第16話 ブルーオーガ - II
「グルルルルルルル……」
水蒸気爆発の衝撃波が収まったあと、焼け焦げた地面と炭の臭いが辺りに漂っていた。
煙の向こう、わずかに火傷の痕を残したブルーオーガが、立ったままこちらを睨んでいる。
魔術耐性、予想以上──だが、それでいい。
俺は口角が吊り上がったまま戻らないのを自覚しながら、杖を構え直した。
(あれで軽い火傷程度……さすが魔術耐性の権化ともいわれたエリアボスだ)
──だからこそ、今回の目的には最適だった。
水ぶくれした青い肌が、ぶくぶくと泡立ちながら再生していくのを認めながら、次の実験の準備を始める。
次の検証は数秘術──。
『数秘術』スキルにあるのは、時間操作をする陰属性と空間操作をする陽属性の二種類のスキルツリー。
〈混沌魔術〉なんてEXスキルもあるが、それは以前にも言った通り、魔術を分解して新しい魔術系スキルを構築するものなので、今は陰陽二種類の属性だけを頭に置いておく。
「頼むから、まだ壊れないでくれよ……!」
頭の中に流れるキャストタイムがカウントダウンされていくのを眺めながら、ワンドをブルーオーガに向けた──次の瞬間だった。
「グゥアァァアアアア!」
ブルーオーガが咆哮し、くるりと踵を返した。
「ありゃ!?」
全力の逃走。
どうやら逆立ちしても俺には勝てないと判断したのだろう。
太い木の幹をかき分けて、一目散に逃げだしていく──が。
「残念、逃げられないよッ!」
杖の先端に紫色の魔法陣が展開し、同時にブルーオーガの足元にも紫色の魔法陣が展開。
その瞬間、何か重い荷物でも引きずるかのように動きが鈍くなった。
「陰属性魔術〈遅延負荷〉。
ゲームだったころは単なる『鈍足』のデバフしかなかったけど、現実になった今なら、もっと面白い使い方ができそうなんだよなぁ……!」
「面白い……使い方……?」
リディアが怪訝そうに首を傾げる。
驚きと困惑が入り混じったその表情に、俺は口元だけで笑みを浮かべた。
〈遅延負荷〉は、攻撃速度と移動速度を減少させる状態異常『鈍足』を付与するだけの単純な魔術だ。
フレーバーテキストにも『対象の時間を遅らせることで動きを鈍くする』とある。
つまりこの魔術は、対象の時間の流れそのものを遅くするという理屈で成り立っている。
現実になったこの世界では、それは単なる比喩では済まない。
ちょっと物理に詳しい人間なら、この仕組みに無数の応用を思いつくだろう。
「簡単に言うと、この魔術は相手の時間を遅らせるんだ。
で──ここで、物理学の話になる。特殊相対性理論って聞いたことある?」
「そ、それって……ブラックホールの近くでは、時間が止まるってやつ……!?」
「そう。それ。
『重力が強い場所ほど時間の流れが遅くなる』っていう、あの法則。
つまり逆に言えば、『時間の流れが違う場所が存在すると、その境界には重力が生まれる』ってことだ。
……それにしても。ブラックホールのこと知ってるんだ?」
「仮説レベルの話だけど、師匠が話していたのを聞いたことがあるのよ」
「なるほど」
あのおじさん冒険者、ただの変わり者だと思っていたけど、どうやらそれだけじゃすまないかもしれないな……。
ひょっとすると、この世界におけるアインシュタインみたいな立場になっているのかも。
(いや、だとしたら冒険者なんてやってないか)
俺は頭を振ってその仮説を否定した。
「つまりこの魔術は、時間の流れが遅い領域を相手の足元に直接作ってる。
その差によって、重力的な制約を与えて、動きを鈍くしてるってわけさ」
「な、なんて……それ、魔法の次元を超えてないかしら……!?」
「あはは、面白いこと言うね」
発達しすぎた科学は魔法のように見える、なんて有名な言葉を思い出しながら、俺は笑い声をあげた。
リディアの唇が、驚きのあまりかぶるぶると震えているのが白騎士の体越しにも確認できる。
彼女は知識も常識も備えた才女だ。
その分、理解してしまったことの異常さに怯えているのだろう。
わかるよ。
自分の常識を超えたものを目にした瞬間の、その畏怖の感情。
俺にも経験があるからね……。
俺は、魔術に興味を持ったきっかけである、前世の記憶の一場面を回想しながら微笑んだ。
(このまま、もう一段階踏み込もうか)
俺は舌なめずりしながら杖を掲げた。
時間のゆがみによって動きを遅くする魔術。
副作用として重力の強化が発生する──ならば、それを何度も重ね掛けしたらどうなるだろうか?
