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あなたの背中を追いかけて

作者: 白胡麻もち

 うちの隣には、四歳年上のお姉さんがいる。

 橋本理恵奈(りえな)、お父さんがイギリス人、お母さんが日本人のハーフだ。髪と目の色こそ私と同じ黒色だけど、背中まで垂らしたウェーブがかった髪と、掘りの深い目鼻立ちは父親の血を感じさせる。

 肌も白磁(はくじ)のようで、いつも小麦色になっていた私と並ぶと、その白さがより際立っていた。


 顔やスタイルだけではない。

 おっとりとしていて読書を好み、物静かな女の子だった彼女だが、その内には流されまいと踏ん張れる胆力があった。強い人なのだ。


 誰かのために怒れる彼女の背を、私はいつも追い掛けていた。

 ランドセルから革の学生鞄に変わってからも、それは変わらなかった。ずっとこうして彼女を追い掛け続けるのだろうと、思い込んでいた。

 学生鞄からスポーツブランドのバッグになり、新品だったそれに痛みが目立ち始め、そろそろお役御免になろうとした矢先のこと。


 その手紙は、唐突にポストに届いた。



真里(まり)ー。理恵奈お姉ちゃん、結婚するんだって」

「えええええっ!?」


 驚きのあまり階段から足を踏み外す私を、お母さんは呆れた様子で見ていた。

 少しは心配して欲しいところだけど、私の周りの人にとっては『日常茶飯事』なのだろう。


 膝をぶつけた痛みに耐えながら体を起こすと、お母さんが手にしている白い封筒と、二つ折りのカードが目に入った。縁はレースのような透かし彫りになっていて、遠目で見ても綺麗だ。


「えっ、え、それってまさか……?」

「招待状じゃないわよ、これはただの手紙。式は半年後だって。あんた最近顔合わせてなかったんだから、お別れする前にちゃんと会っておきなさいよ? 小さな頃からお世話になったんだから」

「……そりゃ、まあ……」


 曖昧に頷き、ずれた胸元のリボンを直す。スカートを(はた)こうとしたところ、ふと手元にあったはずの鞄が無いことに気が付いた。

 あちこち見回していると、お母さんがまた呆れ顔で階段の脇に屈み込み、何かを持ち上げて見せた。スポーツブランドのロゴがでっかく横にプリントされた、紺色の鞄。


「ほんっと落ち着き無いんだから。理恵奈ちゃんの爪の垢でも煎じて、飲ませて貰ったら?」

「うるさいな! いってきますっ!」


 ひったくるようにして受け取り、つま先にローファーを引っ掛けながら玄関を飛び出す。

 言われなくても、私はお姉ちゃんの爪の垢を煎じて飲んでみたかった。垢でも何でもいい、お姉ちゃんのようになれるなら。


 その気持ちが、憧れではなく単なる自分自身への嫌悪や、変身願望であると気付いた時。


 追い掛ける足は、いつの間にか止まっていた。



  * * *



「……あっ」

「あれ、真里ちゃん! 久しぶりねー!」


 家の前でつんのめりながらローファーを履いていると、隣の家から末枝(まつえ)おばさんが出てきた。理恵奈お姉ちゃんの母親だ。

 朝食を作ったすぐ後なのか、腰にはカフェエプロンを身に付けている。エプロン姿なんて見たことないうちの母とは対照的だ、体つきも。


「今日は朝練ないの?」

「あ、はい。風邪が流行してるとかで」

「あらー、大変ねぇ。真里ちゃんも体調には気を付けてね」

「はい。気を付けます」

「ああ、そうそう」


 差しさわりのない会話でホッとしていたのもつかの間、末枝おばさんが手を打ち鳴らす。嫌な予感がした。


「うちの理恵奈がね、結婚する事になったのよ!」

「……はい、知ってます。手紙届きました」


 トーンを上げるのを意識しながら、続きを口にする。


「おめでとうございます。お姉ちゃんの花嫁姿、早く見たいです」


 見なくても分かる。純白のウェディングドレスを着たお姉ちゃんは、昔読み聞かせて貰った絵本の中の、お姫様みたいなんだろうって。

 私とおんなじ黒色でも、ゆるく波打つ髪は艶々としていて。同じ黒目でも、宇宙がまるごとはめ込まれているかのように、魅惑的で。


 惹かれて振り返る人も、後を追い掛ける人も大勢いた。私だけではない。彼女に関わった沢山の人が、華奢(きゃしゃ)だけどピンと伸びた背を追い掛けて、隣に立とうとしたんだ。

