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おんな  作者: ようこ
7/10

7



 あの木の下でキスを迫られた後、一度だけ彼が私の家に来たことがある。

 まだ引っ越しが決まる前のことだ。


 ピンポンを鳴らした彼は、あのいい子そうな、人畜無害そうな例の笑みを浮かべて、

「さよちゃんはいますか?」

と言った。


 あの日、彼は困ったような顔をしたお母さんに「ごめんね。今日、小夜出かけてるのよ」と言われたはずだ。

 その私はと言えば、リビングの奥、玄関からは死角になってちょうど見えないところに座り込んで、じっと耳を澄ませていた。

「そうですか…ありがとうございます」

「ごめんね。また遊びに来て」

「はい」

 彼が行ってしまったあと、私はお母さんから散々追及された。

 

 せっかく遊びに来てくれたのに。

 行けないならちゃんと自分で言いなさい。

 今度おいでってまた誘ったら?


 まだ小学生の私に一体どうすることができただろう?

 キスどころか、まともな初恋すらまだだったというのに。

 

 その夏、彼が私の家に遊びに来ることはなかった。

 私はあのキスを迫られた日を最後に彼と口をきくこともなかった。

 

 別に彼のことが嫌いになったとか気持ち悪いとか思ったのではない。

 むしろ、どちらかといえば私は嬉しかったのだと思う。

 ああいった形で自分を求められたことは初めてだったから。


 でも、それに気づいたのは最近のことで、当時の私はただただ、再び彼とどんな顔で会えばいいのか、何を話せばいいのか、何をすればいいのか、それがまったく分らなくて、ただただ怯えていただけなのだ。





 チャールズ&キースのサンダルはクラスマッチの打ち上げには勿体なさすぎるくらいの小夜のとっておきだ。

 この靴をはいた自分の脚の魅力を、小夜は客観的に理解している。

 クラスのほとんどのメンバーが参加していた一次会から早々に抜け出した小夜と彼は「room 305」の奥まった席に腰をおろした。


「へえ……」

 店の内装を見回しながら彼が小さく呟いた。

「なに?」

「すごくおしゃれだ」

 全体は暖色の間接照明のみでやや薄暗く、2人が腰を下ろすカウチのビビッドな赤は、天井から吊られた繊細なシャンデリアのオレンジ色の照明で映えていた。

 まるでパリのアパルトマンのような店だった。

 カウチのサイズのせいで、2人の距離はカップルのように近い。

「それはどうも」

「誰かに連れてきてもらった?」

 ふっとその時見せた笑顔が、なぜかあの木の下で見せた表情と重なって一瞬ぎくりとする。口元だけは笑みの形だが、目の無表情さがあの時と同じだ。

「そう思う?」

「違う?」

「んー…、教えない」

 ふっと笑う気配がして振り向く。

「牧田さんはさ、ずいぶん手ごわくなったよね」

 ようやく小夜も笑い出す。

「何?それ。…白状すると、ここ、大岡とよく来るの。…えーと、大岡って分かる?」

「牧田さんとよく一緒にいる背の高い子?」

「そう。残念、男に連れてきてもらったんじゃありませんでしたー」

 くっと彼が噴き出した。

 ちょうどそこで店員がやってきた。

「お飲み物はお決まりですか?」

「えと、私はジントニックで。緒方君は?」

 彼は軽く目を見開き小夜を見ると苦笑して「じゃあ俺はラムコーク」と告げる。

 料理のオーダーは小夜の勧めたコースをとることにし、店員が笑顔でメニューを下げて去っていくと、彼が「大丈夫?」と声をかけた。

「?何が?」

「牧田さん、飲めるの?」

「うん。おいしいよね」

「そうなんだ。それは残念」

「何それ」

 くすくすと笑い合う。

 料理が運ばれてくる頃には会話もずいぶんスムーズだった。

 二人で出された料理の感想を言いながら、しかし、核心に触れる話をまだ何一つしていないことにお互い気づいている。

 メインディッシュのホロホロ鳥を食べ終え、小夜のもとにドルチェが運ばれてくる頃になると、お互いそれなりに呑んだはずなのに、二人の間をじっと沈黙が支配した。

 とはいえ、その沈黙は別に不快なものではなくて、小夜が『今日は思ったより楽しかったな』と思ったちょうどその時、彼が口を開いた。

「俺さ、本当に昔、牧田さんのこと好きだったよ」

 小夜がアッフォガートを口に運ぶのをグラス片手に見守っている。

 小夜は熱いコーヒーに溶ける冷たいバニラアイスの甘さが、まるでオーバーラップしたかのように感じ、目を瞬いた。

「本当のこと言うと、こうやって会うまでほとんど顔も名前も忘れてた。すごく好きな女の子がいたって事以外忘れてたけど」

 静かに手元のグラスをコースターの上に置く。

「でも一目見たら思い出した。なんでか知らないけど、あの頃のこといっぱい思い出した」

「…」

 小夜はかちゃんとスプーンを置いた。

 手元で小さな銀色のスプーンが照明を反射して鈍く光る。

「なんで私なの?」

「…は?」

「どういうとこを気に入ってくれたの、ってきいてるの」

 彼は、あからさまに困った顔をして、そんなこといわれても…と苦笑した。

「そうやっていきなりぶっきらぼうになるとことかかな」

「何それ」

「正直さ、好きなとこ1個ずつ説明しろって言われたって無理だよ。そんなこと俺の方が教えてほしいくらい」

「…。緒方君はさ、そういう恥ずかしいことをさらっと言っちゃうところが逆に信用ならないんだよ」

「…照れてんの?」

「……」

 小夜が小さくため息をつく。

 それを耳ざとく聞きつけた彼はぴくりと眉をあげた。


「緒方君」


 私のこと名前で呼んでくれない?昔みたいに。


 彼が珍しく驚いている様子なのには構わず、小夜は微笑んだ。




※作中の描写は未成年の飲酒を推奨しているものではありません。

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