「詠唱時間がもったいないな……。
そうだ、リディアがやってた逆の手順での魔術行使ってやつ、ちょっと試してみようか」
魔力そのものの操作のやり方は分からないが、ラノベだと確か、自分の体内に力の流れを感じ取るとか何とか、そんな感じのイメージだったはず。
必死に俺から逃げようと手足をもがき、汗と涙をだくだくと流すブルーオーガをよそに、俺は軽く目を閉じて体内の魔力に意識を集中させた。
(……おお、ある。あるぞ!
なにかすごい力の濁流みたいなものが──ん?)
不意に、俺は濁流の中に、見覚えのある幾何学模様と文字の羅列が映し出されていることに気づく。
「これは……そうだ〈遅延負荷〉の術式だ!
それと、なんかその奥にもっと複雑な術式が見えるな……これは……?」
見たことのない術式だった。
見たことのない理論で構築された、複雑怪奇で、しかし整った術式。
これを書いた術者が、数学者が持ち合わせるような美学と同時に、マッドサイエンティストが見せるような、倫理のかけらもないただ純粋なだけの探求心と喜びが垣間見えた。
(なんの術式だ……?)
読み解こうにも、読めない記号が、知らない構文が多すぎて、全く未知の言語で書かれた分厚い書籍のように思える。
術式が書かれている層の深さから考えるに、これはおそらく、脳内のキーボードや、かつてのゲームと同じようにメニュー画面を呼び出せるあの『異世界人』スキルツリー──その発動方式全体を支えている、いわばOSのようなものなのだろう。
……まあ、その解明はまた今度にしよう。
今は、目の前の実験に集中すべきだ。
俺は体内の魔力を杖を通して体外に流出させると、もがいているブルーオーガを包み込んだ。
「グァ!?」
ブルーオーガの動きが止まる。
どうやら俺が何をしようとしているのか気が付いたらしい。
奴はこちらをゆっくり振り返ると、焦ったような表情で泣き叫んだ。
「ごめんね。でも君はもう俺のモルモットだからさ」
脳内に映るキーボードに指を走らせ、〈遅延負荷〉を発動させる。
すると、魔力が瞬時に術式に変換され、紫色の魔法陣が再度展開した。
「ビンゴ!」
「グァアアアアアアアア!!!!」
ブルーオーガが叫び、焼け焦げた地面に片膝をついた。
どうやら予想通り、キャストタイムの短縮に成功したらしい。
これぞ、真の無詠唱魔術……!
「あは! あはははははははは!!」
すごい!
速い!
発動から展開までがほぼノータイムだ!
何発でも重ね掛けができる!
ゲームだったころは重複しなかった状態異常が、何枚でも重複して掛けられるぞ!
頭の中でショートカットキーを連打するたびに、地面にめり込んでいくブルーオーガ。
肉がきしみ、骨が悲鳴を上げてバキバキと折れていく。
魔術の効果でどうやら再生速度まで落ちているようだ。
それに合わせてHPの減少速度も落ちているみたいだな。
これは新発見だ……!
「……っと、これ以上はブルーオーガを死なせてしまうな。
まだもう一つだけ、試せていなかったスキルツリーがあるんだ」
俺は陽属性魔術の〈短距離転移〉を使って近くまで引き寄せると、体の再生が完全に終わるまで待った。
次に試そうとしている魔術系スキルは『魔女術』。
最初に〈祭壇召喚〉というスキルを使うことで使用可能になる魔術で、DFHでは全スキルの中で最も火力と射程範囲が広いスキルツリーだった。
「本来はレイドボスに大打撃を入れるための秘密兵器……リアルで言うところの核弾頭みたいな存在だから、ブルーオーガごときに使うんじゃあ、オーバーキルならぬスーパーオーバーキルなんだけど……実戦でいきなり使うにはちょっと不安があるからね。ここで試験させてもらうことにするよ」
そう言うと、俺は空間一帯に向けて魔力を大量に放出した。
「──〈祭壇召喚〉」
次回は18時です。