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ため息をついたなら  作者: きなこあんみつ
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佐々木桜編 前編

 春眠暁を覚えず、という言葉があるが僕は全然そんな気分ではない。孟浩然(もうこうねん)は花粉症では無かったに違いないし、僕がスギとヒノキの花粉症であるということも間違いない。確かに今朝起きた時間は、ちょうど正午であったが気持ちの良い睡眠とは言えなかった。起きると喉はイガイガして、絶妙な不快感を覚えるような鼻のつまり方をしていてひどく憂鬱な気分であった。5分程度スマホを触って、僕はついに布団から出ることを決意した。母は今出掛けており、家には自分自身しかいなかったので適当に冷凍のパスタを温めて、朝と昼ごはん兼用の食事をとった。そしてカレンダーを見てあることに気が付いた。今日、3月30日は記念すべき僕の初バイトの日なのである。無事国公立大学へと進学した僕は、多くの同じ境遇の大学生がしてきたように個別指導の塾にアルバイトの面接を受けに行き、採用となったのであった。家から近くのその個別指導の塾は小学生から高校生まで幅広い年齢層の子たちが通っており、なかなかの評判であった。教室長の田中先生もとても温厚な人柄で、アットホームな空間で生徒も先生も共に目標に向かって頑張ることができる、そんな塾であった。今日は18時から1コマだけシフトが入っており、中学生の女の子を担当する。得意の数学ということで初心者の僕でも何とかなりそうだ。相性が良ければ、そのままその生徒の担当になると聞かされていて、僕は一抹の期待と不安を胸に、1時間前くらいまで再び寝ることを決意した。孟浩然も僕と同じように怠惰だったんだろうなと考えながら。


 僕のこの世の嫌いなものベスト3を挙げるとすれば、眼鏡に付着する雨、花粉症、そして今けたたましく鳴り響いているスマホのアラームの音である。これはいつも疑問に思っていることなのだが、大きい音というと例えば電車の音などが挙げられるが、どうしてアラームの音は他の大きな音の類に比べるとこんなにも不快なのだろうか。まだボーっとする頭で、どうしてアラームの音が鳴り響いているのかを懸命に考えていると、帰ってきていた母がその答えを、つまりはバイトに行く時間なのだということを教えてくれた。幸い、クイズ番組を見ている最中に、もう少しで答えが思い出せそうなのに隣で答えをあっさりと言われた時のような、どこか悲しく腹立たしい気分にはならず、むしろスッキリとした気持ちになった。急いで僕はスーツに着替え、身だしなみを整え、コンタクトをはめた。コンタクトをはめるときに、このコンタクトが目を覆うことによって花粉を防いではくれないだろうかという微かな希望を持ったが、その考えは甘かったようで目が痒いのにコンタクトをしているから掻くことが出来ないという逆効果が僕を待ち受けていた。適当なカバンに筆箱とファイルを入れていざ出発と行きたいところであったが、母曰く祖母に孫の初バイト姿を写真で送ったら祖母は絶対に喜ぶとのことだったので、僕は御年70歳になる祖母のために初バイトに行く孫というスーパーモデルをすることになった。祖母も最近になってスマホデビューを果たしたらしく、時折メッセージを僕に送ってくるのだが、文字化けしているかのごとく意味不明な内容となっているため、解読に時間を要するものだった。だから今回の写真の感想も意味不明な文言が送られてくるのだろうなということを考えながら、一通り母の言いなりとなって写真を撮られ終えたところで、僕は自転車にまたがりバイト先へと出発した。日はかなり落ちかけていて、3月30日にしては少し肌寒く感じられ、身を縮こませながら塾へと行くのであった。


