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もう顔も覚えていない。
ただ、彼が転校生だったことは覚えている。
顔も覚えていないのだから、名前なんて覚えているわけがない。
「ゆうだい」君だか、「ゆうすけ」君だか、そんなところだ。
私は当時団地に住んでいた。
公務員宿舎としてあてがわれたものだったので、周りは同じような職種の人ばかりだった。
だから、きっと彼のお父さんも公務員だったのだろう。
あそこは転勤族で溢れかえっていた。
毎年、春の異動の時期になると団地中がそわそわしだす。
パンダのマークのトラックがうろうろする頃には、毎週末引越しの手伝いに駆り出されることになる。
団地に住む人々は、一様にとても愛想がよく、つかず離れずの人間関係を見事に形成していた。かくいう私も元・転校生だ。
彼が転校してきたのは夏の暮れ。
長い夏休みに飽き飽きしてきたころのことだ。
白いふわふわしたタオルの入った紙袋を下げて、彼と彼のお父さんは私の家に挨拶にきた。
彼はとても礼儀正しく、きちんきちんと頭を下げて、国語の教科書に出てくるような立派な「おじゃましました」を言って帰っていった。
たぶん、かっこいい顔をしていた、と思う。クラスの女の子がそんなことを言っていた記憶だけはなぜか残っているから。
それに当時の私はとても面食いだったし。
彼には二つだかそれくらい歳のはなれた妹がいた。
団地の中には小さい公園が一つだけあって、 遊ぶとなればいつもその公園だった。そこに行けばたいてい同じ団地の誰かと遊ぶことができた。
彼の妹とはその公園で何回か一緒に遊んだこともあって、すぐに仲良くなった。つやつやした髪を肩まで伸ばしていて、それを左右で結んだかわいい子だった。
その団地に住んで、四回目の夏のことだった。
*
がさがさ、ぱりぱり。
ビニル袋やパックを騒々しく開けて、ぱちんっと小夜は割り箸を割った。それを合図に、大岡が耳からイヤホンを引っこ抜く。
「おにから?」
「そう。食べる?」
「んー…、いらない」
大岡が小夜の手元をじっと見ながら首を左右に振った。 小夜は大岡に見られているのにも構わずに、いっぱいに食べ物を詰め込んだ口をもぐもぐと動かす。
そうなるとしばらくしゃべれないので、大岡が口を開いた。
「昨日、映画を観に行ったんだけどさ、」
小夜は口をもぐもぐさせたまま頷き、それで?と眼で先を促す。もちろん誰と観に行ったのかは分かっている。大岡がこういう半分困ったみたいな顔をするときは大抵例の彼氏のことだ。あの、頭と顔はいいが、なんだかちょっと性格に難点というか、ちょっとボタンが掛け違ったような感覚にさせられる小池徹平似の彼だ。
「あれ観ようって言うんだよ」
そう言って大岡はある映画のタイトルを挙げた。 日本で数年前に大ヒットした純愛ものを、ハリウッドか何かでリメイクしたものだった。それを聞いて小夜もちょっと困ったような顔をする。
「それはないよね?」
苦笑した。大岡はサブカル好きの女子高生らしく、今時の邦画があんまり好きではないのだ。
白いのどが上下する。小夜がようやく口の中を空っぽにした。
「うーん…。それはないかもね…。で?面白かった?」
「微妙」
打てば響くような返事に肩をすくめる。
「それで?」
「ストロベリーフィールズでパフェ食べて帰った」
「いちご?」
「いや、カシューナッツ」
「おいしかった?」
「うん」
よかったじゃん。
そう言って、小夜が今度は唐揚げを口に放り込んだ。
うん。
大岡はそれでも釈然としない顔のまま唇だけで笑ってみせる。
ある日の放課後、二人で自販機から吐き出された熱いコーヒーの缶で指先を温めながら、眉を寄せて言った大岡のセリフがぱっと浮かんだ。
『昨日、告白されたから付き合うことにした』
そう言った大岡に何気なく小夜は、『その人のこと、好きなの?』と聞いたのだ。
分かんない。これから好きになれるかも分かんない。
うつむいてた大岡は、ずいぶんナイーブな顔をしていた。 小夜は何か適当な言葉をかけてあげたかったけれど、結局なにも言えなかった。
黙り込んだ小夜に大岡はがらりと調子を変えて、「そういえば来週から転校生来るんだってね」と切り出した。
お話おしまい。の合図だった。