 彼女はそれを、周囲に自慢したりなどしなかった。

 いつも謙遜(けんそん)し、(おご)らず、己の信じるものだけを選び取っていった。

 そして、やっと決めたんだ。


 自分が隣に立ちたいと思える人を。

 寄り添える人を。


「ありがとー。理恵奈も真里ちゃんに報告したがってたから、予定が無い時にでもうちに来てね」

「はい、そうします。それじゃ、また」

「気を付けていってらっしゃいねー!」


 うつむきがちになりながら、駆け出す。

 脇に垂れた拳は、いつの間にか固く握り締められていた。ゆっくりと解いてみると、伸ばしていた爪が皮膚に食い込み、痕になっていた。

 そういえば、明日検査があると担任が言っていたっけ。うちの学校には規則を守らせるために定期的にスカート丈と爪の長さの検査があり、それに引っ掛かると、教師に小うるさく言われるのだ。


「せっかく伸ばしてたのに……」


 色々と上手くいかない。いつもこうだ。

 いつもいつも、昔っから上手くやれた試しが無い。


 お姉ちゃんが難なくやってみせる事は、何だって失敗した。ゲームも勝てないし、絵画コンクールで幾つも賞を貰う彼女に比べ、私の美術の成績はいつも二か三だ。他の教科だってそう。ファッションだって、胴長短足な私と比べるまでもない。


「…………もう、嫌」


 自然とそんな独り言が漏れ出た。

 同時に、そんなことを口にする自分が、もっと嫌いになった。



  * * *



「ええー! 理恵奈さん結婚するの!?」

「静かにしてよ、もう。自習中なんだからさ、声大きすぎ」


 振り向かれるほどの大声を上げたのは、幼馴染でありクラスメイトの今川陽菜(ひな)

 小学校からの付き合いで当然お姉ちゃんのことも知っていて、何度も顔を合わせている。ただ最近は私が会わなくなったのもあり、陽菜もまた会う機会が減っていた。


「そっかー。モテる人だったけど、周りに男の人の気配無かったから、付き合う気ないんだと思ってたよ。彼氏いたんだね。そっかそっか、良かったー」


 何に納得しているのか、しきりに頷いている。

 その顔は晴れやかで、言葉通りの安堵と喜びが感じられた。そんな幼馴染の前で私は今、どんな顔をしているのだろう。


「……で。なに()ねてんの?」


 どうやら不機嫌な顔をしていたようだ。


「違うよ、そんなんじゃない」

「ふーん? じゃあ何で怒ってる感じなの?」

「わかんないよ。女の子の日が近いのかも」

「いや、どう考えても理恵奈さんの結婚に関係あるでしょ。はぐらかしても無駄だからね?」


 さすが友人の中でも一番付き合いが長いだけあって、私の感情の機微には鋭い。

 話題替えも無駄なようなので、観念することにした。


「本当に拗ねてるとかじゃないよ。今更どう顔を合わせていいのか、分からなくなっただけ」

「なに、喧嘩別れでもした?」


 言われて、否応なく思い出す。

 お姉ちゃんの背を追わなくなった、足を止めた日のことを。


 学校からの帰り道、夕暮れの中にたたずむ彼女を見付けた。

 白いブラウスに、やわらかな風になびく桜色のシフォンスカート。その装いを目にして、「ああ、春だな」なんて思った。まるで季節を告げる妖精のようだった。

 声を掛けようとした時、ふと近くに、お姉ちゃんと同じ学校の制服を着ている人がいることに気付いた。高校生の二人組だ。

 彼女たちの視線は、ずっとお姉ちゃんに向けられていた。


「あれってさ、二年A組の橋本さんだよね?」

「そうでしょ。私服めっちゃ可愛い!」

「ね、声掛けてみようよ。友達になれるかも」

「いやいや、無理無理。あたしらみたいなのが傍にいたら、取り巻きに嫌味言われるよ」


 互いに小突き合いながら、そんな会話を交わしている。

 店の前の棚を物色していたお姉ちゃんがその場を離れると、コソコソと後を追い掛けていった。


 それを見て、私の中で何かが符合したような気がした。

 私もまた、彼女らと変わらないのではないかと。自分に無いものを彼女に見て、後を追い掛けているだけなのではないかと。


 画面の中の芸能人に憧れるのと、何ら変わらない。

 彼女に憧れながら後を追い掛けたところで、私の中にある劣等感はより膨らんでいくだけだ。それは、あまりにも虚しい。


 だから私は、自分自身のためにお姉ちゃんから離れることにした。

 追ってはいけない。追えば、自分の中の黒い気持ちは、際限なく増殖していく。きっと取り返しのつかないほどに。

 でもそれなら、彼女が結婚して実家を離れることに安堵してもいいはずだった。何に引っ掛かりを覚えているのか、変な気持ちは胸中にわだかまったままだ。こんな気持ちを抱えたままで、祝福なんて出来るはずもない。


