第11話 あなたは悪くない
春香は、ヤコブのために夕飯を作っていた。
「ヤコブさん、喜んでくれるといいな…」と、ぐつぐつ煮込む音に耳を澄ませながら。
やがて、玄関の扉が開いた。
「帰りました、春香さん」
「おかえりなさい……」
挨拶代わりにヤコブが頬にそっとキスするようになった。
その一瞬が、春香にはまだくすぐったくて、胸が熱くなる。
───
テーブルに置かれたビーフシチューを、ヤコブがひと口。
舌に広がる優しい味に思わず固まる。
「……っ」
「え? ヤコブさん、もしかして……口に合わなかったですか?」
春香が慌てて問いかける。
ヤコブは、しばらく言葉を探すように視線を彷徨わせ――やがて耳まで赤くして、かすれた声で言った。
「……い、いや……違います…」
「これ……一番好きになりました」
「えっ……?」
「こんなに温かい味、食べたことがないです」
春香は胸がぎゅっとなって、微笑む。
「……よかった。ヤコブさんのために作ったんです」
ヤコブは、スプーンを握ったまま小さく息を吐き、ぽつりと。
「春香さんの料理は本当に美味しいですね」
「……とても幸せです」
「ヤコブさん……」
春香の心臓が跳ねる。彼のぎこちなさが、何よりも真っ直ぐな気持ちを伝えてくる。
湯気の向こうで、二人の頬が同じように赤く染まっていた。
──
夕食後。
ソファの上でくつろぐ二人。
「今日も綺麗です」
「いえ……綺麗じゃないです。私なんて……」
(まだ、この歯がゆい感じに慣れない……こういうの普通なの?)
(私なんか、ずっと地味で“取り柄のないブス”って言われてきたのに……)
ヤコブは真っ直ぐに見つめてきた。
「春香さんは……本当に綺麗ですよ」
「えっ……」
「ちょっといいですか?」
ヤコブは、そっと髪へ触れる。
「黒く長い髪も、陶器のような肌も……そして黒い瞳も。とても美しい」
「なんで……そんなに褒めてくれるんですか? 私、自分に自信がないのに」
「春香さん……私がお世辞で言ってると思ってますか?」
視線を逸らした春香の肩が、小さく震えた。
「正直に言うと……私はすぐにでも、春香さんと一線を越えたいですよ」
「……っ」
「でも、まだ早いと思っています。あなたが大切だから」
「……」
「一線を越えるのは婚約をしてからです……それくらい、大切なんです」
「───!」
頬を濡らす涙が止まらなかった。
「大丈夫ですか? 私、何かひどいことを……」
「違います……。こんな風に、大切に思ってもらえたのが……初めてで……」
「ただ……私あんまりその……」
「……?」
「不感症かもしれなくて……ヤコブさん嫌がるかもしれないです……下手だったらごめんなさい……」
その瞬間、彼女の瞳が遠くを見た。
無理やり欲を押しつけられ、心も身体も凍りついていった日々。
「……っ!」
ヤコブの瞳に怒りが燃え上がった。
「……誰がそんな言葉を。あなたを大事にしない男など、男と呼ぶ価値もない!」
低く震える声が胸に響く。
「春香、あなたは悪くない」
彼は震える彼女の頬を包み、視線を逸らさず囁く。
「これからは私が証明する。あなたがどれほど愛されるに値するか……心も身体も、全部書き換えてみせる」
「……ヤコブさん……」
涙が頬を伝う。
春香の手を取り、そっと軽く唇を触れさせる。
抱き寄せながら、髪を優しく撫で、今度は
額に静かに口づけた。
ひとつひとつのしぐさは丁寧で、まるで繊細な宝物に触れるような優しさだった。
(前世では、上司に奪われるように……ただ欲をぶつけられただけだった。大切にされている感覚なんて、一度も……)
(こんなに満たされるのは初めてかもしれない……)
「今日はここまでにしましょうか……」
「あなたを焦らせるようなことは、絶対にしない」
ふっと笑い。
「……もうここのソファで、一緒に寝ましょうか」
ヤコブの低い声に、春香は小さくうなずいた。
「春香さん……顔を見たら理性が外れそうなので、背を向けますね。……おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
二人は静かに眠りへ落ちていった。
───
夜明け前、ふと目を覚ましたヤコブは、隣で眠る春香の横顔を見つめる。
(なぜだろう……守りたくてたまらない)
そう思った瞬間、心臓が熱くなる。
けれど彼はすぐに背を向け、再び目を閉じた。
(私は……もっと強くならねば)
まだ言葉にできない誓いを胸に秘めて。
──ふたりの物語は、確かに動き始めていた。
続く。




