第2話
視線の先にある塀。
その向こう側には、でかい館があるが――土地の狭い日本の、それも郊外とはいえまだ都心に近い場所に、これほどの土地を持っているのははっきり言って贅沢の一言だろう。
まぁ、実際には島村一族だけじゃなく、他にも似たような家はいくつか……片手の指が余る程度にしかないが、存在しているんだけど。
「さて、と。それじゃ、押すぞ?」
「ああ、頼んだ。騒ぎにならないように根回しするとなると、お前の家しか頼れないんだから」
秀樹の言葉に頷きながら、俺は門の横に備え付けられたインターフォンの呼び出しボタンを押した。
島村家謹製のインターフォンで、家の関係者のみが知るやり方で押すと、任意の相手のスマートフォンに直接繋がるのだ。今回は義母さんに繋いだが。
ちなみに外見は、島村本家の敷地の近くまで来たときに、シェイプシフトの魔法で陸の姿になっている。
どちらかといえばこの魔法は他人に『変身』する魔法なので、生物学的にも今は男である。ただし、この状態で再び同じ魔法をかければ、悠里の姿に戻ってしまうが。
そしてさらに補足だが、どういうわけか精神的な性別も、その時の外見が『男』か『女』かによって、変化する。
今は男としての俺――『島村陸』としての姿になっているから、精神も男のそれになっているって感じだな。
――さて。この時間。義母さんは起きているだろうか。
その心配はあったが、まだ日付変更前だしな。義母さんも義母さんで、立場上いろいろとせわしなく動き回っている人間だ。起きている可能性はあるだろう。
事実、しばらくたって、インターフォンからは、迷惑極まりない、という声色で応答があったのだから。
「――はい……って、あなた……まさか!」
もっとも、その声は即座に、疑惑から、歓喜の声へと移り変わっていったが。
懐かしいその声は、三年越しのその声は。まぎれもなく、義母さんのものだった。
「その……ただいま」
その声に、俺は声を震わせながらそう答えた。
――次の瞬間。
「陸君っ!」
義母さんの声に応じてみれば、どたばたとせわしなく動き回るような音。
やがて、インターフォンからは何も聞こえなくなり――門の向こう側にある玄関から、一人の女性があらわれた。
いうまでもない。俺の義母さんだ。
「陸君……本当に、本物の陸君だ! あぁよかった無事で……本当に良かった……」
「義母さん……ごめん」
「ううん……大丈夫よ。無事な陸君の姿を見れたんだもの。……お友達も、ご無事だったのね」
泣きながらも微笑んで、お帰り、と言ってくれる義母さん。
そこに、俺達を怪しむような色は、少なくとも外面上では見受けられない。
「あ、うん……その、ちょっと……騒ぎになると色々大変そうだなって思ったからとりあえずここに、ってことになって……」
「わかったわ。とりあえず、ひとまずは家に入りましょう。もう夜も遅いわ。今日はゆっくり休んで……明日、改めてお話を聞きましょう。秀樹君、楓さん、奏さんも、それでいいかしら。なんにせよ、おうちの方にはこちらで連絡しておきますけど」
「はい。では、お言葉に甘えて……よろしくお願いします」
「お世話になります」
「ご迷惑をおかけしてすいません」
三人の言葉を聞いて、義母さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になって、それからまた微笑んだ。
涙を指で払うと、そこにいたのはもう、一人の母の顔。
俺の記憶にもしっかりと残っている、やり手の資産家兼主婦をやっている、俺のよく知る義母さんの顔だった。
「さて。それじゃあ、中に入りましょう。まだ二月ですもの。このままでは風邪をひいてしまうわ…………? あら、不思議。あなたたちの近くにいると、そうでもないのね……?」
「まぁ、そのあたりも含めて、明日、話すよ。俺たちがこれまでどこにいて、何をやってたのか、とか」
「陸……それにみんなも…………」
俺やみんなの、誠意と覚悟を秘めた顔を見て。
義母さんはやはり、先ほどと同じように、きょとんとして俺達を眺めるも、俺たちと同じように、覚悟を決めたような顔になって、わかったわ、と一つ頷いた。
とにもかくにも、こうして玄関先で突っ立っていても何も始まらない。
