第1話 目醒め
ネットゲーマーの大学生である俺、鑑悠里は頭痛をこらえながらひたすらキーボードを打っていた。
敵は強大。仲間も手練れだらけだというのに苦戦している。霞んだ視界を無理やりかっぴらき、乾いた唇をかみしめ、限界を超えて魔術を打ちまくり──そうして約二時間の苦闘の末に、ようやく目の前のボスのHPが最後の大技で削り切られるのを見届け、大きく安堵の息を吐いた。
「ふぅ……なんとかなったぁ……」
ウィンドウに表示される自分の残りHPはたった1点を残すのみ。もう四日も寝ずに参加していたレイドの面々が、ヘッドフォンの向こうで歓喜の雄たけびを上げる中、俺は眉間をつまみながら頭痛と眠気を振り払った。
悠里のリアルな方のHPも残りわずかだった。この喜びの中、すぐに眠ってしまいたい欲望に駆られ気を抜きかける──が、しかしまだ眠るわけにはいかない。
「さて。みんな分配に移ろうか……」
カラカラに乾いた喉から声を絞り出す。手元のエナジードリンクに手をやって、喉の渇きを潤そうと試みるが、腕が重くて持ち上がらない。
(くそ、耳鳴りが……眩暈が……)
頭が重い。脳が揺れる。しかし体は言うことを聞かない。
いうことを聞かないなら仕方ない。
分配はまた明日に回して、今はただ、この眠気に身を任せようか……。
霞む視界に映る、何かのウィンドウ。
俺は特に何かを気にすることなく、ただ重力の赴くままにキーボードに突っ伏して、そのまま意識を手放した。
(四徹は、さすがに無謀だったな……)
どうしてこんなことになったのかと言えば、それは自分のせいだ。
とるべき大学の単位をすべて取り終えた俺は、ようやく時間を気にせずゲームができると息巻いていた。大好きな魔術を、時間を惜しむことなく操れることの高揚感に抗い切れなかった俺は、寝食と言う生命活動に必要な予定をすっぽかして没頭し続けた。
それがいけなかったのだ。
二徹三徹くらいなら普段からしていたが、四日目は流石に無謀だったと意識の暗闇の中で反省する。他人のせいにしていいというなら、いつもはすぐに集まる素材アイテムがなかなか集まらなかったとか、両親が事故で他界して以来一人暮らしの身には、夕食などのタイミングを告げてくれる人が身近にいなかったとか言い訳できるかもしれない。
でも一番の原因はやっぱり、いつもギルドの面々が集まる時間を忘れて、休憩のタイミングを逃したことかもしれない。
新しく追加されたレイドボスを、皆で狩りに行こうと約束していたし、何より俺はこのゲーム内では五指に入る高火力メイジでもある。戦力として俺が抜けるのはギルメンに対して申し訳ないし、何より自分自身がゲーム内で開発していた魔術系スキルの試し撃ちができるとしてとても楽しみにしていたのである。
というわけで先ほどまで約二時間ほどレイドに参加した結果が冒頭のことだった。
皆には悪いことしたなぁ。ドロップの分配前に寝落ちしちゃったし、起きたら軽く謝っとこ。
「それにしても……こんなずっと真っ暗な夢は初めてだな……」
揺蕩うような浮遊感に身を任せながら、暗闇を泳ぐ。
やがて暗闇の中に光を見つける。
金色の、大きな杯だ。
中には赤黒い液体が湛えていて、ブクブクと泡立っている。
昔から魔法が好きで、ファンタジー作品をよく読んでいた俺は、その杯を見て、まるで聖杯の様だと思った。
円卓の騎士だとかが出てくる、中世ヨーロッパの寓話だか何かに出てきた、願いを叶える聖杯。あるいはキリスト教のミサにおける、神の血を模倣した赤いワインが注がれたゴブレッドのような。
しかし、俺にはどうもそこから神聖な雰囲気は微塵も感じられなかった。
どちらかと言えばもっと禍々しくて、狂気的な、名状しがたい恐怖のようなものを孕んでいる気がして、俺は目を逸らした。逸らした先にあったのは、巨大な七つの眼球だった。
「ッ──!」
俺は跳ね起きた。
冷たい空気。濡れた服。風の匂い。虫の羽音。
見上げた空は木々の隙間から見える、曇った昼。
まだあの巨大な目に見られているような視線と気配を感じて背中を振り返るが、そこに立っていたのは大きな針葉樹だった。
「夢……?」
荒い息を整えて呟いた声に、違和感を覚える。
視界に垂れる銀色の糸束に訝し気な視線を送って掴んでみると、どうやらそれは自分の髪の毛らしく、頭皮を引っ張られる痛みに俺は顔をしかめた。
「……どういうこと?」
呟いた声は、やはり高い。頭蓋に響く甘いカワボに混乱するが、同時にあることが脳裏をよぎっていた。
「いやいやまさか」
まだ夢の続きを見ているのか。
俺は立ち上がって──思いのほか低くなった視線の高さのせいで、ぐらりとふらついて、尻もちをついた。
「わっ」
運悪く尾骶骨のあたりを打ち付け、痛みにもだえ苦しむ。
さっき髪を引っ張ったときにも思ったが、夢の中なのになぜこんなにもリアリティが高いのだろうか?
