3話.幸せの想い
「律。最後のページは、まだ書かないで。もう少し、一緒に旅をしていたいから」
梓は弱々しい声でそう言った。その声は、消え入りそうに細かった。その言葉の重みに、俺はただ頷くしかなかった。終わりのない物語のように、梓との時間も続いてほしいと願った。その願いは、虚しくも叶わなかった。刻一刻と、別れの時が近づいていることを、俺は骨の髄まで感じていた。
最期の朝、梓は苦しそうに呼吸をしていた。その胸は、今にも張り裂けそうに上下していた。俺は梓の手を握り、小説の続きを読み聞かせた。物語は、主人公が最も美しい花を見つけるために、最後の旅に出る場面だった。俺は涙で文字が滲んで見えなかったけれど、それでも必死に、震える声で読み続けた。もう声が出なくなりそうだった。
「律……」
梓が、か細い声で俺を呼んだ。その声は、風に消え入りそうだった。
「何だ? 梓。ここにいるよ、ずっとここにいるから」
「ありがとう。律と出会えて、本当に幸せだった。短い時間だったけど、私、律と出会えて、良かった……。悔いは、ないよ……」
「梓……」
俺の目から、涙が止めどなく溢れ出した。視界はぼやけ、君の顔すらまともに見えなくなった。声にならない嗚咽が喉の奥で詰まり、呼吸すら困難になる。心臓が、まるで誰かに握り潰されているかのように痛んだ。
「約束、覚えてる? 私のこと、忘れないでね。どんなに辛くても、生きて、律の小説を、書き続けてね……」
「忘れるわけないだろ。一生、忘れない。お前は俺の、たった一人の、大切な人なんだから。お前なしじゃ、俺は…」
「良かった……」
梓は、はにかむように笑った。その笑顔は、出会った頃の梓と同じ、ひまわりのような明るさだった。けれど、その笑顔は、あまりにも儚く、あまりにも痛ましく、俺の心に深く、深く刻み込まれた。その笑顔が、俺の人生で最後に見た、梓の表情だった。永遠に、この瞼の裏に焼き付いて離れない。
梓の呼吸が、ゆっくりと、そして、止まった。
握りしめていた梓の手から、力が抜けた。温かかったはずの手が、みるみるうちに冷たくなっていく。俺は、ただ梓の名前を呼び続けることしかできなかった。何度叫んでも、何度揺さぶっても、梓が目を開けることはない。その事実に、俺の心は砕け散った。まるで、ガラスが砕け散るように。
病室に響く、俺の嗚咽。それは、悲しみというよりも、絶望と後悔が混じり合った、獣のような叫びだった。夏の終わりに出会った君は、冬の始まりに、俺のもとから旅立ってしまった。俺の心に、決して癒えることのない深い傷痕だけを残して。もう、二度と君の温もりに触れることはできない。
梓が逝ってから、俺の世界は色を失った。俺の周りの世界は、モノクロームに変わってしまった。リビングに飾られていた梓が生けてくれた花は、水を与えても、ただ虚しく枯れていくばかりだった。どんなに美しい花も、俺の目には灰色にしか映らなかった。食事は喉を通らず、眠ることもできなかった。瞼を閉じれば梓の笑顔が、瞳の奥に焼き付いたように鮮やかに浮かび、目を開ければ梓のいない現実が、容赦なく俺に突きつけられる。ただひたすらに、梓のいない現実を受け入れることができなかった。この空虚感が、いつまで続くのだろう。終わりが見えない暗闇の中に、俺は一人取り残された。
ペンを握っても、文字を書く気になれなかった。インクの匂いさえ、梓のいない世界では虚しく感じた。梓に読み聞かせていた小説も、未完のまま、机の上に置きっぱなしになっていた。もう、誰にも読ませることはないだろうと、諦めていた。俺の物語は、梓と共に終わったのだと思っていた。書く意味が、見出せなかった。
ある日、梓の遺品を整理していると、一冊の小さなノートが出てきた。それは、梓が毎日つけていた日記だった。表紙には、かわいらしい花のイラストが描かれている。その絵を見ただけで、梓の優しい声が聞こえるようだった。
日記には、俺と出会ってからの梓の想いが綴られていた。俺への愛情、俺との他愛ない日常への喜び、そして、病気と闘う苦しみ、それでも俺に心配をかけたくないという、とてつもない優しさが、一つ一つの文字から溢れ出していた。その一文字一文字が、俺の胸に、容赦なく突き刺さる。梓が、どれほどの痛みに耐えていたのか。俺は、何も知らなかった。俺は、なんて愚かで、無力だったのだろう。
そして、日記の最後のページには、震えるような文字で、こう書かれていた。
「もし、私がこの世からいなくなっても、律には幸せになってほしい。そして、律の書く小説を、世界中の人が読んでくれるように。私は、ずっと律の隣にいるから。空の上から、律の物語を見守っているからね。だから、泣かないで、律」
梓の言葉に、俺は再び涙が止まらなくなった。梓は、最期まで俺の心配をしていたのだ。俺は、そんな君の優しさに、ただ甘えていただけだった。梓のいない世界で、どうして俺が幸せになれるというのだ。君がいない世界に、幸せなんて存在するのだろうか。
続く
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