6月の晴れ
“6月の晴れ ”
珍しいことではないだろう。けれどどうしても6月は梅雨と呼ばれてしまうのだから。
朝の出勤前の時間を慌ただしく準備をしているとベッドに置き去りにしてきたスマホが着信を告げていて、取りに行くと実家の母と表示していた。内容は大方予想がついていてどうしようかと一瞬天井を仰いで考えるが鳴り止まない音に溜息を一つ吐いてから耳に当てる。
「もしもし?お母さん?」
元気にしているのか、など他愛も無い話から始まって本題は「結婚を急げ」というものだ。もういい歳なんだから、と。電話の度に毎度話には出るものの「良い人はいないのか」という質問だけはされないのだからそこは母もよく私の事を分かってくれていると感心する。適当な相槌を打っているといつの間にか話はお母さんとお父さんの馴れ初め話へと移り変わっている。
『お母さん女子高だったじゃない。だからまさか、そんな電車を待っている間に見ていて
くれる男の子がいるだなんて思わなくてびっくりしたわ』
両親は絵に描いたような恋愛結婚。娘の私が聞いても少女漫画の中のお話なんじゃないかと思うほどの純愛だ。ホームで友人との会話に花を咲かせる母に一目惚れをした父が一世一代の告白をして、そこから恋が生まれゆっくりと愛を育んで行く二人。
箱入り娘だった母の父―私からすると祖父―に結婚を申し込みに行った父が殴られて、ようやく結婚の許しを得たというところで感動的なフィニッシュ。
何度となく聞かされた自慢話、それに私はながら通話で相槌を打って聞く。今ではこれが親子のコミュニケーションのようになっている。
『恋なんてどこにあるか分からないんだから。ハルカも早く見付けなさい』
唐突に電話をしてきてはそう急かす母が本気で怒ってなどいなくて、心配をさせてしまっているんだろうなと思えるようになってきたのは最近の事だ。
窓の外へ視線を流すと擦りガラスを伝う水滴が見えて、雨を知らせている。傘を持って出なければ、と思ったところでハッとして今し方嵌めたばかりの腕時計を見ると家を出なければいけない時間が迫っていて、掛けていたスーツのジャケットを羽織ながら母へ「ごめん、また電話する」といつになるか分からない口約束をして電話を切る。
母との電話は勿論嫌ではないが、切った後にどうしてもほっと息を吐き出してしまうのは母の心配を解消してあげられない自分の未熟さを自覚してしまうからだろうか。
でもね、お母さん。
私、とっくに結婚をしていたよ。
* * *
「それじゃあ今日の出会いにかんぱーーい!」
大学に入って三回目の春。
サークルの先輩にどうしてもと言われ誘われた飲み会に参加をしてみたは良いがやっぱりこの雰囲気には慣れない。友人であるミサトちゃんの隣で、たまに振られる話しに相槌を打ちながら目の前の誰も手を付けていない枝豆を消費するだけの時間。
先輩は相変わらず中心で明るく豪快に笑っている。でもあまり馴染めない私のような人も輪に入れるようにと気遣って、こうしてたまに飲み会にも誘ってくれる良い人ではあるから私も無碍にはできずに足を運んでしまうのだ。
店員から渡されたドリンクの入ったグラスをテーブルへと置いて、注文した人へと回す。
「レモンサワー頼んだ人、誰ですか?」
余ったジョッキを掲げで見渡せば斜め向かいに座っていた男性が手を挙げた。
「あ、それ俺だ。ありがとう」
わざわざ腰を上げ手を伸ばして私の手からジョッキを受け取り会釈をされる。
初めて見る人だ。
サークルの人ではないのかもしれない。
さらさらとした黒髪で、目鼻立ちの整った端正な容姿。背は分からないけどすらりとしていそうだ。先輩達に比べたら賑やかではないだろうだが、隣に座っている女の子と愛想よく話しているので特別大人しいという訳でもなさそう。