義母さんに催促され、俺達は家の中へと入っていった。
久々に――俺たちにとっては3年ぶりの、現代日本の家屋。
俺以外の三人にとっては帰宅ではないが、それでも帰ってきたという実感がわいたのか、じんわりと涙が浮かんでいる。
無論、俺もだが。
久々に食べる、義母さんの手料理。
その味は、とても言葉にしがたい、ありがたみを感じさせるものであった。
丁寧に、丹精込めて作られた料理は、久しく忘れていた平穏な日本の空気に感極まって、静かにだが泣いていた俺達を、号泣させるには十分すぎるほどだった。
そのあとはあまり記憶に残っていない。
泣き疲れたからか、風呂に入ることもせずに寝どこに入ったことだけは覚えているが。
――ちなみに、入浴の代わりに魔法『クリンリネス』で身体と衣服をきれいにしたので、汚くはないぞ。
そして迎えた翌朝。
どうやら、邪神を倒した後そのまま日本へ直帰した形になった俺達は、異世界での生活習慣が根強くついてしまっていたようで、夜明けと同時に目を覚ました。
時計を見ると、時刻は6時20分頃を指していた。正確にはもう少し遅いが、まぁ、誤差だろう。
部屋にいても手持無沙汰なのでリビングに降りてみると、驚くべきことに義母さんと義父さんが起きていた。
「おぉ! 陸君! よく帰ってきてくれた! ありがとう……祈里義姉さんもきっと君の無事を喜んでいるはずだ。あとで手を合わせてやるといい」
「義父さん……ありがとう、ございます」
「いいんだ。……それに、後で何があったのか、話してくれるんだろう?」
「……うん」
義父さんは、何も聞かずに俺の帰宅を喜んでくれた。
多くを語らず、寡黙だが状況をよく見定め、最低限かつ最適解の言葉で周囲をまとめ上げるその敏腕は、多くの企業を傘下に収める、島村財閥の代表――の補佐にして夫にふさわしい立ち位置だった。
うん、今代は義母さんが名実ともに最高権威を握ってるんだ、島村の一族は。
義父さんの言う通り、俺はリビングを出ると、その足で仏間に向かう。
ほんのりと香ってくるのは線香の香り。どうやら、義父さんか義母さんがこまめに線香を上げていたようだ。
今日もすでに線香が上がっており、まだ時間が経っていないのか、半分くらい残っていた。
俺もそれに習って線香を上げると、手を合わせて、母さんに語り掛けた。
――俺の本当の両親は、実はもう他界している。
原因は、交通事故だった。
母さんはいろいろ厳しかったらしい島村家の教育に辟易としたらしく、実家に反発してごく普通の――それも参加でもない一般企業に就職。
そのままなんやかんやあって、無事にごく普通の一般家庭で生まれ育った、俺の父さんと結婚するに至り、そして俺が生まれたわけだが。
幸せだった家庭は、俺が12歳になった日に、唐突に終わりを迎えた。
たまたま近所にケーキ屋があって、そこへ徒歩でケーキを買いに行ったところへ――わき見運転をしていたトラックがそのまま向かってきて――という、交通事故関係ではたまにテレビでも見る内容だった。
お祝いの日だったはずのその日はとんでもない厄日となり――ひとり身になり、途方に暮れていた俺を拾ってくれたのが、母さん寄りの叔母にあたり、島村財閥会長の島村由佳里さんに引き取られたのだ。
俺だけは――おそらく母さんに――突き飛ばされて、事なきを得たけど、まぁ、そんな感じで大変なことがあって、俺は叔母夫婦のもとでお世話になっているというわけである。
ただ、まぁ――一緒に住み始めて、一年しないうちに俺の方で諸手を挙げて別居をお願いしたんだけどな。
理由? 金銭感覚や自分の中の常識が狂うからに決まってる。
いちいち買い物をするにも人を呼ぶし、なんなら銀座に並ぶような高級店で、それも涼しい顔して大人買いをするのが日常的なほど。
挙句の果てには別居の申請が義母さんに通った時も『じゃあもうすぐ竣工のマンションがあるから、そことそこの一番いい部屋をフロアごとあげるわね!』などと、マンションそのものをプレゼントされる始末。
おかげで、こっちはこの年で不労所得に近いものを得ることになってしまった。
ちなみにもらったマンションは、金銭感覚のおかしい義母さんにふさわしく、億ションだった。値段を聞くのも恐ろしいほどの高級マンションだ。
マジ、金銭感覚狂うわ!
