第3話
柚葉は、俺が声をかけると満面の笑みを浮かべてまっすぐ走り寄ってきた。そして、そのまま俺の胸に飛び込んでくる。
平時では淑やかな柚葉も、やはりこういう時は我を忘れてこうなるんだなぁ、と思いながら、頭を撫でてやる。
「お兄様! あぁお兄様っ! よくご無事でいらっしゃいましたね。心配したんですよっ! 本当に、どこ行ってたんですかっ、もぅ……ぐす」
柚葉の涙で潤んだ眼が、俺を見つめてくる。
だが、その眼は決して嘘や隠し事は許さない、という決然とした意志を秘めているように思えた。
まぁ、今話してもいいのはいいのだが、先ほど話し合った通り、秀樹、楓、奏の親を招いてから全員に説明をするつもりでいるから、その時に同席してもらえばいいだろう。
「ごめん、柚葉。寂しい思いさせたな。でも、もう大丈夫だから。もう黙ってどこかに行くなんてことは、しないと約束するから、とりあえず、な? みんな見てるから」
とりあえず、柚葉に放してもらおうと声をかけるが、柚葉は俺の言葉にはうなずかず、ただぎゅっと腕に力を籠めるばかり。
いや、力を籠めるというか……これどんどん力強くなっていってないか?
なんというか……これ以上は痛いだけなのだが……いや、マジ勘弁してほしいんだけど。
「いやです。義理とはいえ、家族にこんなに心配かけさせるお兄様にはこれが一番の罰なんですから!」
そう涙声で言われても……こう強い力で抱き着かれ……というか、締め付けられては、浪漫もへったくれもあったものではない。
というか、本当に痛いんだが、どれだけ力込めてんだよ。
今は悠里じゃなくて陸だけど、それを差し引いても強すぎる。これでも、向こうの世界では男の姿でもある程度戦えるようにって、鍛えてたはずなんだがな。
実際、男の姿でも中堅クラスの冒険者として働けてたし。
向こうでそれなら、こちらの世界では敵なしっていってもいいくらいなんだが。
「つか、柚葉っ、マジでもう限界なんだけどっ! ギブ、ギブアップ! 放してくれ!」
「……なら、確約してください。先ほどの言葉、違えるようなことはしないと。じゃないと、いつまでも、このままです!」
「わかったっ、確約するから! だからもういい加減放してくれ、ものすごく痛いんだ!」
「はぁ……仕方ありませんね。放してあげます……その代わり、本当に約束してくださいよ? もう黙っていなくならないでください。あんなに悲しそうな顔をするお母様、二度と見たくありませんもの」
「ちょ、柚葉!」
母さんが恥じるように柚葉の名を呼ぶが、当の本人はどこ吹く風。
俺の眼をじっと睨むように見てきて、俺からの返答を待っていた。
ここで素直にはいと言わないと、柚葉からは漏れなくビンタが飛んでくるだろう。
良家の娘の嗜みなのか、母さんの家系は男女問わず武芸の心得がある。いざというときに自衛できなくては困るかららしいが、まぁとにかく。
さっき腕に込められていた力からして、全力でビンタを張られると多分、タダじゃすまなくなりそうな予感がする。
だから、というわけでもないが、俺の答えは決まっていた。
「ああ。さっきも言った通り、もう黙っていなくなるようなことはしない。約束だ、柚葉」
「はいっ!」
ぎゅっと、小指同士を絡ませる。
よくある、破ったら針千本飲ますというフレーズの『契約』だった。
――シュル…………。
一瞬、何かが固く結ばれるような音が聞こえた気がするが、多分気のせいだろう。
心なしか胸のあたりに違和感がなくもないが……すぐになくなってしまったしな。一応、気に留めておいて、後で詳しく調べてみるとしよう。
「それで、お兄様はいったいどこに行っていたのですか?」
パジャマの胸ポケットから取り出したハンカチで涙を拭きながら、柚葉は再度、最初の質問を繰り返してきた。
「まぁ、そこは気になるところだと思うけどさ。実は、義母さんから、秀樹たちの親も呼ぶから、あれこれ説明するのは秀樹たちの親が来てからにした方がいいって言われててな。だから、悪いけどそれまで待ってくれないか?」
「むぅ~……私は今すぐ知りたいです!」
「柚葉がわがまま言うなんて珍しいわね……でも、今は待ってもらえないかしら。別に、あなただけ仲間外れにしようとは思っていないから。学校には、後で私から連絡しておくわ」
「……わかりました。約束ですよ?」
柚葉はまだ不満そうな顔をしていたが、俺達の顔を確かめるように一通り見た後で、ふと何かに納得したかのような表情になってこくり、とうなずいた。
――?