聞こえてくる会話に耳を傾けていると、読書が趣味らしい。意気投合した様子の女の子とは二人とも優しそうな笑顔でお似合いだな、なんてぼんやり思った。
隣のミサトちゃんを見るといつのまにか席を離れて向こうで盛り上がっているようだ。
私は氷が溶けかけてしまっているカンパリオレンジをグラスにささったままのマドラーで中身をかき混ぜる。氷たちが溶けゆくのがを砂時計みたいに宴会の終わりを刻んでいるようだった。
「お、カズヤ!遅いぞ」
「ごめんごめん、インターン先に呼び出されちゃってさ」
「もう来ないかと思っただろ」
「どうせ二次会もやるんだろ?」
飲み会もそろそろ終盤だという頃、一人の男性が参入してくる。雨に降られたらしく髪や肩が濡れているのを先輩がからかっていた。
カズヤと呼ばれたその人はミサトちゃんが外して空いた私の隣に座って届いたばかりのビールをもう飲んでいる。ポケットから煙草を取り出して口に銜え火を点けようとしたところで、私の視線に気が付いたようで目が合ってしまった。
「あ、ごめん。もしかして苦手だった?」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
不躾に見てしまっていたのは私の方なのにカズヤさんは私が煙草を気にしていると思って確認してくれる。優しい人なんだなと思っていると声を掛けられた。
「それ、何飲んでるの?」
「え、と…カンパリオレンジです」
「へえ、甘いやつ好きなんだ?」
「そういう訳でも…ないんですけど」
自然に話しかけられる言葉にどう答えていいか分からなくて、捻りもなく返しているだけにも関わらずカズヤさんはその後も何かしら私に話を振ってきた。私は返すだけで必死で内容はあまり覚えていなかった。
店員に席の終了時間を告げられて、二次会へ行こうという流れにまとまっている中私も帰り支度を整える。ミサトちゃんはどうやら参加するようで、私はここで帰るねと告げる。
「え、二次会来ないの?」
会話を聞いていたらしいカズヤさんが割入って来て、驚きながらも「ちょっと酔ったので」と頷き伝えると「残念だなあ」と嘯かれる。カズヤさんが自分のスマホを手に操作を始めて、何事かと思っていると、
「じゃあさ、連絡先教えて欲しいな。また話そうよ」
と、笑顔で言われてしまい私はまたどうしたらいいものかと動きが止まってしまった。ミサトちゃんの楽しそうな「早くハルカも出しなよ」という声でハッとする。鞄から取り出したスマホを操作して連絡先を交換した。
「ハルカちゃん…ね。覚えた。それじゃあまた」
手の中のトーク画面に表示されるスタンプと、目の前で手を振り去って行くカズヤさんにぎこちなく手を振り返す。ミサトちゃんが何やら盛り上がっているようだが、私はアルコールのせいもあるのかどっと襲ってきた疲労感に早く家に帰る事だけを考えていた。
* * *
「どうしようかなあ」
調べ物のために大学に併設された図書館に来て、帰ろうとした所で傘も持ってきないのに無情にも降り続けている雨に立ち往生してしまっていた。少しくらいの雨なら走っていくが、残念ながらそんな事はなく屋根のあるこの場所でも足元に跳ねてきそうなくらいの強い雨だ。少し落ち着くのを待ってみようかと思ったところで、隣に立った図書館から見た事のある男性と目が合う。
「あ」
向こうも覚えがあったようで二人して思い出そうとする間が少々あって先に気がついたのは向こうの方だった。
「この前、飲み会に…」
そう言われて思い出す。
そうだ、この前の飲み会で斜め向かいに座っていたレモンサワーの彼だと分かり頷いて肯定する。
「そうです。飲み会で、…いましたよね」
