第19話 アグナリア火山
森の中を進んでいるうちに、足裏に伝わる土の感触が、徐々に乾いたものへと変わっていくのがわかった。
じめっとしていた空気も少しずつ軽くなり、湿った緑の匂いが、いつの間にか焦げた石のような臭いに置き換わっている。
気がつけば、あれほど目についたブルーハウンドやフォレストパピヨンの姿は消えていて、代わりに、岩肌にぬるりと張り付く、赤黒い塊──中型犬ほどもある巨大カタツムリの魔物──レッドゼリーが、あちこちに姿を見せ始めていた。
「……レッドゼリーがいるってことは、そろそろアグナリア火山か」
思わず漏れた独り言に、自分で少し驚く。
ゲームだった頃は、隣接マップに入るたびにロード画面で区切られていて、地形の変化なんてほとんど意識することがなかった。
でも今は違う。
土の湿り気も、空気のにおいも、足取りの重さも、すべてが連続していて、現実だ。
「あら、記憶喪失のわりには、ずいぶん詳しいのね?」
リディアが振り返りながら、不思議そうな声音で口を開く。
……しまった、と心の中で舌打ちする。完全に油断していた。
「あー……その、地図で見たから」
「ふうん、記憶がないのに地図は読めるの?」
「地図くらい、誰だって読めるだろ?」
自分でも言い訳が苦しいとわかっている。が、今さら引けない。
しれっとした顔で答えると、リディアはしばらく俺の目をじっと見て──そして、ぽんと袖の内側から何かを取り出した。
古びた羊皮紙。端が擦れていて、何度も折り畳まれた跡がある。
広げると、中には波打つような線と、色の濃淡で描かれた斑点模様。おそらく等高線と地形記号だろうが……にじんだインクがどこか生々しくて、ゲームのミニマップとはまるで別物だった。
「これを見ても、同じこと言える?」
リディアは口元に小さな笑みを浮かべていた。
からかうようでもあり、試すようでもある、そんな目だった。
「……まあ……な?」
無理があるとわかっていても、シラを切るしかない。
リディアはしばし俺の様子を観察して──ふっと、肩をすくめるように笑った。
「……そういうことにしておいてあげる」
その一言に、内心で大きく安堵の息をつく。
異世界ものの小説で、地図を読むには学がいる、なんて描写を見たことがあったけど……実際にこうして現地の地図を見せられると、それも納得だ。
等高線だの記号だの、俺が普段使っていたスマホの地図アプリとは、まるで勝手が違う。
『地図くらい誰でも読める』なんて口走った瞬間は、正直ちょっと冷や汗ものだったけど──なんとかごまかせたみたいで助かった。
とはいえ、油断はできない。
ここから先は、魔物の生態系が変わる。
森を抜けて火山地帯に入るにつれ、さらにレベルの高い個体や、炎属性をもった敵が増えるのはわかっていた。
ゲーム知識だと笑われようと、命がかかっている以上、使える情報は全部使うつもりだ。
レッドゼリーのすぐ横をすり抜けるようにして進みながら、ふと足を止める。
低く、くぐもった音。地の底で何かが唸っているような、鈍い震動が土を伝って足裏に届いた気がした。
「……聞こえた?」
「ええ。火山の鳴き声ね」
リディアは表情を変えずにそう答える。
「活動期に入ったばかりのアグナリア火山は、たまに地鳴りを起こすの。今の程度なら問題ないけど、周期が短くなってきたら注意した方がいいわ」
「噴火するってこと?」
「そうね。噴火の兆候が見えたら、即座に引き返す。
それができなきゃ、たとえあんただって死ぬわ」
少し真剣な声色に変わったリディアに、思わず姿勢を正す。
ゲームの頃は、火山地帯なんてただのステージ背景でしかなかったけど、今は違う。
あの山が本当に生きていて、牙を剥くことがあるのだと思うと──一気に背筋が冷えた。
ちらりと上空を見やる。
木々の隙間からのぞく空は、まだ青かった。だが、その色がいつ変わるかはわからない。
「……急ごう。できれば、日が暮れる前に依頼主のところまではたどり着きたい。
サリエルさんの話によれば、その近くに山小屋もあるみたいだしね」
「コボルドに壊されてなければいいけど」
「たしかに」
リディアのジョークに苦笑いを浮かべると、俺たちは再び足を進めた。
***
「よくぞ来てくださいました冒険者様」
黒っぽい岩肌の地面にまばらに生える、赤茶色の草本を踏み均して中腹まできた時だった。
一軒の石組みの家から1人の中年の男性が姿を現した。
「依頼を受けて来てくださった方ですよね?
