第0話 失敗した召喚
──涅に満ちた大聖堂に鐘はならない。
ただ、燭台に揺れる炎が、黒曜石の壁に金の詩篇を投影しているだけである。
祭壇の中心に据えられたのは、一つの巨大な金の聖杯のみ。
その内には、赤黒く光る液体状の魔力が、胎動するように揺れていた。
──神朱。
神の血を模倣する、濃密な魔力を溶かし込んだ葡萄酒である。
であれば、この杯を囲うように配置された七色の宝石はすなわち饗餐に配されるパンの役割を担っていることは、この場の誰の目にも明らかだった。
神官たちは膝を折り、跪いて祈りを捧げている。
その声は言葉と言うよりも鳴き声や叫び声の様で、低い獣のような唸り声の様でもあったが、しかしどこか荘厳な響きを持って輪唱されるお経の様でもあった。
神官たちの祈りの声が、徐々に速度を上げていく。声は大きくなり、高くなり、その振幅を激しくするのに合わせて、徐々に聖杯が大きく振動する。
やがて金切声にも似た祝詞が聖杯を破壊せんとした時だった。
聖杯がこぼれた。
ぶくり、ぶくりと、濃密な魔力が泡立ち、血液のような液体が、杯の縁からとろりとあふれ、祭壇を濡らす。
朱は朱を呼び、涅を蝕み、やがて溶けた血肉が泡のように立ちのぼった。
最初に現れたのは、心臓の鼓動。
それはドクドクと脈を打ち、骨と筋肉を絡めながら形を成していく。
肋骨が生え、脊椎が伸び、肉が巻きつき、皮膚が薄く貼られ、目のない顔が虚空を仰いだ。
眼球は後からやってきた。
杯から転げ落ちたそれは、血の床を転がりながら、一つ、また一つと空の眼窩に吸い込まれ、ようやく、人の形となった。
──白い肌。
──銀の髪。
──碧い瞳。
その姿が目に焼き付いた瞬間、神官の中の一人が泣き崩れた。
「降臨なされた……! 真なる救済の光が……! ゴトシャ様万歳!」
だが。
「……ッ、あ……あああああああッ!」
別の神官が突然、頭を押さえて絶叫した。また別の者は目が飛び出し、口から血を吐き、眼球が地面を転がった。そしてまた別の者の頭部はみるみるうちに白髪化し、肌が干からび、老人のように変わっていく。
数十人近い神官が同時に狂気にのまれ、呻き、笑い、血涙を流し、叫びながら祭壇に突っ伏していく。
それでも誰も止めようとはしなかった。これは禁忌。世界を救う神の御使いの召喚。その代償。祝福であり、同時に罰でもあった。
──その様子を、ナーガラッハは黙って見ていた。漆黒の法衣に金のラインが浮かぶ、耳の長い老齢の男だ。彼は両手を袖の中に隠し、ただ微動だにせず、笑いも涙も見せず、しかし確かに満足げな眼差しで。
まるで、自らの演出が完璧に進行していると確信しているかのように。
だが次の瞬間──その少女の姿は、ふっと風にさらわれるように霧散した。
「……っ!? き、消えた!?」
「まさか、召喚に……失敗……?」
「アイエエエ!? シッパイ!? シッパイナンデ!?」
凍り付く聖堂。
騒めく神官たち。
落ちる眼球、濡れた床、染み込んだ血と、未だ聖杯の中で蠢く朱の名残。
だがナーガラッハは、やはり黙っていた。
その視線の先にあるのは、失われた勇者ではない。
──彼にとって、この"失敗"こそが、予定された"完成"だったのだから。