その時会話は交わしていないせいかお互いにどう話していいか、とまごつきながらも合点がいってすっきりしたような気持ちだ。彼が降りしきる雨に視線を向けて、私の手元を確認するように見る。
「もしかして…」
「あ、そうなんですよ。実は傘を忘れちゃいまして」
先程まで悩んでいた事を思い出して苦笑していると、彼は鞄から折り畳み傘を取り出してそのまま間も無くして私の方へと差し出した。
「これ、よかったら使ってください」
「え、そんな訳には!」
「でも帰る所、ですよね?」
「そう、ですけど…でもあなたは?」
そう聞くともう一度おさまりそうもない雨を見てから首に手を当てて、
「まあ、俺はもう少し中で待ってから行こうかな」
と、答えた。
視線が合ったまま少しの間があってどちらともなく吹き出して笑う。
「あの、そしたら駅前のコンビニまで入れて貰ってもいいですか?」
差しでがましいとは思いつつも提案をすると、彼は思い付かなかったとばかりに新鮮な表情をして折りたたみ傘の袋を鞄に仕舞い、広げる。そして雨が降り注ぐ屋根の外へと一歩出て私を手招いた。それに誘われるように私も一歩踏み出した。
頭上で降り落ちる雨粒が大きくて響く雨音がまるで攻撃してきているようにも思えたが、傘がそれから守ってくれてくれているみたいだった。
傘を持ってくれているほぼ初対面みたいな彼を見上げて睫毛が長いなあ、なんてどうでもいいような感想を抱いていると声を掛けられて驚いて肩を揺らす。
「あのあと、二次会行きました?」
「えっ、二次会ですか?二次会は、行ってないです」
あなたは?と問おうとして、名前を知らないため一度詰まった間に気が付いた彼が「そういえば」と切り出す。
「名前、言ってなかったですね。有原紘人です」
「どうも。私は、大見です。大見晴香」
「ああ、ハルカさん。そういえば先輩がそう言ってたな」
「え、何か変な事言ってました…?」
話題に出される程のことはないような、とおそるおそる窺うも彼は笑って否定をする。他愛もない話だったようでほっと胸を撫で下ろす。
「あ、それで…ヒロトさん、は行かなかったんですか?二次会」
「ああ。うん。あんまり酒は強くなくて、退散しました」
「そうだったんですか?そうは見えなかったのに」
「そう?それなら良かったけど」
途中からあまり見ていなかったがたまにレモンサワーは運ばれて来ていたし、泥酔しているようには見えなかったなと思い返す。
「ハルカさんは図書館にはどうして?」
「今週提出しなきゃいけないレポートの調べ物で」
「そっか。俺は毎週のようにあそこに入り浸ってて。毎回何冊か借りて帰るんだ」
「へえ、好きなんですね。本」
「うん。うちの図書館は案外広いし、楽しいよ」
そういえば飲み会の時も読書が趣味だと話しているのが聞こえて来ていた事を思い出した。自分はあまり本は読まない方だ。別に嫌いという訳ではない。手にしてしまえば面白いと思うけれど、それを読み切るのは疲れてしまって、なかなか手を伸ばさないのが事実だ。
それを毎週のように何冊も借りているだなんて、彼はマメだなあと思う。
気付けばもうコンビニの前まで来てしまっていて、二人気が付いて何と無く無言が流れる。
コンビニの屋根の方へと傘の中から一歩出た。
雨が絶えず降る彼とはなんだか見えない壁があるような気がして、なんだか余所余所しくなってしまう。
「ありがとうございました。本当、助かりました」
「いや、このくらい全然。…じゃあ」
「はい。じゃあ」
彼が駅の方へと体の向きを変えて行ってしまいそうになって、「あの」と呼び掛ける声が咄嗟に自分から出た。勢い余って顔を前に出してしまって前髪が濡れてしまったが、呼び掛けに気が付いた彼が降り返って再び目が合う。
何で呼び止めてしまったんだろうか。