なぜかはわからないが、本当に今朝の柚葉は違和感ありまくりな気がするな。
まぁ、柚葉からすれば9か月間、俺に会えなかったのがこらえたのだろう、と無理やり納得させることも事態が事態だからできなくもないが、ちょっと無理がありすぎる違和感だった。
なんというか――俺がいない間に、何か得体のしれない事件に巻き込まれていたか、現在進行形で巻き込まれているか――義妹の姿をしているけど義妹じゃないような、というと行き過ぎだけど、何かが大きく変わってしまっているような。そんな気がしている。
9か月。それは、こうまで人を変えてしまえるものなのだろうか。
じっと見つめていると、柚葉は顔を若干赤らめながら、もじもじとして、どうかしましたか、と聞いてくる。
それで俺はようやく我に返ることができた。
「あぁ、すまん。ちょっとぼーっとしてた」
「いえ、大丈夫ですよ。お兄様も、帰ってきたばっかりですものね」
「あ、うん……柚葉とも会えて、ようやっと一息付けたような気がするよ……」
嘘ではないな。
柚葉のことも気がかりなことの一つだったし。これで、俺が義母さんに引き取られてからは若干ブラコン気質になっていたところもあったから。
ふと、たくさんの視線を感じてそちらを見てみると、ニマニマと笑いを浮かべている五人の姿が……。
「うふふ。いいのよ、私達のことは気にしなくても」
義母さんのその言葉に、息をぴったり合わせて同意する他の義父さんと秀樹たち。
少しだけ、ジト目で睨みながら俺はソファのもといた席へと戻る。
柚葉も、テーブルを囲うにして配置されたソファの、いわゆるお誕生日席に座った。
なにはともあれ、これで今現在この家にいる主なメンバーはそろったことになる。
ほか、島村家が個人で抱えているお手伝いさんもいるのはいるけど、この家族や友達といったメンツの中に入れるのは無粋というものだろう。
料理を担当してくれている人が呼びに来るまで、まったりとした時間が生まれることになる。
とはいえ、本日は平日。柚葉はもちろん、義母さんたちも仕事があるはずだ。
朝食の準備が完了したと、件のお手伝いさんが呼びに――そう思っていたところで、秀樹から思念通話が送られてきた。
『なぁ、今さっき、なんかされてたよな、陸』
『やっぱり、そう見えたか?』
あちらの世界では、音を立てずに水面下で短く意見のやり取りをする際に使用されていた魔法で、商談や外交はもちろん、戦闘中に合間を縫ってコンタクトを交わすときに、アイコンタクトの代わりに使われることもあり、汎用性が高く、使用頻度の多い魔法であった。
内容は先ほどの柚葉との会話の時に感じた、あの違和感のこと。
やはり、秀樹から見ても何か気になることがあったようだ。
どうするか――確かに何かされた、という感じはしたものの、今それを感じ取ることはできない。
魔力的なものが自分の中に『付着』しているかどうかもわからないのでは調べようがないので、答えは決まっているな。
『しばらくは様子見するしかない』
『だね。まぁ、契約の類だったとして、平和なこの世界なら、柚葉ちゃんの言葉を違えるほうが難しいでしょうから、おそらくは大丈夫でしょう』
『だといいんだけどねぇ……』
『だよなぁ。なんかありそうな気がするよなぁ……』
そもそも、魔法などとは無関係だと思っていた柚葉から、それと似たような『ナニカ』――もちろん、魔力的なものを感じないから、少なくとも俺達の扱うものとは別の『ナニカ』であることは確かだが――の気配を感じたということは、俺達の『平和』を揺るがす何かが柚葉の周りでうごめいている可能性があるということでもある。
――力ある者は力あるものは力あるものを招き寄せ、厄介ごとをも引き寄せる。女神の言葉が、帰還してから半日もたっていないというのに早くも現実味を帯び始めてきているな。
これは、完全に気を抜くことはどうやら不可能と思った方がよさそうだ、と警戒心を強めた。
そんなこんなで、つかの間の安息に浸っていたわけだが――島村家は、仮にも良家である(仮にも、は余計かもしれないが)。
それも、こんな大豪邸を構えるほどの良家であり、朝食や夕食、休日の昼食などはお手伝いさんたちの手によって、完全にスケジューリングされている。朝食の時間まで寝て居ようものなら、お手伝いさんが起こしに来るというおまけ付き。
つまるところ、島村家の本宅にて生活している限り、強制的に規則正しい生活を送ることになるのである。
まぁ、何が言いたかったかといえば、もうすぐ朝食の時間になる、ということだ。
俺がリビングに入ってきてから経過した時間を鑑みれば、そろそろお手伝いさんが呼びに来る頃合いだろう。
「失礼いたします、奥様、旦那様――あ、皆様もお集りでしたか。お食事の準備ができましたので、食堂へお越しください」
「えぇ、わかりました。ではみんな、朝食をいただきにまいりましょう」
「ああ、行くとしよう」
話をすれば、というやつか。
昨晩は義母さんが用意してくれた軽食(パンに生野菜とハムを挟んだサンドイッチ)と紅茶しか口にしてないから、ちゃんとした料理を早くよこせと腹の虫が催促してくる。
それは秀樹たちも一緒だったようで、『朝ご飯、何だろうな』とか、『できれば和食希望……!』とか、そういった声が聞こえてきた。
そして、それを観察するような表情で聞き取っていた柚葉が妙に印象的だった。
義妹には秀樹たちがどのように映っていたのだろうか――
「(お兄様、お兄様……)」
「(なんだ、柚葉)」
気になって仕方がなかったのか、それでも普段なら我慢して疑問を呑み込むはずの柚葉が、申し訳なさそうな表情をして、控えめに声を潜めて俺に聞いてくるってことは、相当気おかしく映ったんだろう。
「(お兄様はともかくとして、他のお三方は確か――)」
「(しー……。その話も、俺がいなくなっていたことに絡んでるから、後でな)」
「(そうですか。……普通なら、逡巡してしまいそうなこの家でも、あの堂々とした佇まい……まるでこういう場に慣れているような。一体、どんな経験をしてきたんですか、本当に)」
なんだろうか。申し訳なさそうな顔から転じて、今度はものすごく呆れたような、それでいてあり得ないものを見たような顔になったんだが。
まぁ――価値観を大きく変えられる出来事だったのは確かだが。
異世界に送られるなんて、そうそうあるようなものではないし。
ちなみに、朝食は和食だった。俺達にとっては実に三年ぶりの日本食だ。味噌汁を飲んだ時は思わず、号泣してしまったな。
それで俺達四人とも、義母さん達に気遣われてしまったのはまぁ、恥ずかしかったが。