背後の木を支えに、ゆっくりと立ち上がって自分の体を見下ろした。
黒いローブとハーフパンツ。白いブラウスにワインレッドのタイとエメラルドのブローチ。腰のベルトには細くて長い、一本のワンドが差されていた。
「これ……」
見覚えのあるデザインだった。
まぎれもない。俺が寝落ちする寸前までプレイしていたゲーム『Das Fest der Hexen』──通称DFHのアバターの姿そのものだった。
「ははは、夢の中でまでゲームって……。もしかして、ステータスなんて言ったら本当に開くんじゃないだろうな?」
半ば乾いた笑みを浮かべながら口にした、その時だった。
ヴン、と小さな振動音を立てて、目の前に四角い窓──ステータス画面が表示されたのである。
「ひゃっ!?」
思わず、情けない声が飛び出て、恥ずかしさに耳が熱くなる。
しかし周囲を見回しても誰もいない。俺は安堵の息を吐いて、『まじかよ』と一人言ちた。
デザインの端から端まで、何もかもがDFHの通りに再現されているのを見て、これがもし転生なら、ゲームの世界に迷い込んだ系なのかな、と一人納得しながら苦笑いを浮かべる。
「まあ、一致してるのはデザインだけみたいだけど」
軽く目を通すだけで、ゲームのものとは大きく異なっている点が複数見受けられる。例えば名前だ。俺はゲーム内ではマーリンと言う名前を好んで使っていたが、ここには俺の本名であるカガミ・ユーリに変更されている。
変化がある部分はまだある。
例えば種族欄と聖別欄だが、『人間』や『女』の下に『(?)』が追加されているし、MPはゲームでは2000だったものが9999になっている。
ゲームでは2000がカンストで、課金アイテム『神朱の妙薬』を使うことで最大値の三倍──計算上、MAX6000まで引き上げられ、それが上限に設定されていたが、今やそれを上回っている。
これだけあれば、俺が開発した極限魔術が連続で四発も打てる計算になってしまうが……なんだこのぶっ壊れ性能は?