咄嗟の自分の行動に吃驚しながら雨の中足止めさせるのも申し訳なくて、浮かぶ願望をそのまま口にした。
「あの、また、会えますか?」
彼は驚いたように目を丸くして私を見て、そして笑い掛ける。
「俺、毎週あの図書館にいるから」
そう言って傘を持たない方の手で手を振って、駅の方へと雨に紛れて行く。
雨の飛沫で冷たいはずなのに、顔が熱く感じた。
「小学生の頃、同じクラスに元気な女の子が居て。その子とは一緒に遊ぶとか、そうい
う間柄でもなかったんだけど、人気者だったから知ってるって感じで」
図書館で待ち合わせて歩きながら話して、足りないから近くのカフェに行ってまた話す。あれからヒロトくんとは度々会うようになった。
「中学に上がる時に引っ越して、高校生になった時に近所で久し振りに彼女を見掛けてさ。それで声を掛けて、懐かしくなって、彼女と放課後遊ぶようになるんだ。でも何だか雰囲気ががらりと変わっていて。小学校の時は元気な可愛い女の子って感じだったんだけど、なんというか…影のある、儚い美人って感じでさ。そもそもいつも制服じゃないし、何をしているんだろうって」
「タメなんだもんね。そういう話はしなかったの?」
「なんとなく、聞いちゃいけないのかなってそんな気がして。でも段々彼女に惹かれていって、知りたくなるんだ。彼女のこと」
「…そうなんだ」
「でもある日、彼女はぱったりと姿を消すんだよね。何かあったのかな、って心配になって。何日も一人で待つんだけど彼女は来ないし、彼女のこと何も知らないから探す術もなくて」
「それで?会えたの?」
「…会えたよ。またひょっこり帰ってきたんだ。でも、怪我をしていて…どうやら家庭事情が大変だったみたいでさ」
「そう、だったんだ…」
ヒロトはもう氷で薄まって来たアイスティーを搔き混ぜて、私を見る。
「それでもう失いたくないって思って彼女の事情に足を踏み入れて、二人で困難を乗り越えて結ばれる…ってそんな話」
「………え、今の本の話?」
「うん、そうだよ?」
「どこから?」
「どこから、って…小学生の頃のことから?」
「うわあ…私ずっとヒロトくんの話だと思って聞いてた」
「まさかあ」
余りにも本当にあったことのように話すものだから、完全に信じ込んでしまった。呆然とする私を他所に彼はアイスティーを飲みながら、そんな私の反応が可笑しいのか笑っている。
彼の話を聞いているのが楽しくて、ついつい長居してしまう。「それでさ、」と続くのは先程の物語の続きらしい。さっきまでは彼の過去の話だと思って聞いていたが、本の話だと分かると何だかまた違った印象を受けるが気になって聞き入ってしまう。
「ハルカは?何か最近見たものとかある?」
「私かー…あ、ドラマ。まだ二話なんだけど面白いなーと思ってちょっと楽しみ」
「へえ、どんな話?」
「刑事もの…かな?何か人気な俳優みたいだよ」
「誰だろ、気になるな」
たまには私からも話してみたりもするけどそれも食事をしながら流しているだけの近況報告のようなものでそれ以上話はなかなか広げられない。ヒロトくんは本当に話が上手なんだなあ。窓の外で降っている雨の音がBGMみたいで、心地良い。
次の週は学生の間で最近評判のパンケーキの店へ隣駅まで足を運んだ。
どうやらヒロトくんは甘いものが好きらしい。意外だと伝えると少し照れたように笑いながら、生クリームのたっぷり乗ったパンケーキを頬張っていた。
こうやって二人で会って話す日々を送っているうちに彼の好きなもや苦手なもの、性格をなんとなく知れたような気がする。
「そういえば、ハルカがこの前言ってたドラマ見てみたよ」
「え、見てくれたの?」
「うん。面白かったよ、俺も続きが気になってきたなあ」
