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団地にはシロツメクサがたくさん生えていた。あと木も。
その木は、根元の方までくるりと包み込むように葉っぱで覆われている背の低い木だった。
その木の根元は葉で覆われているために、幹が見えないのだが、小さな子どもなら、その地面と枝の隙間から中に入ることができた。
そこは、子供が三人体育座りをしたらぎゅうぎゅうになってしまうくらい狭かったが、葉と枝で作られた天然の隠れ家で、年中暗かった。
私にとってあの木の中は絶好の秘密基地だった。特に夏は葉が茂るために外の明るさと比べると、内部はいっそう暗くなった。
かくれんぼに使うにはもったいないほどの場所だった。
そんなことをして他の子にこの場所を明かしては、木の下に潜む小さな小さな、そして大切な別世界を暴くことになる、とさえ思っていた。
私と彼はすぐに仲良くなった。
学校での遠足がきっかけで。
当時通っていた小学校には、「2列に並んで歩くときには必ずとなりのおともだちと手をつないで歩く」というルールがあった。
それも、「ろうかは右がわをあるきましょう。はしってはいけません」と同じくらい厳然としたルールだった。
いじめっこもいじめられっこも、かわいいこもかわいくないこも、おとこのこもおんなのこも、きれいに2列に整列して、その列の真ん中ではきまじめに手が握られていた。右側がおんなのこ、左側がおとこのこ、だ。
ぴかぴかしたリュックを背負って、ずらずらと歩く。
もちろん、横断歩道を渡るときは右みて左みて、もいちど右みて、手をあげて、だ。
私は彼の隣だった。
彼は背が高かったので、後ろから2番目に並んでいた。
そのことがおんなのこたちにきゃあきゃあと黄色い歓声をあげさせる一因ともなっていた。(私と仲の良かったみやちゃん曰く、「すらっとしてて他の男子とは全然ちがう」)
今ではクラスで一番背が低い私も、当時は背の高い方だった。
当時とほとんど身長が変わってないので、あの頃が私の成長のピークだったのだろう。
彼はまるで毎日私と手をつないでいるかのような自然さで手を差し出してきた。
差し出された手を握る。
ほら、行こう。
前の列との距離が開く度に、彼がそう言うので、私は思わず、はい、と怒られた時みたいな返事をしてしまう。
前はどこにいたの?
おきなわ。すごいんだよ、海が。
へえー、いいなあ。夏はやっぱりみんなで海に行ったりするの?
うん。お父さんと妹とぼくで。お父さんが泳ぎを教えてくれるから。
いいな、それ。すごく楽しそう。
うん。すごく楽しいよ。牧田さんは泳げる?
あー…わたしはぜんぜんだめ。スイミングとかも行ったことないし。
そっか。じゃあ、おしえてあげるよ。クロールとか。
ほんと?
ほんと。
顔も名前も覚えてないと言ったけど、まったく彼がどんな子だったか覚えてないのかと言われると、正確には違う。
私は覚えてる。
ほんと。って言った時の彼のはにかんだみたいな笑顔の印象、そしてあの日、あの木の下でじっと私を見ていた時に感じた、薄闇ににじむ彼のなんともいえない空気。
今までそういった空気の色だけはずっと覚えていたし、これからもずっと忘れないと思う。たとえ、私が死ぬほど誰かを好きになって、もうこの人以外はどうでもいい、と思うようになったとしても、ずっと。
まるで細胞の一部分だけ、ずっと彼を想ってるみたいに。
*
大岡が小夜に会ったのは高校に入ってからだ。
初めて会ったときはまだ「牧田さん」と呼んでいた。
しばらくして「小夜」って呼んでいい?と本人に聞いたら、露骨にぎょっとした。
そして、すぐ小夜は大岡の表情に気づいて「別に名前で呼ばれるのが嫌なんじゃないよ。ただ、家族以外から呼ばれ慣れてないからびっくりしただけ」
