第1話 婚約破棄
──夢の中で、誰かが泣いていた。
「お前のこと、好きだったよ……」
「生まれ変わったら、絶対お前を見つけ出す──」
焼け焦げた大地を背に青年は少女を抱え歩き出す。
────
春香25歳は、はっと目を覚ました。
天井の模様がぼんやりと揺れて見える。
「……またこの夢……」
何度も見ている。けれど、誰なのかは思い出せない。
ただ、胸の奥が苦しくなる。
それよりも──現実の方がよほど悪夢だった。
「今日、婚約破棄されたんだっけ……」
5年付き合って婚約までした上司に。
大事な話があると呼び出されて、結婚式の打ち合わせかと思って、お気に入りのワンピースを着ていったら――
「別れてほしい。好きな人ができた」と
理由は「若い子の方がいい」──後輩との浮気だった。
「……もうやってらんない……」
冷蔵庫を開け、缶チューハイを取り出す。
「お酒買い足してこ……」
夜の街をふらふらと歩きながら、春香はつぶやく。
「飲みすぎたかな……またあの夢も見たし……」
──その瞬間、視界の端でライトが光った。
「……はっ!」
キキキキ──ッ!
トラックの急ブレーキ音が響く。
……と思ったら。
「え……ここ、どこ……?」
目の前に広がるのは、石畳の街並み。
尖塔のある城、馬車、そして──空を飛ぶ巨大な影。
「……竜!? え、ちょっと待って……」
呆然と空を見上げる春香。
「これが……異世界転移……!?」
どうしよう……。
服はそのまま、ワンピース姿。
携帯もない。お金もない。
すると──
「お姉ちゃん、何してんの?」
見るからに怪しい男たち3人が声をかけてくる。
「──!」
(言葉はわかるけど……)
「なんでもないです……では……」
「おいおい……そんな足を出したスカートとヒール履いて……お前、娼婦じゃないのか? どこかから逃げたのか?」
「いえいえ……違います!!」
ぐいっと手を引かれ、裏路地へと連れて行かれそうになる。
「助けてください!」
通行人は見て見ぬふり。
「えっ…」
「迷っただけです!助けてください!」
「おい! 何をしている!」
男たちは「管理教会のやつだ」「逃げろ!」と叫び、すぐに逃げ出した。
振り向くと、軍服姿の金髪の男性が真剣な目でこちらを見ていた。
なぜか目が離せない。
「お嬢さん、大丈夫ですか?………あれ……どこかでお会いしたことがありましたか?……」
ふっと笑う男性。
「助けていただいてありがとうございます」
腰には真剣。
バサバサと鳩が舞い降り、彼の肩に止まる。
「鳩…?」
「この伝書バトは、私の霊獣です」
「霊獣!?」
(なにそれ!? ファンタジーだ……)
「私は霊獣『伝書バト』使い、霊獣管理協会の指揮官ヤコブ=アルカディールです」
「あなたの名前は?」
「伊藤春香です」
「はるか……」
ヤコブは一瞬考えるような顔をして、
「いや、なんでもない……」
「春香さん、ご自宅には戻れますか?」
「……帰る家がないんです……」
「えっ……」
「もしよければ、私の屋敷に来ませんか?」
「その格好では、また変な男どもに声をかけられてしまう……」
「えっ……?そんなにこの服、危ないんですか?」
ヤコブは少し顔を赤らめ、視線をそらす。
「いえ……その……言いにくいのですが……」
「娼婦と同じような格好をされていますので、勘違いされるかと……」
「──!」
春香は思わず赤面し、自分の身体をぎゅっと手で隠す。
(お気に入りのミニスカートのワンピースがこの世界の娼婦と同じ格好!?)
(えっ……私そんな格好で歩いてたの!?)
(恥ずかしい!)
ヤコブは軍服を脱ぎ、春香の肩にそっとかけてくれた。
「……冷えるでしょう」
そのまま一歩下がり、彼は春香に手を差し出す。
「足元に気をつけて。石畳は歩きにくいので」
「え……」
(手を……差し伸べられてる?)