私が話したものを彼が覚えていてくれたことも、早速見てくれたことも嬉しくて体が少し前のめりになってしまう。そして自分が前回の話を見てから日が経っていることに気が付いた。
「あれって放送日昨日だっけ?」
「そうだよ。昨日の22時から」
「…見逃した」
「え、ハルカ見てないの?なんだ、感想でも語ろうと思ってたのに」
「ごめん。…よかったら昨日の内容教えてくれない?」
「俺が話しちゃっていいの?」
「うん、ヒロトくん説明上手だから。教えてよ」
そう伝えると彼は思い出すように斜め上の方に視線を向けて、「よし」と掛け声を一つ呟いてから私に向き直る。
「じゃあ前回の話のところからだけど。花屋の女性が何か影ありそうなところで終わったの、覚えてる?」
彼は食べ終えて空になったお皿を端へと寄せテーブルの上の自分の周りにスペースを作り、指で登場人物を表しながら語りを始めた。
「覚えてる」
「実は、彼女は過去に交通事故を起こしていたんだ。それで、塞ぎ込んでしまっていて…」
「え、交通事故?それって…」
「そう。彼女は主人公の刑事の弟さんをひき逃げした犯人だったんだよ」
おそらくこのドラマの一番の見どころとも言える関係性の暴露に私は驚愕する。もしかすると私は大事な場面を見逃したのでは、とふと過ぎったが彼の口から聞くストーリーはまた新鮮で、面白く感じた。
「まだ刑事も女性も、お互いが被害者家族と加害者であることは知らないまま仲良くなっていくんだ。今回のメインの事件はとある家の父親が庭で殺されてしまったという話なんだけど…」
たった一話分の話だというのに、彼の話は細かく分かりやすくて、頭の中で以前見た俳優達が彼の言葉通りに演技をしていて、それを見ている気分だ。情景がすごく伝わってくる。今日も私は夢中になって、気付けば雨に濡れてしまっていた上着はすっかり乾いていた。
それからこのドラマの話は毎週、彼が教えてくれるようになった。
回を追うごとに展開は面白く、巷の評判も良いらしいが私はそのドラマ自体はあれから一度も見ていない。何故ならこの話は彼の口から聞きたいと思ってしまったから。
もちろんドラマを一人で見た時も面白いと思った作品だったが、私は彼が話すからこその面白さの方が気になってしまって、それを崩したくない気がしたのだ。
講義が終わって筆記用具を片付けていると後ろの席に座っていたミサトちゃんが肩を叩いて呼び掛けてきて、体ごと彼女の方を向く。
「ねえ、明日サークルの飲み会あるみたいなんだけど一緒に行かない?」
「えー…飲み会かー」
ミサトちゃんは最近バイトで忙しくしていたから、久々の飲み会を楽しみにしているのだろう。私もミサトちゃんが居ないのなら、とそういう場には顔を出していなかった。
「前にハルカに連絡先聞いたカズヤ先輩、覚えてる?」
記憶を掘り返していくと、ヒロトくんと初めて会ったあの飲み会の日に話した人だと合点がいって、そんな私の表情に気が付いたミサトちゃんが身を乗り出す。
「そのカズヤ先輩が、ハルカに会いたいって言ってたらしいよ?」
「ええ?何で…」
「なんでって、気に入ったからじゃないのー?結構モテるみたいだよ、あの先輩」
容姿も整っていて、人当たりも良く、成績も良いと噂されていた気がする。たしかにそんな先輩なら女子からの人気は厚いだろう。自分がそんな人に気に入ってもらえたというのは俄かに信じ難い。そもそも何を話したかもあまり覚えていないくらいの、そのくらいのはずだ。あれから連絡を取っていた訳でもないし、たまたま名前が挙がったってだけだろう。
それに、明日はヒロトくんが図書館に居る日だ。
待ち合わせをしている訳ではなかったけど、それでも当たり前のように私は行くつもりだった。
「ごめん、ミサトちゃん。明日は予定がるから」