自分の名前を呼ばれ慣れてないってどういうことだよ、と思ったけど何も言わなかった。
それから数週間たったくらいの頃に、小夜と同じ中学出身のクラスメイトが「マキ」と呼んでるのを聞いて、ああ、いつもそっちで呼ばれてたのか、と思った。(大方、『牧田』から来たんだろう)
目のくりくりしたかわいい子だと思ったのは最初だけだった。
小夜と来たらずいぶんきわどい話でもあっけらかんと話すし、びっくりするくらい下品なことも平気で大笑いしたりするので、しゃべりさえしなければ絶対モテるのになあ、と感じているのは何も自分だけに限ったことではないだろうと、大岡は思う。
小夜は大岡が最初に受けた印象より、ずっとさばさばしていた。
最後の唐揚げにとりかかった小夜を見ながら、再び記憶に沈み込む。
大岡の彼氏の男友達は、大岡と歩く小夜を見た翌々日には「紹介してほしい」と連絡してきた。(もちろん彼氏経由で)
大岡としては、小夜の意思に関係なく巻き込んでしまったようで(だいたい、彼氏と小夜はろくに話したこともないのだ)、気は進まなかったが、彼氏の手前まさか断るわけにもいかず、仕方なく小夜に頼んだ。
嫌がられるかと思ったが(なぜか、小夜には自分自身が色恋沙汰に関わるのをなんとなく避けている節があったので)、小夜は「いいよ。明日でしょ」と意外にあっさり承諾した。
「もしかしてどういう意味か気づいてないんだろうか」と大岡は危惧したけれど、当日、小夜はTシャツにダメージデニムとかでなく、ちゃんとワンピースを着てきたので安心した。
そこそこ雰囲気は良かった。
そこそこ美味しい食事に、割と雰囲気のいい店。そつのない話題に、連れて歩くには見栄えのいい男。
しかし、彼氏の友人が小夜の事を「小夜ちゃん」と呼んだ瞬間、小夜は形のいい眉を寄せて珍しく色をのせていた唇を、きゅっと噛んだ。
私、女ばっかりの家で育ったから、あーいうの慣れないんだよね。
二人でトイレに立った時、「ダメでしょ、なんかごめんね」と苦笑しながら彼女は言った。自分の戸惑いを持て余して。
あれから、小夜とその人がどうなったのかは全然知らない。
「小夜。そういえばさ、あの人どうしたの」
「あの人?誰」
「ほら、この間会ったさあ…」
コントレックスをあおって(小夜は美容と健康のために1日2リットルの水分摂取を目標にしているらしい)、マルチビタミンのサプリメントをぼりぼりと噛み終わると(これもやっぱり美容と健康のため)、ようやく小夜は「ああ、あの人ね」とどうでもよさげに返事をする。
(やっぱりな…)
乗り気じゃないとは思ってたけど。
そんなことを考えていると、小夜が大岡に向きなおった。大岡もつられて姿勢を正す。
「わざわざ大岡が紹介してくれたのに申し訳ないんだけど、私、たぶん断ると思うよ。そういう話になったら」
「そっか」
「選り好みできるほど恵まれてるわけじゃないけど」
小夜はふざけて笑った。
大岡は皮肉っぽい笑みを浮かべる時の小夜を見ると、一番ぎくりとする。
自嘲ではないが苦笑にしてはちょっと苦味の強すぎる笑みが、小夜の唇を持ち上げるとき、不意に小夜の唇の紅色があまりに鮮やかで困るのだ。
こんな顔、よそでしてないといいけど。
心配する大岡をよそに、きししとおよそ下品な笑みを浮かべた小夜は、
「わたしより食えない男はちょっとねぇ」
下手するとメガマックをおやつにする小夜の食欲を思い出して、大岡はげんなりとした顔をする。
手元のコーヒー牛乳のテトラパックを押しつぶしながら、大岡は「それは残念」と茶化す。
しゅっと大岡の手が揺れて、パックはきれいな放物線を描く。
そのままゴミ箱にまっすぐ入っていくかと思いきや、音をたてて縁に当たったパックは、ゴミ箱の後ろに落ちてしまい、見えなくなった。