「喧嘩とかじゃないよ、本当によくわかんないの。おめでたいことのはずなのに、喜んであげなきゃいけないのに……なんか、モヤモヤしてて」

「プッ、ふ、ふふ」


 我慢するような声が聞こえてきた。顔を上げると、口元を歪ませて必死に笑いを堪えているのが目に入る。


「なに笑ってんの。これでも真剣に悩んでるんだけど」

「いやだって、ほんと昔っから変わらないからさ」


 手で口元を押さえ、陽菜は上目遣いに私を見た。


「あんた昔から、『お姉ちゃんは私のものだもん!』って、口癖みたいに言ってたじゃん。原因それでしょ」

「…………ハァッ?」


 そんなこと言ってたっけ? いや、それよりも。


「だからそういうのじゃないって! 子供じゃないんだから!」

「いやいや、うちらまだ子供でしょ。……ていうか、子供とか大人とかの問題じゃないんだと思うよ」


 急に陽菜の声のトーンが変わったことで、(たかぶ)っていた気持ちが自然と収まっていく。


「誰だってさ。傍に居たい人が離れちゃったら、寂しいもんでしょ」


 見返してくる瞳は静かで、落ち着いていて。

 とても、大人っぽかった。


「寂しい、とか……そんな気持ちがあったら、何年も離れてないよ。私はただ逃げていただけ。だから今抱えてる気持ちは、やましいものなんだよ」

「逃げたってどういうこと?」


 事情を知らない彼女は、不思議そうに首を傾げている。

 この事は、幼馴染である陽菜にも話していなかった。話して、友達をやめられてしまうのが怖かったからだ。


「私は、お姉ちゃんに憧れていたんだよ。だからこそ私の中にあった自分を嫌う気持ちは、どんどん膨らんでた。『お姉ちゃんは上手くやれるのに』、『お姉ちゃんは綺麗に出来るのに、私は』……って。小さい頃は、それが大人と子供の差だと思ってた。大人になれば私も、お姉ちゃんみたいにこなせるんだって。自然と出来るようになるんだって」


 見上げる姿は、いつもまぶしく見えた。

 背負う陽のせいだけじゃない。きっとあれは、彼女自身が放つ光。


「……でも。中学生になっても、高校生になった今でも。私は何も成長できてない。見上げていた頃のお姉ちゃんの歳を過ぎても、私は私のまま、嫌いな自分のままだった。だからもう比べたくなくて、離れたの。これ以上自分を嫌いになりたくないから」


 伸びた爪の先が手のひらに刺さり、胸の中とシンクロしているかのように、ズキズキと痛む。あえて切らないままでいる、似合いもしないロングヘアがうなだれた視界を覆う。

 ウェーブがかった艶のあるロングヘアに憧れても。枝毛ばかりの黒髪は、伸ばしても毛先が跳ねて纏まらない。


 綺麗な細い女爪のお姉ちゃんと、平たくて子供っぽい、男爪の私。

 背伸びして買ったブランド物の新色のマニキュアも、私なんかよりお姉ちゃんの方が似合うのは、明白で。


「それで離れる口実を作るために、運動部に入ったの。朝早く学校に行って、夜遅く帰ってくれば、顔を合わせる機会も減るだろうと思って。だから寂しいとか、そういうのじゃないんだよ、ホント。そんな可愛いもんじゃない」