「ええー。うそ、一緒に行こうよ」
「ごめんね」
一緒に行きたかったと嘆いてくれる彼女を宥めながら、ふと窓から図書館の方角に視線を向ける。色とりどりの傘を持った学生たちが歩いていた。
私は彼から物語が教えてもらうあの時間が心地良いのかもしれない。
そう、思っていた。
大学も卒業間際になった頃、ヒロトくんは突然姿を消した。
図書館にも、大学構内にも二人で行ったカフェなんかに行ってみても会うことは叶わなくて、いつかの飲み会で一緒だった先輩達に連絡を取ってみるも分からないと言われてしまう。私自身、就活に本腰を入れて忙しくなったこともあって彼のことを心配する時間は日に日に減ってしまっていた、。
今日が久し振りの大雨だったからかもしれない。
少し外を歩いただけで地面で跳ねた水がパンプスから無防備に出ている足の甲を濡らす。
もう会えないのだろうと諦めてから一度も行っていなかった図書館へと足を向けた。やっぱりそこに彼の姿はなくて、ぼんやりと本棚の間を歩いている内に彼が話してくれた本の話を思い出す。何だか急に気になってきて、その本を読んでみたくなった。
小説のコーナーに行き、人気だと思われる作品が並ぶ本棚の背表紙を上から下へと視線を滑らせていくと聞き覚えのあるタイトルが目に入ってその本を手に取ってみる。
「これ、だな…」
最初のページを読み始めると彼が話してくれた登場人物がいて、やはり聞いたことのある話で間違いなさそうで何だか淡いドキドキ感を味わいながらその表紙を撫でた。すぐに読むのは難しそうで私は初めて図書館の本を借りて帰ることにする。
家に帰って片付けもそこそこにソファーに座り、借りて来た小説を開いた。
冒頭は主人公である男がヒロインの女の子への想いを語るシーンから始まる。章が進み話は小学生の頃に話は遡り、二人がクラスメイトとしての出会って、何事もないまま主人公は引越して転校をしてしまう。そして高校生になった時、近所でその女の子と奇跡の再会を果たすのだ。
それこそ台詞は初めて見るものばかりだし、大筋に関係のない学校での主人公と友人のシーンだったり、そういったものは新鮮で“そうだったんだな”という感想を抱くがその程度。男女が出会って離れて、また再会して…と何ら変哲もないよくある恋愛小説というのが正直な感想だった。
「うわ、もうこんな時間だった…」
窓の外はすっかり暗くなっていて、カーテンも閉め忘れ夕飯時だってとっくに過ぎているのに私は小説を読むことに夢中になっていたようだ。ただ、この情熱は小説の話へではなくヒロトくんが話してくれた言葉を掻き集めていくような、そんな気分だった。
「 “彼女を探すにしては、僕はあまりにも彼女のことを知らなさすぎた”…刺さるなあ」
小説の一節。ヒロインが失踪した時、主人公は探す宛てもなくて困惑してしまう。その姿は何だか今の自分と重なるものがあった。ヒロインは数日後にひょっこりまた姿を現すのだが、現実がそう甘くないことも知っている。
それから私図書館に通うようになった。
彼から聞いた話を思い出してはその本を探して持ち帰る。内容をしっかり覚えているものもあれば、断片的な記憶しかないものあり本を探すのは案外大変だった。
「あの、すみません」
元々あまり本への知識がない私は検索をしたり、司書の人に頼んで一緒に探して貰うことにした。
「探しているがありまして…恋愛小説、だと思うんですけど」
「どんなお話か分かりますか?」
「コーヒーショップの店長さんが主人公の話で、少しレトロな雰囲気な…」
少しずつ記憶を辿って、単語を紡いで、雰囲気を伝えていく。私の説明はとても拙くて司書の人も戸惑いながら一生懸命考えて探してくれるがなかなか難しい。彼はなんてスムーズにストーリーを話してくれていたのだろうか。私が思い出すのは内容や言葉よりも、話してくれている彼の表情や声の温度だった。
