【番外編】おとこ
番外編。本編完結後の二人。緒方視点。
暑い。暑すぎる。
彼女がいくらぱたぱたと手のひらで仰ごうが、太陽は容赦なく、僕らの上にさんさんと日光を降り注ぐ。
体育祭が近付いている。
クラスマッチの終了と共に訪れたこの高校の夏は、終業式を過ぎてもなお、ずいぶん騒々しく忙しく、そして、楽しい。
文句をこぼしながらも、彼女の左手にはビニル袋がしっかり握られている。カルピスの原液(こんなの久々に見た。小学生の時に祖母の家で見た時以来だ)がビンの中で揺れ、そのたびにスーパーのロゴが入った透明の袋がかさかさという。
この学校に転校してきてまだそんなにたっていないが、引っ越し慣れしてきているせいで、クラスの連中と打ち解けるのにそう苦労することはなかった。
転校した先に、まさか小夜ちゃんがいるとは思っていなかったが。
「小夜ちゃん」
こうして彼女の名前を呼ぶのは、なんだか小学生の男の子に戻ったみたいで気恥ずかしいし、実を言えばいつまでたっても慣れない。
「やっぱりそれも俺が持つよ。なんかひきずりそうだし」
たいていの女子なら半分遠慮交じりに了承してくれるようなことなのだろうが、案の定、彼女は機嫌を損ねた。
「それって、あたしの足が短いって言いたいの?」
ぎろりと上目づかいに(彼女は僕より小柄なのでどうしようと上目遣いになってしまうのだ。何かしらの意図もないのに)僕を睨み、鼻息荒く無理矢理歩幅を広げだした。
彼女のことだから、僕が歩調を合わせていたのに気づいていたはずだ。
(緒方君と牧田さんって付き合ってるの?)
(いや…、違うけど。なんで)
すいぶんぞんざいな口調になってしまったのは自覚していた。しかし、くるりくるりと毛先に指をからめた彼女らは、くすくすと笑って、
(ううん。緒方君って彼女居るのかなーと思って。よく牧田さんと一緒にいるし)
…ああ。
ああ。
もちろん僕だって馬鹿じゃない。こんなことの数週間後には、どこからか僕は呼び出されることになって、彼女らのお膳立ての下、知らない誰かに想いを打ち明けられることになるのは、十分承知していた。
うぬぼれるわけではないが、僕の顔立ちがそれなりに好意的に見られるだろうことや、転校生という物珍しさから一時の間注目が集まるだろうことは理解している。事実として。
でも、それを僕が歓迎するかと言ったらまったく話は別だ。
(緒方君と牧田さんって付き合ってるの?)
そうだよ。
そう言えるものなら、言いたかった。
僕はため息を押し殺して、彼女の肩を軽くたたく。
ぽんぽん、と軽く2回。
「暑いし、コーヒーでも飲もうか。別に急ぎの用ってわけじゃないんだし」
意識して数拍あとに、『おごるよ』と付け加えた。
彼女はあからさまにぴたりと止まって、僕にビニル袋を押しつけた。慌てて受け取る僕に、
「学校の裏にあるストロベリーフィールズがいい」
彼女はにっこりとほほ笑んだ。またしても僕の予想通りに。
再会して知ったことがある。
大きくなった小夜ちゃんはもちろんかわいくもなったが、そのぶんずいぶんと現金で、ある意味かわいくなくなっていた。
*
僕と彼女がこうしてカルピスを買い出しに来ていたのは、体育祭の練習のためだった。出場する種目ごとに持ち回りで係が決まっていて、その競技の練習が終わったら、清潔なバケツ(!)いっぱいに作ったカルピスとプラスチックのコップを持ってグラウンドに出る。
ぞろぞろと集まってくるメンバーたちに流れ作業のようにカルピスを注いでいるうちに、いつの間にか人だかりは消えて、そのころにはバケツが空になっている、というものだった。生徒たちの間ではもっぱら『カルピス係』とそのまんまの名前で呼ばれていて、明日の当番となった僕らがカルピスを買い出しに来たわけなのだ。
こういうところもなんだか面白いと思う。
僕が以前通っていた高校は、勉強勉強ばかりで頭が石のように硬い連中ばかりだった。
その点、ここはいい。生徒は高校生とはいえ、みな大人だし、教師たちもいろいろとうるさいことを言わない。
僕がそんなどうでもいいことを考えている間、彼女は黙々と細長いスプーンでアイスにまみれたコーンフレークを口に運んでいた。