 じっと黙って聴いていた陽菜は、ゆっくりと瞬きをしてから、静かに口を開いた。


「……あー、うん。なんつーか、やっぱ理恵奈さんとあんたって……似た者同士だよね」

「はああっ!?」


 思わず大きな声が出て、先ほどよりも多くのクラスメイトが振り返った。

 驚いた陽菜が、自分の口元に指を当てる。


「シーッ、さっき自分で自習中だから静かにしろって言ったでしょ。先生飛んでくるよ」

「あのさ、話聴いてた? どう聞いたらそういう結論が出るの」

「どう聞いてもそう思う。あのさ。理恵奈さんが実家を離れる前に、ちゃんと会って話した方がいいよ。その気持ちを伝えた上で、ね」

「ええ……?」


 困惑する私をあざ笑うように、タイミング良くチャイムが鳴った。あとは帰りのホームルームをすれば、放課後がやって来る。


「今日か明日にでも行ってみなよ。先延ばしにしてると、どんどん会い辛くなるだろうからさ」


 幼馴染はわけ知り顔でそう言うと、席へと戻っていった。

 いつもは待ち遠しいはずの放課後だけど、今は来て欲しくなかった。だって陽菜の言う事はいつも正しくて、私もまたそうすべきだと感じてしまったから。


「おーう、席つけよー。騒ぐと帰り遅くなるぞー」


 教室に入って来た担任教師がそんなことを言う。

 その言葉に、少しだけ「騒いでしまおうか」なんて。そんな馬鹿みたいなことを思った。



  * * *



 放課後。部活が停止中で用事もない私は、言われるままに隣の家の前でたたずんでいた。

 ほんの少しでも気の迷いが生じれば、すぐさま逃げ帰って自室に籠るのも可能だ。けれど何故だか今日に限っては、ここから足を動かすのが難しかった。陽菜の言葉が思いのほか響いているのかもしれない。

 それでも視線は正直にさまよい、自宅へチラチラと移る。


 事前に行くとも言ってないし、今日のところは帰ってしまおうか。

 どうせ式があるのも半年後だし、そうすぐに離れるわけじゃない。急がなくても、まだまだ会う機会はある。

 心の奥底からそんな意気地のない声が聞こえてくる。折れて五歩の距離を歩き、門を開けてしまうのは時間の問題だった。


 重たい足を、一歩、また一歩と動かす。

 その時、後ろから声が聞こえた。


「――あれ、真里ちゃん?」


 よく通る澄んだ声。貫かれたように、胸がズキンと痛む。

 ゆっくりと振り返ると、そこには春を先取りした軽やかな膝丈のワンピースを着た、理恵奈お姉ちゃんの姿があった。

 あれだけ長かった髪はバッサリと切られ、肩より少し上のミディアムヘアになっていた。黒かった髪は控えめなブラウンに染められているが、髪質だけは以前と変わらずゆるく波打っている。

 フェミニンな襟付きのワンピースは、綺麗な若葉色。それに合わせて、細いベルトが付いた白のミュールを履いている。


 私には似合わない、大人っぽい服。

 大人っぽい雰囲気。


「久しぶりだね。お母さんから聞いたんだけど、今運動部に入ってるんだってね。昔は引っ込み思案で体も細かったけど、運動しているお陰か、今は凄く健康的で恰好良く見えるよ」


 懐かしむように言葉を噛み締めながら言うお姉ちゃんを前に、私は言葉を返すことが出来なかった。

 その細くて綺麗な指の先を、パールブロッサムが彩っているのが見えてしまったからだ。光の加減で少し白みがかって見える、細やかにきらめく桜色。


 私が買ったものと、同じ。


「……いつもそうだ」

「え?」

「いつもいつも、そうやって私の前を歩いてく。励ましながら先を行って、それで今度は二度とたどり着けない場所に行っちゃうんだ」

「…………真里ちゃん?」


 両の瞳から涙がにじんでいることに気付いたのか、顔を覗き込んでくる。視線を避けて腕で隠しながら、私は叫んでいた。


「手が届かない距離だと分かってたら、追い掛けようとなんてしなかったのにっ!」


 足を止め振り返ってくれても、お姉ちゃんはまた理不尽なほど早く私を置いていく。追い掛ける足は傷だらけで、呼吸も絶え絶えなのに、私は自身の体に鞭を打ってそれでも辿り着こうとする。あまりにも不毛なレースだ。


 疲れてしまった。

 自分を追い詰めるのにも、憧れ続けるのにも。


 ――そのはずなのに。

 私は今、一体何に縛られているんだろう?


「……雨、降ってきた」


 呟かれた言葉に顔を上げると、微細な雨粒が頬を叩いた。霧雨だ。降り出したばかりで勢いもないため、すぐにびしゃ濡れになるようなことはない。それなのに、お姉ちゃんは見上げていた視線を戻すと私の手首を握った。


「濡れちゃうよ。入って」

「え、あの」


 思いのほか力は強く、引かれるままに家の中へと連れ込まれる。

 足を踏み入れると、幼い頃から慣れ親しんだムスクの香りがふんわりと鼻腔に届いた。玄関に置かれた芳香剤(ディフューザー)は、末枝おばさんが昔から愛用しているものだ。暖色の花柄のマットも、何にも変わらない。