そうして見付けた本を何冊も手に取って読み進めていく。こう言っちゃなんだが、どれも聞いたことのあるような物語ばかりであまり興味がそそられない。全部読み終わったというのにまだ先があるかのような、しっくりこないものばかりで退屈だった。
彼から物語の話を聞いていた時はどの本も光の反射する雨露みたいにきらきらしたように見えていたのに、どうしてこんなに違って思えるんだろう。
彼はどんな気持ちで私に話してくれていたのかな。
私は彼が物語を話してくれるあの時間が好きだった。今更込み上げて、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に膝を抱えた。
結局彼とは再会することもなく大学を卒業し、私は不動産会社に就職した。毎日覚えることもやる事も多くて本に触れることなんて勿論ない生活だ。彼氏も結局いないままだけど、ヒロトくんの事だってもうぼんやりとしている。あの時はそんな気がしてしまっただけなのかもしれない。
「大見―。飲んでるかー?」
「はい、飲んでます。先輩は飲み過ぎじゃないですか?」
「いいか新卒よ。社会人にはな、飲まなきゃやってられない日もあるんだ…覚えておけ」
「うわ。ごめんね大見ちゃん、こいつめちゃくちゃ酔ってるよ」
「みたいですね…大丈夫ですかね?」
「大丈夫大丈夫、転がしておこう?」
「なんだよ、お前―同期だろ。もうちょっと優しくしてくれたって…」
「課長―。うちのエースが面倒くさいです」
「ええ?あーもう、その辺転がしておけ」
「ちょ、課長!ひどい!今月だけ、今月ちょっと落としただけですって!」
職場の人達はすごく気さくで、仕事終わりに飲みに行くこともしばしばあるけど前よりは慣れて来たような気がする。周りの会話に耳を傾けて、相槌を打ちながらたまに笑って。でもこの場自体は嫌いじゃなくなった気がする。
「お待たせしましたー」
運ばれて来たグラスが分配されると、まだ自分の手元のグラスが空いていなかったことに気が付いて残りを一気に飲み込んでテーブルに置くと氷が音を立てて底に落ちる。隣に居た同期の女の子が大丈夫?と聞きながらグラスを回収してくれて、新しいグラスが目の前に置かれた。
「そういえばさ、最近読んだ小説がめちゃくちゃ良かった。ときめいた」
「あ、この前言ってたやつでしょ?私も読んだ」
ふと自分の後ろの席に座る普段あまり話すことのない女性社員達の会話が耳に入ってきて、思わずどきっとしてしまう。本の話なんてありふれているというのに、気になってしまうのはアルコールが入っているせいなのか。
「なんかもう甘酸っぱい感じがたまんないよね」
「そうそう、こんな青春あったかもーみたいなリアルさっていうか」
「でも図書館で出会うっていうのはなんか少女漫画みたいじゃない?図書館とか行かないし」
「いやイケメンと出会うためなら通うかも」
「だよねー。私も出会いたい」
図書館での出会い、少女漫画のような話。
よくありそうな設定だけど、彼の話を心待ちにしていた自分を重ねて気が逸る。私は気付けば振り向いて話したこともない彼女達へと声を掛けていた。
「あの、それ何てタイトルですか?」
駅前の本屋が遅くまで開いてくれていて良かった。飲み会終わりに立ち寄って、さっき彼女達から聞いたタイトルの本を探してみたら直ぐに見付かって購入する。聞いたことのない新人作家の作品で、どうやら最近この小説で賞を取ったらしい。