いやぁ、なかなか来てくれないので、もうどうしようかと……。
あ、私は今回の温泉地の調査隊の隊長を務めております、ヴィガンです。どうぞよしなに」
気さくな調子の中にも、疲労と焦りがにじんでいる。
見ると、彼の服の裾には焦げ跡のようなものがあり、腰には簡素な石板と巻物が数本、無造作に差し込まれていた。
「──で、今回の依頼って、温泉の調査に伴う安全圏の確保のために、周辺の魔物を退治してほしいって話であってる?」
外で話すのも、コボルドが寄ってきて危険なので、というヴィガンの提案で小屋に入った俺たちは、早速彼から話を聞くことにした。
外壁にはコボルドの爪痕なんかがちらほら見えたが、小屋の中は意外と無事そうでほっと安堵する。
「はい、そうなんです。最近、この山で魔力の反応が強まっていて……それで調査したところ、温泉が湧き出していましてね。
領主様のご命令というのもあって、早めに調査したいのですが……」
「温泉……魔力の反応……」
リディアが、なにやら思案顔になる。
「ただ、どうにも最近は魔物の動きが活発でしてね。いつもならこのあたりに出ないはずのコボルドが現れるようになって……そのせいで、調査隊の進行が滞ってしまってるんです。
きっと、廃坑の方から溢れ出してきたんですな……」
「つまり、俺たちが前線を押し広げて、安全圏を確保するわけか。
ついでに廃坑の調査もして、コボルドを殲滅する、と」
「ええ、どうやら依頼書の内容が正確に伝わっていたようで何よりです」
思っていたより楽そうな仕事だ、と俺は椅子の背もたれに身を任せた。
ギィ、と少し軋んだ音が部屋に響く。
「まだ日も暮れてないし、今のうちにさっさとすませてしまおうか。
夜は、この小屋で休んでもいいんだよな?」
「ええ、もちろん。
冒険者様用に一部屋空けておりますので。
温泉の方は……申し訳ありません、水質調査も終わっていないので……どうかご容赦を」
深々と頭を下げるヴィガン。
俺はリディアに目配せをする──と、何か考え込んでいる様子だった。
「リディア?」
「ふぇ? あ、あぁ、話は聞いてたわ!
えっと、犬コロを退治してまわればいいのよね、今日のうちに!」
慌てたように弁明する彼女に、俺は首肯する。
「あと、今夜ここの部屋使ってもいいってさ。
一部屋だけなんだけど、俺たち用に空いてるみたい」
「それは助かるわね!」
「温泉はまだ使えないみたいだけどね」
「……そ、そうね。
温泉として使えるかの調査に邪魔だから討伐してこいって依頼だものね。
当然よ! ちゃーんと把握してるわ!」
どうやら、話を聞いていないように見えて、ちゃんと耳だけはそばたてていたらしい。
「じゃ、ちゃっちゃと片付けてくるよ。
帰ってくるまでに晩御飯の準備でもしておいてくれ」
「ありがとうございます!
どうぞ、あの憎き魔物どもを殲滅してやってください!」
ヴィガンはほっとしたような笑みを浮かべると、深々とお辞儀して俺たちを送り出した。
次の投稿は18時です。お楽しみに!