 差し出された来客用のスリッパは昔とは違うけれど、周りを取り巻く家具や小物は、まるで私を待っていたかのようにあの頃と同じたたずまいをしていた。


「お茶淹れてくるから、先に部屋で待ってて」


 言うが早いか、お姉ちゃんは返事も待たずにリビングの方へと行ってしまった。少し遠くの方から、パタパタと忙しないスリッパの音が響く。

 呆けて立っているわけにもいかず、私は言われた通りにすることにした。


 階段を上り二階に着くと、廊下に並んだドアの一つに『りえなのへや』とカラフルな字で書かれた木製のプレートが掛かっているのが目に入った。これも残しているのか、お気に入りなのかな。


「お邪魔します……」


 恐る恐るドアを開ける。

 部屋の中は、ほとんどの物が片付けられていた。幅をとっていたベッドも敷き布団に変えられ、学習机は処分したのか折り畳み机になっている。背の高い家具がほぼ無くなったせいで、どこか生活感が薄く感じられた。

 見渡していると、背後にあったドアが開けられお姉ちゃんが顔を覗かせた。手にはお盆を持っていて、汗を掻いたグラスが乗せられている。淡い色をした緑茶の中で、角ばった氷が存在を知らせるように、カランと大きな音を立てた。


「座って。クッション使っていいから」


 お姉ちゃんは立ち尽くす私にそう(うなが)す。

 しかし床に置かれた可愛らしいクッションは、どれも綿がたっぷりと詰められてフカフカだ。私のでかっ尻の下に敷こうものなら、たちまちペッタンコになってしまうだろう。兎や熊の顔がデザインされているのもあり、余計に申し訳ない気持ちが湧いてくる。


 仕方なくカーペットの上に直に座ると、お姉ちゃんがタオルを手にこちらに歩み寄ってきた。困惑して少しだけ身を引くが、それを許さない勢いで頭にタオルが乗せられる。そのまま優しい手付きで拭きながら、彼女は口を開いた。


「……ごめんね。今まで、苦しい思いさせちゃってたんだね」


 何も悪いことなんてしてないのに、謝罪の言葉はひどく重たい雰囲気を纏っていた。


「他の人にも、言われたことがあるの。『澄まして謙遜(けんそん)してる癖に、嫌味なほど何でもこなしてみせるのが、余計に鼻につく』って。そういうつもりは無かったんだけど、やっぱり、そう見えちゃうんだね」


 浮かべられた表情はとても儚げで、寄る()もない小鳥のように頼りなかった。

 こんな顔、今までで見たこともない。だってお姉ちゃんは女の子らしさの中に確固とした力強さを持っていて、いつもしっかりと前を向き、たまに振り返るその顔も凛々しかった。

 こんな、今にも萎れてしまいそうな顔なんて、したことが無い。

 ……私が、させてしまったのか。


「ごめんなさいっ!」


 そう思ったら、とっさに声が出た。

 久方ぶりに発声したかのようだった。


「違うの、私が勝手に追い掛けていただけ。その人だってそうだよ、お姉ちゃんは何も悪くない。謝る必要なんか無い!」


 哀しい顔をして欲しくなくて、とにかく感情のままに叫ぶ。

 お姉ちゃんの表情は余計に歪んで、とうとう涙があふれ出てきてしまった。


「泣かないで、お願い。私が悪かったから! ちゃんとお姉ちゃん、見送るから! だからっ!」


 私の瞳からも、ポロポロと零れてくるものがあった。

 拭った端から視界がにじんで、前がよく見えない。


「だからっ――――…………笑顔、見せてよぉ…………」


 雫と共にこぼれた言葉。

 それを口にした瞬間、今まで見えなかったものにようやく気づく。


 ……ああ、そうか。

 お姉ちゃんの外見や、中身に憧れているだけでは無かったんだ。


 真似したいから、よく見ようと追い掛けているのでは無かった。


 私は、お姉ちゃんの笑顔が見たかったんだ。

 私を見下ろす温かな笑顔をもっと近くで見たくて、こんなに苦しみながら、必死に走っていたんだ。


 うんと小さな頃には、分かっていたはずなのに。

 どうして、忘れてしまっていたんだろう。


 温かな抱擁が、全身を包み込む。

 密着した肌のやわさも、背中に回された腕も。

 耳朶(じだ)をくすぐる息遣いも。

 見つめる視線も。


 今は、今だけは全部――――私のもの。


「……真里ちゃんに嫌われてなくて、良かった……」

「嫌いになんてならないよ。大切なお姉ちゃんなんだから」


 体を起こし、頬に手を沿える。



「理恵奈お姉ちゃん。……結婚、おめでとう。幸せになってね」



 半年後の私の日常からは、いなくなってしまうけど。


 大好きな笑顔はせめて、

 こうしてちゃんと、刻み込んでおこう。




 END.

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