明日は休日だ。今日はこのまま夜更かしをしてこの本を読むことに決めた。テーブルの上にはお気に入りのコップに入れた飲み物を用意して準備万端で裏表紙に書かれたあらすじを読んでみると、聞いた通り“図書館で出会った二人の恋愛小説 ”だということが読み取れて、きっとありきたりな話なんだろうと期待は正直しないままにページを捲る。
* * *
降りしきる大雨の中、然程大きくはない一本の折りたたみ傘に身を寄せる。
初めて会ったも同然の彼女に対して何故傘を貸すだななんて咄嗟に出たのかと男は自分の行動に戸惑いながらも彼女が居る右側が熱くなっていくような気がして、左腕を伝う水滴も張り付くような湿気も今は嫌な気がせずむしろ丁度良く感じた。
大きな雨音が頭上で響き、その音に急かされるように取り留めもない質問や会話を繰り出す。相手が答えてくれた後、不自然な間を感じてそういえばと気付き男はようやく名乗ることにする。
「名前、言ってなかったですね。有原紘人です」
「どうも。私は、大見です。大見晴香」
控えめに見上げてはにかんだような笑顔を向ける女から目が離せなくなってしまい男は誤魔化すように視線を外し傘を持つ手に力を込めた。
* * *
「え…私と同じ名前…?それにヒロトくんのも」
図書館から相合傘をするというシシュエーションも、主人公や相手役の名前まで同じ。ただの偶然とは思えない上に驚くくらいに文章が頭に入ってきて、まるで彼から話を聞いているかのような、それこそ私までもその物語に入り込んでしまっているかのような感覚でするすると読み進めていくことが出来た。
ラストシーン。紘人と晴香は結婚式を挙げるのだ。
紫陽花の咲く教会で二人は幸せそうに笑っていた。
もちろん、現実の彼とはもう会うことはないだろうし、会いたいと思う程逸る気持ちがあるわけでもない。けれど会えなくなってしまってしまったあの日以降の物語がもしも私達にあったとするならば、という夢でも見ているかのような心地で呆けてしまう。
ゆっくりとページを捲ると、著者のあとがきが添えられていてどきりと胸が高鳴るのを感じる。ここまで来るともう気が付いていた。こんなに私を魅了する話をするのは彼でしかなかった。
* * *
あとがき
これは僕自身の雨の日の記録。
彼女はきっと僕の気持ちになど気付かないと思っていた。
世界には沢山の愛の言葉があって、人はそれを巧みに使って想い人へ愛を告げるけれど僕にはどれを選んで良いのか分からなかった。どれも言っても及ばず、安っぽいものになってしまいそうでこの気持ちを形容するのはとても難しい。
僕の話を聞く度にコロコロ変わる表情がもっと見たくなって、僕は夢中で話してしまった。僕の世界にはいつだって言葉や物語がありふれていて、彼女と共有することでそれらがきらきらと反射しているみたいで嬉しくなった。
6月は梅雨と呼ばれて、雨のイメージがとても強いことだろう。僕も同じだ。
だけど彼女が居てくれたあの季節は晴れだった。
彼女は、晴香は名前の通り僕に晴れの笑顔をくれた素敵な女性です。
君と出会えてよかった。
『6月の晴れ』
* * *
「雨かー」
「今日こそは駅前のイタリアンランチ行きたかったのにね」
「だよねー。週末も雨だって、外出る気も失せるし」
「でもさ、もうどうせなら温泉とか行きたくない?車出してもらって」
「それいいじゃん。誘ってみよっか」
先日の飲み会で本を教えてくれた彼女達と廊下ですれ違う。向こうも気付いてくれて挨拶はするが、本の話を蒸し返すつもりはなかった。
あの不思議な体験は私にしか分からない。誰も知らない。
物語の中の幸せになった二人のようにあのまま一緒にいたら私達もそう、在れたのだろうか。そんな風に思わない訳でもないが、本の中で語られたあの話が全てだった。
私にとって彼が話してくれるお話が大切だったから。
今日も雨は誰かの心を晴らすのだろう。