これまで「早くしろ」「遅い」と乱暴に腕を引かれたことはあっても、
こんなふうに“私の歩幅に合わせてくれる手”を差し出されたのは初めてだった。
胸の奥がじんわり熱くなる。
(……紳士って、こういう人のことを言うんだ……)
恐る恐る手を重ねると、ヤコブはしっかりと支えるように握り返してくれる。
決して強すぎず、けれど確かに守ってくれるような手の温かさに、思わず心が震えた。
「こちらです。ご安心を」
彼はゆっくりと歩き出す。
春香はその背中を見つめながら、ふと笑みがこぼれてしまった。
───
10分ほど歩くと、立派な屋敷に着いた。
「ここが私の屋敷です」
(大きいお屋敷……)
「安心して下さい。私はこの国の防衛している者です。決してあなたに手は出しませんから」
ハハハと笑う。
(この人は信頼できる……なんでだろう……)
屋敷に入ると誰もいない。
2階へ上がり、ある部屋に案内される。
「すみません……服は姉が昔着ていたものしかなく、もう嫁入りして使っていないので、好きにどうぞ」
「私は下の応接間にいますので」
「すみません……」
クローゼットを開けると、可愛い服が並んでいた。
「服可愛い……こんなひらひらのスカート着たことない……」
───
春香は昔のことを思い出す。
──婚約破棄された上司に言われた言葉。
「会社でスカート着るなよ! 浮気する気か?」
「肌露出しすぎ!」 「携帯貸せ」
今思うと、モラハラに近かったかもしれない……。
───
着替え終わり、応接間へ向かうとヤコブが紅茶を用意していた。
「お似合いですよ、はるかさん。紅茶どうぞ」
アールグレイの香りがふわっと香る。
「はるかさんは、ここから先、行くところがありますか?」
「……いえ……ないです」
「そうですか……」
「もし春香さんがよければ、私の屋敷に住みませんか?」
「えっ…!」
「姉も嫁入りし、両親も他界しているので、今は私しか住んでいません。部屋はたくさん余っています」
「えっ……でも、なんか悪すぎます!何かお手伝いします!」
ヤコブは少し悩んだ後──
「では……春香さん、すごく大変なことお願いしてもいいですか?」
(大変なこと……?)
「なんでもやります!!」
ヤコブはさんざん悩んだ末、言った。
「では……こちらに来てくれますか?」
2階のある部屋へ案内される。
「あの……本当に嫌なら断ってくださいね」
微妙な顔をするヤコブ。
(なんでそんな顔をするんだろう)
扉を開けると、そこは書斎だった。
机の上には、山のような書類が積まれている。
開けた勢いで、紙が何枚かひらひらと舞った。
「……酷い光景でしょう」
「春香さんに……この書類、まとめてほしいと思ったのですが……」
春香はじっと書類を見つめる。
ヤコブは春香の顔を見て、申し訳なさそうに言う。
「嫌ですよね……やっぱりすみません……」
「いえ!! 書類管理や経理処理出来ます!」
「えっ…! ケイリ……!?」
「どのように…? いつまでに終わらせれば良いですか?」
「事件の事情聴取や、災害の損害の請求書などがずいぶん溜まってしまって……ゆっくりで良いのでまとめて欲しくて」
「ふふ! 得意中の得意です!この量なら3日で終わります!」
「3ヶ月の間違いでは……」
ヤコブはふふと笑う。
「荒れているので、幻滅されるかと思いました……」
(年末の処理に比べればこんな量すぐできちゃうわ! 事務、経理歴5年のOLの経験がやっと生かされるわ!)
「では……春香さんには、この仕事を、他の家事は私がしますから」
「いやいや……家事くらいできますよ」
「いえ……それはあまりにも仕事が多すぎますから」
「ヤコブさんに私恩返ししたいんです! 仕事は午前中、家事は午後やりますから」
「いいのですか? 私の屋敷の家事までも……」
「無理はしないでくださいね」
「後は……どうぞついてきてください」
「春香さんにはこの部屋を使ってもらいましょう」
部屋は広く、内装は花柄がかかれた女性用の部屋だった。
「可愛い……」
「気に入って頂けましたか? 私は春香さんの部屋に入りませんから、ご安心を」
「ちなみに基本私は一番奥の部屋にいます。何かあれば、呼んでください」
「……ありがとうございます」
ヤコブは少し視線をそらし、ふっと息をついた。
「夕飯は簡単なものですが、私が用意します。準備ができたら呼びますので、部屋で休んでいてください」
「えっ、でもそんな……」
「いえ。普段は自分で済ませてしまうので、人のために支度するのは……その……」
一瞬、言葉を探してから、彼は照れたように笑った。
「不思議と、春香さんにはしてあげたいと思ったんです」
「……!」
「私が屋敷にいて嫌じゃないんですか?」
「……なぜか……春香さんなら良いかなと思いました」
「えっ……」
「こんなふうに感じるのは、初めてなんです。不思議ですね」
その穏やかな笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……私、特別に思われてる……?)
なぜかほっとできる安心感と、ほんの少しのときめきが、胸の奥に広がっていった。
そして──婚約破棄され異世界転移したOLの私が、紳士指揮官との共同生活を始めることになった。
続く