まぁ、愚痴はこの辺にしておいて。
とにかく、そういった事情で、義母さんは本当の義母さんではないのだ。
それでも、実子で、俺の一つ下の義妹にあたる柚葉と同じくらい優しく接してもらっているのは確かだけどな。
「母さん、ただいま。しばらく会いに来れなくて、ごめんな……。俺、今まで異世界に連れて行かれてたんだ。そこで邪神って呼ばれるやつを倒せってさ。……はは。笑っちゃうよな。でも、マジな話なんだ。それで、向こうでようやっと、その役目果たして、帰ってこれたんだ。帰ってこれて、よかったよ……」
静かに、ささやくようにして母さんに語り掛ける。
向こうに行く前までも、よくこの家に帰ってきて、母さんに会いに来ていたが……その時は、まだ仏とか、そういったものは半信半疑だった。
でも、向こうに行ったら、向こうの世界ではそういった存在がいたから、もしかしたらこっちの世界にもいるんじゃないか、という淡い期待を持ち始めている自分がいる。
今は、まだ何も感じられなけど……いや、かすかに感じる。
なにか、目には見えないけど、気配みたいなものはある。とても微弱で、それこそモヤをつかむような不確かさだったが、その気配は確かにそこにあった。
その気配は穏やかで、暖かくて。それは、久しく感じていなかったものだった。
――おかえりなさい。大変だったわね。
ふと、そう聞こえた気がして、ハッと周囲を見渡してみる。
だが、周囲には何もない――その、不確かな気配以外は。
――いる。まだ、本当にかすかな気配しかないけど。それでも、こちらの世界にも、そういった存在はいるんだ。
それは、長らく空っぽだった俺の心を埋めるには、十分すぎる出来事だった。
昨日からなんだか湿っぽくなりすぎてるなぁ~、なんて思いながら、義母さんたちのもとへ向かう。
秀樹たちはすでに降りてきていたようで、リビングに集まっていた。
「昨日の、話を聞くっていう件についてだけど。どうせなら、秀樹君たちのご両親にも集まってもらうことにしたから、話をするのは午後にしましょう」
「え!? ちょ、それマジか!?」
「えぇ。それぞれがバラバラに動くより、ある程度考えを統一させてからのほうが、こういうのは動きやすいですからね」
「それに、だ。どのみち、家に帰ればそれぞれご両親に説明することになる。ここで説明して、ご自宅に戻ってからもう一度、というのは二度手間だろう?」
「まぁ、それはそうなんだが……」
三人に、これどうなんだ、と視線で問いかけてみても、三人も困惑した表情を隠せない。
だが、少したって、楓がわかりました、と短く返答をしたことで、俺たちの意思は賛成とみなされた。
まぁ、義母さんたちの顔が、有無を言わさない表情だったっていうのも、あるんだけどな。
俺達は、これから義母さんにちょっとでは済まなさそうな迷惑をかけるんだし。それなら、ここは従っておいた方がいいだろう。
それに――島村家は、日本を代表するような家柄なだけあって、各方面に顔がきくし、それを先代から受け継いで以降、ずっと操ってきた義母さんにしかできないこともあるだろうしな。
ちょっと後ろ暗そうなことも一部でありそうだから、あまり聞きたくはないけど。
「さて……そうすると、午前中いっぱいは暇になっちゃったな」
「それはそうだけど、仕方ないよ……まぁ、広い館の中だし、暇をつぶすものを探すだけで暇つぶしにはなりそうだけど」
「ここの、えっと、陸の家の、本家でよかったのかしら? とにかく、ここに来るのは初めてだから、楽しみといえば楽しみね」
「その……お手柔らかにな。柚葉もいるから」
義妹の柚葉は義母さんに似て、よくできた娘だ。
だが、良くも悪くも義母さんに似ている。そう、良くも悪くも、だ。
いい意味では、他人思いの、とてもやさしい性格なのだが……悪い意味に捉えると――とても浮世離れした思考を持っている。
そして、箱入りに近いのでにぎやかなのが苦手でもある。そのあたりも、義母さんとそっくりだ。
ゲーセンに連れてったことがあったが――周囲の音にとてもおびえた様子で、遊ぼうにも遊べる雰囲気でなくなってしまったのは、今ではいい思い出だが。
「あら。噂をすればなんとやら、ね」
「あ……」
義母さんが俺の後方を指さしたので、それに倣って後ろに上体だけ振り向くと、そこには確かに、柚葉がドアをくぐってすぐのところで呆然としていた。
どうやら、朝起きたら俺が帰ってきていたことで、夢か現実かわからなくなっているようだ。
ただ、これが現実であると察するのにそう時間はかからなかったようで、すぐに焦点が合わさってきた。
「お兄様!」
「柚葉、ただいま。いろいろ大変だったけど……帰ってきたよ」