「起きたら皆にこの話しよっかな。覚えてたらだけど」
これがまだ夢の中であるという可能性を胸に抱きながら、俺はスキル画面を開いた。
「こっちは……なんか、見覚えのないスキルツリーが生えてるな?」
DFHで俺が習得していたスキルツリーは『元素魔術』『錬金術』『召喚魔術』『付与術』『魔女術』『数秘術』の6種類である。しかしそれに加えて新しく『異世界人』というスキルツリーが増えていたのだ。
「他のスキルは変化はなさそうだけど……」
異世界人。
その文言に、俺の脳裏に『やはり異世界転生なのか?』という不安がよぎる。
別に困る話じゃない。
元の世界に家族はもういないし、祖父母もすでに他界している。困ることがあるとすれば、ネットでつながったギルドメンバーたちくらいで、現実では希薄な人間関係しか構築してこなかった俺にとって、ある日突然異世界に転生してしまうことについては特に懸念はなかった。しかし、不安がないわけではないのである。異世界と言えばたいてい中世ヨーロッパ的な文化の上に成り立っている。大学で習ってきたことだが、当時の衛生観念はまあひどいものだ。そこに適応できるかと聞かれると、自信をもって是と首肯しがたいところがあるのである。
とはいえ、今までのことを鑑みると、これが夢であるという可能性はかなり低そうだ。であれば覚悟を決めて、このスキルツリーに異世界で快適な生活を送れる便利スキルが含まれていることを祈る以外、できることは何もなかった。
「使えるようになるスキルは……〈異世界言語完全習得〉〈情報操作解析〉〈■■■〉……ってなんだ? 伏字?」
上二つは何となくわかる。要は異世界の文字や言葉を完全に使いこなせるようになるっていうよくある便利スキルだ。そしてもう一つはこのウィンドウを開いたりできるようになる、いわば鑑定系スキルに違いない。
しかし、伏字になっているこの謎スキルだけは、内容が判然としない。説明を求めてタップしてみるが、文字化けした文章が開くばかりで、少し恐怖心すら覚える。かろうじて読み取れるのは、一番最後に書かれている『信仰心0/7』くらいだ。
いったい何に対する信仰心なのかわからないが……これがゲームなら、きっと何か重要な意味でも持っているに違いない。
などとそんな風に考えていた時だった。不意に、背後でがさがさと物音がしたかと思って振り返ってみると、六本脚の野犬が、角を生やしたウサギを咥えて藪から現れたのである。
「いや、犬っていうより狼──」
毛並みや威厳、目に宿る獰猛な眼光。警戒心マックスの野良犬ならぬ野良狼(足が六本)が、不意に現れた人間(俺)の視線とかち合った。
「ガウ!」
「ひゃ!?」
あわや戦闘か!? と思わず身構え、こちらも情けないながらのうなり声という悲鳴を上げて応戦する……と、なんということでしょう。狼は慌てたようにキャンキャン鳴きながら、口に咥えていたウサギをほっぽり出して逃げていった。
「えっと……何が起きたんだ?」
頭を抱えてしばらくして、ふとあることを思い出した。
「そういえばさっきの狼。ブルーハウンドじゃん」
DFHのMobの中でも、森系のダンジョンの浅い層では必ずと言っていいほど見かけるモンスター。
それに気づいた瞬間、俺はこの世界がもしかするとDFHの中なのではないか? という仮説に思い至った。
「もしそうなら──!」
俺はパーティウィンドウを呼び出すと、レイドの状態を確認する。
俺が寝落ちした時は、まだレイドが解散されていなかった。もしここがDFHの中なら、俺と同じようにこっちに来てる仲間もいるかもしれないと考えたのである。
……しかし、そううまい話はなかった。パーティは解散状態。フレンドリストをあさっても、そこには空欄ばかりが並んでいて、現実のセーブデータは引き継がれていないようだった。
「そりゃそっか」
突拍子もない仮説だとわかっていた。異世界に転生という現象がありうるのなら、と少しだけ期待していたといえばその通りだったが、やはりこうして現実を突きつけられると心が苦しい。
「GMコールも多分意味がないだろうなぁ」
試しに開いてみたが、ラジオの砂嵐のような音しか聞こえてこない。たまに何か、粘性のある液体の中から泡がぶくりと現れて破裂するような音が聞こえるが……気味が悪いのでこれからは開かないことにしよう。
「と言うことは、ゲームとよく似た世界、ってところが妥当かな。となるとギルドハウスに預けてた装備とかアイテムは消えてそうだなぁ」
自前のアイテム欄は無事だろうかと確かめると、そっちの方は全然無事なままだったのでほっと安堵の息を吐く。食料系の素材アイテムもあるし、この分ならしばらくは生きていけそうだ。
「元の世界に帰る方法も判らないし、戻ったところでこの体なら、戸籍関係とかややこしそうだし……よし、決めた! これからはこの世界で、自由気ままに生きてみよう!」
せっかく、前世のしがらみも何もない、まっさらな自分に生まれ変われたのだ。
多少の不安はあるが、前世で培った知識チートでやりくりすれば無問題なはず。
俺は決意を新たにすると、マップ画面を開いて森の出口へ向けて歩き始めた。