2話.抗えない運命
「忘れないでね。私のこと」
その時の梓の瞳には、ほんの少しだけ、不安の色が宿っていたように思う。その瞳が、今も俺を責め続けている。俺はそれを、ただの戯言だと思っていた。いや、思いたかったのかもしれない。信じたくなかったんだ。しかし、その言葉が、まさか現実のものとなるとは、その時の俺は知る由もなかった。もしあの時、俺がその不安に気づいていれば、もしあの時、俺がもっと早く行動していれば、もしあの時、俺がもっと……。あの日の後悔は、鉛のように重く、俺の心を沈め続ける。答えは、永遠に見つからない、残酷な問いとして、俺の心を苛み続ける。
梓の体調に異変を感じ始めたのは、冬の始まりだった。倦怠感が続き、食欲不振、そして何より、あの明るかった笑顔が少しずつ翳りを見せ始めた。日に日に顔色が白くなり、その細い体は、まるで風に揺れる葦のように頼りなく見えた。まるで、生命の炎が、少しずつ、しかし確実に、弱まっているかのように。俺は何度も病院へ行こうと促したが、梓はいつも「大丈夫だから」と、その小さな手で俺の背を叩いて、笑ってごまかした。その笑顔に、俺はどれだけ騙されただろう。しかし、ある日、梓が急に倒れた。震える手で救急車を呼び、病院へ連れて行くと、医師は沈痛な面持ちで、病名を告げた。
膵臓癌。それも、末期だという。
俺の頭は真っ白になった。まるで世界から音と色が消え去ったかのように、目の前がぐにゃりと歪み、耳鳴りがした。医師の言葉は、まるで遠くで聞こえる雷鳴のように、ぼんやりとしか届かなかった。その言葉の意味が、俺の脳で処理されるまで、どれほどの時間がかかっただろう。梓は、隣で静かに涙を流していた。その小さな肩が、これほどまでに震えているのを、俺は見たことがなかった。その震えが、俺の心に直接響いてきた。
「ごめんね、律。私、知ってたの。ずっと前から、体に異変があったの。でも、律に心配かけたくなくて……」
梓は震える声でそう言った。俺は怒りよりも、ただただ絶望が押し寄せた。なぜ、俺に何も言ってくれなかったのか。なぜ、もっと早く気づいてやれなかったのか。俺は、梓の隣にいたのに、何も知らずに、暢気に小説のことばかり考えていた。君の苦しみに、どうして俺は気づけなかったんだ。後悔の念が、とめどなく、そして、容赦なく、津波のように押し寄せる。
治療が始まった。抗がん剤の副作用で、梓はみるみる痩せ細っていった。肌はカサつき、その透明感は失われていった。俺の胸は抉られるようだった。しかし、梓は決して弱音を吐かなかった。その強さが、かえって俺を苦しめた。俺が弱音を吐くことを許さないかのように、梓はいつも俺に微笑みかけた。その笑顔が、俺の心をさらに深く傷つけた。
「まだ大丈夫。きっと良くなるから。ねぇ、律、また二人で旅行に行こうよ。あの海の見える場所に行きたいな。あの時、行けなかった、あの灯台にも登りたいな。今度は、もっと遠い国へも行こうね」
梓は俺にそう言い、無理にでも笑顔を見せようとした。その笑顔を見るたびに、俺の胸は締め付けられた。その痛みに、俺は何度も息が詰まりそうになった。喉の奥が熱くなり、どうすることもできなかった。俺はただ、梓の傍に寄り添い、その小さな手を握ることしかできなかった。無力な自分が、ただただ悔しかった。この手で、病を、痛みから、君を救い出してあげられないことが、何よりも辛かった。
病状は悪化の一途を辿った。梓の意識が朦朧とすることも多くなった。時間の感覚も曖昧になっていった。ある日、梓はか細い声で、俺の手をぎゅっと握った。その手は、氷のように冷たかった。俺の手の温かさを、少しでも君に分け与えたかった。
「律。私ね、律の小説、読みたい。最後まで、律の小説を読みたいの」
その言葉に、俺は胸が張り裂けそうになった。俺の小説はまだ完成していない。梓に見せてやれるものは、何もない。このままでは、梓との約束を果たすことができない。こんなにも、間際になってしまって。
「書くよ。必ず、書き上げるから。だから、もう少しだけ、頑張ってくれ。な? なあ、梓……」
俺は震える声でそう言った。その声は、自分でも驚くほどか細かった。梓は小さく頷いた。その日から、俺は病院の片隅で、梓の枕元で、ひたすら小説を書き続けた。一文字一文字に、梓への想いを込めた。梓の目を覚ますたびに、少しずつ読み聞かせた。俺の拙い言葉が、少しでも梓の痛みを和らげてくれるようにと、祈るように。声が枯れても、俺は読み続けた。
物語の主人公は、旅をする花屋の青年。彼は、最も美しい花を探して世界中を旅する。旅の途中で出会う人々との交流、そして花にまつわる様々なエピソード。それは、俺と梓の思い出をなぞるように紡がれていった。あのカフェでの出会い、海辺でのデート、公園で過ごした穏やかな午後。君と歩んだすべての道が、俺の言葉となって紡がれていく。それは、俺が梓に捧げる、最初で最後の物語だった。俺たちの愛の証だった。
梓は、俺の小説を聴く時だけは、少しだけ元気になったようだった。その顔には、微かな血の気が戻り、瞳には光が宿ったように見えた。目を閉じ、俺の言葉に耳を傾ける梓の顔は、安らかに見えた。その横顔を見るたび、この時間が永遠に続けばいいと、心から願った。物語が終わらなければ、君も終わらないと、そう信じたかった。
「律。最後のページは、まだ書かないで。もう少し、一緒に旅をしていたいから」
続く
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