 「お疲れ様です。」

これが塾に入るときに、全講師が発さなければならない言葉であり、当然のように僕もその言葉を口にする。するとあの温厚な田中先生も同様の言葉で返して下さる。その言葉で何となく温かい気持ちになるが、これは単に塾の中が暖かいだけであることに気が付く。これが社会人というものなのかと、僕は自分が大人になっているのだなという感傷に浸るが、すぐに授業準備へと取り掛かる。今日担当する子は、佐々木桜さんという地元の中学の2年生の女子生徒で、成績は中の上といった感じで数学は得意なのだそうだ。ざっと引き継ぎ資料に目を通した僕は、必要なプリントを印刷したり、生徒の授業の記録用紙を作成したりと忙しくしていると、いつの間にか授業開始の5分前となっていた。新人の僕はやっぱり先輩たちと比べると明らかに手際が悪いのがわかった。そんな風に悲しんでいる間もなく、僕は緊張に悩まされ始めた。何しろ、お金をいただいてその分の仕事をするのだから緊張しないわけがない。この気持ちはずっと持ってなくてはいけないなと考えていると、田中先生がやさしく声をかけて下さった。

「風見先生。そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。面接の後の模擬授業と同じように、肩の力を抜いて、先生が教えやすいように教えていただければ大丈夫ですから。」

「あ、ありがとうございます。期待にそえるように、精いっぱい頑張ります。」

「ほら、持ち場についてください。もうすぐ生徒も来ると思いますから。」

そう言われるがままに、僕は持ち場の2番の席へと直行した。


 授業開始の2分前、ついに佐々木桜は姿を現した。目鼻立ちは整っており、顔も小さくて美人の子特有のなんかいい匂いもして、僕が最初に抱いた感想は、モテそうだなというひどいものだった。こんばんは、と挨拶してみると小さな声ではあるが挨拶を返してくれた。大人しい子なんだなという印象で、さすが田中先生は相性の良さそうな先生に担当させることが上手いなと思った。僕は活発なほうではないから、このような大人しい感じの生徒は大歓迎だった。挨拶や宿題チェックなど一通り済ませたところで、さっそく授業に入っていく。1コマ90分で、今日僕が教えるのは1年生のときの苦手範囲である比例と反比例の復習だった。苦手範囲とはいっても、彼女は数学が得意であり大体の問題はスラスラ解くことができ、ある問題点を除いては模範的な生徒であると言えた。では、その問題点とは何なのかというと、目を離すとすぐにウトウトしてしまうという点であった。しかし引き継ぎ資料には真面目で頑張り屋な子と書いてあり、多少脚色されていると考えたとしても、初対面の先生相手に真面目で頑張り屋な子がこんなにも寝るものなのか、と疑問に感じた。しかし僕はまだ新人であり、授業にはまだまだ不慣れで、とてつもなく面白くない授業をしてしまっているのではないかという可能性も考えられた。それに「春眠暁を覚えず」という言葉があるように、「春眠授業を覚えず」という状態になってしまっていたのかもしれない。とにかく何とかしなくちゃいけないなと思ったが、そう思う時、人間は大抵何もしないことが多い。僕もその典型例の通り、特に何もできないまま頑張って起こしつつ授業を終えることとなった。授業の後は、教室長の田中先生に生徒の様子などを報告することになっているのだが、正直僕はため息をつきたい気分だった。初のバイトで、初の生徒に居眠りされるというのは、才能がないのかもしれないと思い始めていた。

「田中先生、報告したいのですが構いませんか。」

「どうぞ、初授業お疲れ様です。」

この優しさがさらに僕の胸を苦しめる。

「すみません、今日の佐々木さんですが、問題はスラスラと解けていて良かったのですが、居眠りが多くて自分の力不足を痛感しました。」

「そんなことはないですよ。佐々木さん、最近風邪気味だそうで体調が優れていないみたいで、普段は真面目で居眠りなんて絶対にしない子なのですが、今日のところは仕方がない部分もあったと思います。本当に初授業お疲れ様でした。これからも引き続き頼みますよ。」

田中先生はなんて聖人なのだろうかと思ったのもつかの間、ある疑問が僕の心の中にふっと出る。

「引き続きと言いますと、講師としてということですか、それとも…。」

「佐々木さんの担当の先生となってもらいます。佐々木さんが風見先生のこと気に入ったみたいでね。」

僕の何が彼女の心の琴線に触れたのかは分からないが、晴れて僕は一生徒の担当講師となったのであった。次の授業は来週にあるが、そのころには彼女の風邪も治っているだろうし、今度は田中先生の期待を裏切らないためにも精いっぱい頑張りたいと僕は心の中で決意した。


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