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9月の半ばだった。
出遅れたセミたちは未だに忙しく鳴いていたが、その年は稀に見る冷夏だったので、過ごしやすい日だった。日曜日だったと思う。
私はやっぱり木綿のワンピースを着ていた。
茶色のチェックで、ウエストには後ろで結ぶための細いリボンがついていた。
襟にはいつもきちんとアイロンがかかっていて、私の細い首は、ぱりっとした白い襟で断ち切られていた。
私の髪の毛は毎朝お母さんがクシで梳かして結んでくれていたので(動くと左右の高さがずれるといって怒られる)、いつもきちんとした格好をしていた。
お父さんが、女の子は清潔さが大事なのだとことあるごとにうるさく言っていたからだ。ただ、子供特有のすらりとした足の、頼りないひざ小僧には、ほとんど毎日バンソウコウが貼られていた。
お昼ご飯を食べてしばらくしてから、うちのピンポン(我が家では玄関にある呼び鈴のことをその音からピンポンと呼んでいた)が鳴った。
いつも通り礼儀正しい彼が立っていた。
彼は、お母さんに「こんにちは」とあいさつしてから、「さよちゃんはいますか?」と言った。そのころには、私と彼は下の名前で呼び合うほど親密になっていた。
外で遊んでいる子供はまだいなかった。
彼は私を後ろに従えて、迷いのない足取りでどんどん歩いて行った。彼は私が付いてきているかも確かめずにそのまま目指す方へと向かう。
「ここに入ろう」
彼がすっと指さしたのは、あの例の木の下の小さな空間だった。
彼は私の返事も待たずにその中へと入り、おいで、と私を手招きした。
私はよく見知った暗闇のはずなのに、一瞬、躊躇した。
葉の下をくぐるように中に入ると、途端に違う世界に迷い込んだような気がしてしまう。辺りは明るいのに、自分たち二人だけが取り残されたかのようだ。
やや湿った草の上に注意深く腰を下ろす。彼は私の一連の行動をじっと見ていた。
そうして、彼は私の手を軽くひき、自分のもとへ私を引き寄せた。
「さよちゃん」
「なに?」
「ぼく、さよちゃんのことすきだよ」
私は驚いた。まさかこんなことが起こるとは思っていなかった。
湿り気を帯びた手で、ワンピースをぎゅっと握るようにした。目をそらすように視線を落とす。
「さよちゃんは僕のこと好き?」
「…すきだよ」
そう答えないといけないような気がしていた。
「ほんとに?」
しかし彼は笑ってはいなかった。慎重に、念押しするように、私の眼をじっとのぞきこむ。私は何だか怖くなった。うそをついたら、すべて見破られてしまいそうな気がした。
「ほんと」
「じゃあ、キスしてよ」
じゃあきすしてよ。
彼は確かにそう言った。私は硬直して、ワンピースをつかむ手に力を込めた。手先がじっとりと汗ばんでいるような気もする。
「キス…?」
「うん」
泣きたくなった。
私は途方に暮れた。
確かに私は彼のことが好きだった。けれども、違うのだ。私は彼の気持ちなんか求めてなかった。
こんなことを言ったら乱暴だけれど、小さい頃の恋なんて、それを成就させて具体的な付き合いまで発展させようと考えるわけがない。ただ、好きな人がいて、学校で毎日会うことができて、ちょっと話したり目があったりするだけで嬉しかったり楽しかったりするだけで、もういっぱいいっぱいなのだ。
それなのに、彼は自分も私のことが好きだし、好きならキスしろと言う。
誰でもいいからこの場にサッと現われて、小夜ちゃんおいでって言って、連れ出してほしくなった。
涙をこらえていたので息が荒くなった。まだひそやかなふくらみしかない私の胸が、ワンピースの布地を押し上げた。
彼はそんな私を冷静に観察して言った。
「僕のこと、嫌いなの?」
「そんなことないよ」
「じゃあキスしてよ」
堂々巡りだ。
どうしてもしないとだめなの?
うん。さよちゃんはいやだ?
