6
鉄製のドアに体を押し付け、バタンと閉めた。
手がひやりとして、慌てて身体を離す。
リビングからテレビの音が聞こえてくる。
私は息を整えながら、ゆっくりとリビングへ向かった。
「おかえり。早かったね」
お母さんが洗たくものをたたんでいた。扇風機が弱風で、がこんがこんと首を振っていた。
私はたたんである洗たくものを踏まないように注意して、お母さんの近くに腰をおろした。
「ただいま」
なるべくテレビの方を向いたまま、言った。
なんでもないような顔をしてみせたけど、私は今にもこぼれそうな涙を必死でこらえていた。
洗たくものをたたむお母さんを見て、私はものすごく安心した。このすごく、は本当に並大抵のすごく、ではなくて、なんだか私はぐちゃぐちゃだった。
リビングのカーペットのふかふかはシロツメクサの葉っぱのふかふかとは全然違ったし、薄暗いあの場所と違って、ここにはレースのカーテンを通して太陽の光が入ってくる。
「お母さん、買い物に行ってくるからちゃんと玄関の鍵しめといてね」
お母さんが手早くエプロンを外す。体育座りをして、ばかみたいにテレビばかり見たまま、私は「ああ」だか、「ふん」だか、いい加減に返事をする。
実際、テレビの内容なんかほとんど頭の中に入ってはこなかったけど。
私は体育座りで座っていた。
そのまま、ずっと座っていた。
お母さんは帰ってきてから、玄関のかぎをしめていなかったといって私を怒ったけど、私は体育座りで座っていた。
私の心臓はまだばくばくいっていた。
私はテレビに夢中だということになっていた。
たとえ、頭の中はあのうす暗やみの中で起こった彼との出来事でいっぱいになっていたとしても、それはまったくお母さんのあずかり知らぬことだった。
*
いつかこんな風に話しかけられる気はしてたな、と小夜は蛇口から流れる水をぼうっと眺めながら思う。
手を伝う水はやっぱり少し生ぬるい。
小夜から少し離れた場所、手洗い場の裏に彼は座り込んでいた。
「牧田サン、だよね」
「うん」
「俺と小学校、同じじゃなかった?」
「……同じだった」
「ね。クラスは違ったけど近所だったしね」
だから、なんだ。
小夜はなんだか探ってくるような会話のやりとりにうんざりしてきた。
きゅっと蛇口をひねる。
「緒方君たちってサッカーだっけ?これから試合ないの?」
「俺らもう今日の分は全部消化しちゃったからあとは明日。準決勝から。牧田サンたちは?」
「あー…、私らはさっき負けちゃったから今日はこれで終わり」
「2日間クラスマッチっておもしろいね。俺、向こうではそういうの全然なかったからなんか新鮮」
よいしょ、と彼が立ち上がる。
当たり前だけど、今の彼はあのときよりずっと背が伸びていて、小夜の頭をらくらくと追い越す。
「…伸びたね」
「え、何?」
「背。伸びたね、って話」
ああ。彼がふわっと笑った。その顔は遠足で初めて彼と話したときを思い出させる。
「あれじゃない。牧田さんこそずいぶん小さくなったんじゃない」
昔は俺よりでかかったもんなぁ。
にっと口を吊り上げ、水洗い場のふちに腰をおろした。小夜のむきだしのふくらはぎにさえ体温が感じられるほど、彼はすぐ近くにいて、ぎくりとする。
背が伸びただけじゃなくて、ずいぶんつかみづらくなったな。
「打ち上げ、行くの?」
足もとから声がした。
「緒方君は行かないの?」
我ながらずるい躱し方だ、と思いながらも小夜は言った。
牧田さんが行くならね。
「え」
思わず声が漏れた。
「まさかまたこうやって一緒に話せる日が来るなんて思ってなかったから」
俺、あの時牧田さんのことずいぶん怖がらせたし。
ぞくりとした。
あの頃の私には分らなかったけれど、今ならわかるあの『ぞくり』。直接ずしりと子宮に伝わるかのような『ぞくり』が再び数年ぶりに小夜を襲った。
今まで彼が触れなかったから、幼い小夜と彼の間でのことは終わったことなのだと思っていた。
小夜にとっては、自分の中に眠る「おんな」という性に気づかせられるような大事件でも、彼にとっては大したことじゃなかったのだろう、と。
相変わらず小夜に背を向けたままでいる彼の横に、そっと腰をおろした。
「そりゃお互い小学生だったのにあんなこと言われたら誰だって怖いよ」
恐る恐る覗いた彼の顔は、あの時みたいな奇妙な冷静さは欠片もなくて、傷ついたような繊細そうな顔をしていた。
小夜は驚く。彼のことだから、成長して、あの時よりも超然とした感じになったのかと思ったのに。
「私、行くよ。打ち上げ」
それで、最初だけ顔だしたら、あとは二人でゆっくりご飯でも食べに行こう。いい店知ってるから。
小夜はセリフの残りを早口で告げた。
返事がない。
そっとのぞき込んで、彼の顔をうかがった。
ぱっと顔をあげた彼があまりにも目を真ん丸くしているので、やや気圧されて、
「あー…、そういうのは要らない?てっきり私、今の誘われたのかと思ってそれならさっさと抜けて二人になった方がいいかなと思ったんだけど、もし迷惑だったんなら」
「いいの?」
「…え?」
「いや、だからさ。さっき俺のこと怖かったって言ってたじゃん。いいの?」
「…。いいよ、別に。一緒にご飯食べたからってすぐ押し倒されるわけじゃないんだし」
「押し倒され……。ずいぶんストレートな…」
「正直今でも緒方君のこと全然怖くないわけじゃないけど」
でも考えてみたら、「キスして」って言われたのが今だったら、私ちゃんとしてたかもしれないって思うの。
キスだけじゃなくて、その先も。
「あー!!」
唐突に彼が声をあげてぐしゃぐしゃと頭をかきまわした。セットされていただろう髪がぼさぼさになるのも構わずに。
「そういうことあんまりよそで言わない方がいいよ」
「なんで」
「…危ないから」
いきなりそんなこと言うからびっくりしたよ、ほんとに。
そう言った彼の耳の端がほんのりと赤くて、それが単に日焼けのせいだけじゃなくて、ちょっとくらい私のせいだったらいい。と小夜は思った。
クラスマッチは明日までだ。
クラスマッチが終わると、この学校には夏が来る。




