤコブは震える手で彼女の頬をそっと包み、拭うように口づけを落とす。
「……泣かないで。私はここにいます」
春香の瞳が潤んだまま揺れ、次の瞬間、震える唇を彼に重ねた。
「おかえりなさい……ヤコブさん」
ヤコブは瞳を閉じ、彼女の温もりを深く受け止めた。
ようやく辿り着いた安堵と幸福が、胸の奥を満たしていく。
続く