いやじゃないけど…分かんない。
いやだと言ったら嫌われるのかもしれないと思った。結局、意を決して、彼のほっぺにちゅっと口づけた。小鳥がついばむようなかわいいキス。
おそるおそる彼の様子をうかがう。
「そうじゃなくて」
「え?」
彼のほっぺは暖かかったけれど、彼は私の頭をなでながら、冷え冷えとした声で言い聞かせるように言った。
「ほっぺじゃなくて、ちゃんとして?」
「……えーっと、それって…口に?」
「うん」
今度ばかりは何も言えずに、私は小さく後ずさった。多分よほど青ざめた顔をしていたのだろう。さすがに彼も怖がる私に同情したらしかった。
そう。私はその時、彼が怖かったのだ。
彼はどうしたらいいか分からずにいる私の方へそっと手を伸ばし、ぎゅっと固くワンピースを握っていた手をゆっくりと裾からほどいた。そのまま、やわらかに手をにぎった。
ぞくりとした。
気持ち悪いとかそういうことではなくて、とにかく、体の芯、おへそより下の部分にある身体の奥深くの何かが、身じろぎするようにぞくりとしたのだ。
あの頃の私には分らなかったけれど、今ならわかる。まるで、彼の温かさが、彼から求められているということが、直接ずしりと子宮に伝わるかのように。『ぞくり』と。
こんなに涼しい場所なのに、私だけでなく彼もなぜかてのひらはうっすらと汗ばんでいて、手を握った瞬間、手の表面だけがお互い混ざり合うようだった。
私はキスなんかよりこっちの方が、よっぽどいいと思ったけど、キスなんかしたくないと言ったら、彼が傷つくかもしれない。
彼が傷つき、私に二度と近寄らなくなるのが怖かった。
それなのに、彼が急に見知らぬおとこのようになったことに恐れも感じていた。
私は矛盾したようなぐるぐるした気持ちを抱えたまま、そのすべてを飲み込んで口を開こうとはしなかった。
しばらくの間、ゆるゆると沈黙が私たちにまとわりついた。
「そんなところで何してるの?」
ぱっと明かりが射しこんできた。
いきなり時間が流れ始める。
ぱちぱちとまばたきを繰り返すと、目が明るさに慣れてきた。
太陽を背に、みやちゃんが立っていた。
「かくれんぼかなにか?」
「…そう!そうなの!二人でかくれてたところ」
私はつんのめるような勢いで言葉を重ねた。さっと立ち上がり、「私、逃げないと」と言い捨てて適当な笑いをみやちゃんに放り投げると、全速力で走った。
かくれんぼなのになんで一人を置いてよそに逃げるんだ、とか、かくれんぼの鬼の子なんて全然見当たらなかった、とか、みやちゃんが怪しむようなことがいくつもあったけれども、私はそんなことを取り繕うことさえ忘れていた。
ただただ、座りこんだ彼を残して、汗で湿ったふとももにまとわりつくスカートもはらわず、一目散に。
*
「小夜?」
小夜の前で手を振る。
「…ごめん、とんでた」
「次、日本史だよ。移動教室。階段教室だって」
大岡はてきぱきと机の上を片づけて立ち上がった。ぱたんぱたんと弁当のふたを閉めている小夜を見下ろす。
もう昼休みは終わりに近付いていた。
「ねえ、英和借りていい?」
「いいよ。かばんの中に入ってるから取ってって」
大岡は世界史受験なので、日本史は本当に単位さえ取れればよいのだ。
さらに言えば、日本史の担当教諭は常に黒板に向って何かを書き続けるかあらぬ方向をむいてしゃべっているかしているので、日本史の時間は大岡も含め、もっぱら自習に励んだり、生徒の睡眠時間となったりしている。
大岡も次のテストに向けて、まずは英語から準備を始めようということだろう。
弁当を片付け終わった小夜は、筆記用具と文庫本だけを持っている。
チャイムが鳴った五分後に、草食動物のような日本史教諭がのんびりと階段教室に入ってきた。
大岡は小夜から辞書を借りた手前、勉強しようとしたが、身が入らない。気分が乗らないのだ。
しばらく無理矢理英文のテキストを和訳していたが、結局続かず、退屈になって窓際の小夜の先に視線を動かす。
ブラインドからすじ状に漏れた明かりが、小夜の首の上を斜めにはしっている。机の上に広げられた文庫本は、ほとんど進んでいる様子がない。
惚けたような目で、とろんと自分の指先を見詰めていた。
あの転校生が来てからか…
どうやらお互いに知り合いらしいが、詮索するのも無粋だと思ったので、結局小夜には何も聞かずじまいだった。
件の転校生は、さっそくクラスの男子連中と打ち解けたらしく、男子が固まって席を陣取った中に座っている。ちょうど、小夜とは教室の反対側だ。ひそりと耳元で交わされた冗談に彼は声を出さずに笑いを漏らした。
…。
自分の、人懐こい犬みたいに笑う彼氏を思い出す。
そういえば今日は待ち合わせて一緒に帰る日だったな。
頭の中でカレンダーを呼び起こして、それに思い至り、机の上の消しゴムのカスを指で弾いた。