ずいぶんと深く、大きさ自体も結構大きなグラスには、ついさっきまでアイスやらチョコやらバナナやらが入っていたはずだが、それはもうあらかた消えている。
彼女は店に入るなりメニューも見ずに、「カシューナッツパフェひとつ」と言い放った。僕が何か言う間もなかった。
これのどこがコーヒーだって言うのか。
僕が今度は押し殺さずに溜息をこぼすと、彼女は、
「だってパフェなんて高いから自分で食べることなんてないでしょ。ここでおごってもらうときはパフェにしようって決めてるの」
と、まったく悪びれずに言った。
その口ぶりからすると、誰か僕以外の人からもずいぶんとおごってもらっているのだろう。まあ、確かに彼女には何かものをあげたくなるような、いいこいいこしたくなるようなそんな感じがある。それは昔からそうだった。
クラスマッチの打ち上げを抜け出したその晩、彼女に連れて行かれたレストランで、僕は彼女に告白したようなものだったはずだし、彼女だってその前に、僕に言っていたはずだ。
(正直今でも緒方君のこと全然怖くないわけじゃないけど。)
(でも考えてみたら、「キスして」って言われたのが今頃だったら、私ちゃんとしてたかもしれないって思うの。)
(キスだけじゃなくて、その先も。)
お互いがお互いに対して間違いなく『これから』を感じていて、それなのにまったく進展する様子がないことに僕は焦れていた。
今まで恋愛してきてこういった形になったのは初めてだし(大体の場合、僕の恋愛は明確な始まりと終わりによって動いていた)、ずいぶんとマイペースな小夜ちゃんにどういう形でそれを伝えればいいのか、僕は悩んでいた。
「ごちそうさまでした」
やっぱりまったく悪びれた様子のない彼女の顔を見て、まあいいか。と思い始める自分は相当にほだされていると思う。
僕は苦い笑みを返して、思わぬ形で軽くなってしまった財布をズボンの尻ポケットに詰め込んだ。
*
「あのさ」
「なに、小夜ちゃん」
「この間から思ってたんだけど、なんで『ちゃん』付けなの」
…?
僕の位置から見下ろしても、反対側に目をやっている彼女の顔はうかがえない。
生ぬるい風が気休め程度に僕らの肌を撫でて、彼女の髪を揺らした。
「なんでって昔はそう呼んでた気がするけど。嫌だった?」
「うん。嫌だ」
ストロベリーフィールズからの帰り道。学校のすぐ近くに来たところで彼女は言った。
「まえ言ったでしょ。名前で呼んでって」
「?…呼んでるけど」
「だからさあ…」
正真正銘にあきれた様子で、彼女はようやく僕を見た。
「小夜って呼んでくれない?」
もう高校生なんだし、『ちゃん』付けはないでしょ。
それにあたしはそういう時はそう呼んでもらうって決めてるの。
さらりと言った。 校門をくぐる。かしゃんかしゃんとカルピスの瓶同士が両手に抱えたビニール袋の中でぶつかって音を立てる。
彼女の言う「そういう時」がどんな時なんだかまったく分からなかったし、彼女の名前から「ちゃん」が取れたって僕らの関係はほとんど何も進んでいないわけだけど、僕は慌てて、彼女から目をそらした。
なぜって、この火照りはきっと照りつける太陽のせいだけじゃない。と僕には分かっていたから。
*
後日教室で、彼女を「小夜」と呼んだら、隣にいた大岡さんから「手塩にかけた娘をどこの馬の骨とも知れない男にとられた父親」のような顔で睨まれたのは、また別の話だ。
僕にしてみれば名前を呼び捨てにするのを許されただけなのだが、大岡さんがそんな顔をするってことは、名前で呼ばれることに小夜なりの思い入れがあるのだろう。
まあ、今のところはそれでいいか。
持っていたシャーペンをくるくる回す機嫌のいい僕を、小夜が怪訝な顔で眺めている。
遠いあの日に言った「好きなら僕にキスして。」が彼女に受け入れられる日はもしかしたらそう遠くないのかもしれない。
シャーペンを回し損ね、落してしまったのを見てふっと小夜が笑う。
その表情の柔らかさに、僕はどこかぼんやりとそんなことを思った。
-THE END-




