飴
飴
彼女が妊娠したことを告げた時、
彼は窓の外を眺めていた。
飴を舐めていた。とにかく、飴を舐め終えるまで、しゃべりたくはなかった。
彼女の部屋の中、窓の外はあんなに晴れているのに。
彼の心は段々と、その足を地面にギュッと押さえられた気持ちになった。
まるで時を止めさせるように、足はその確かな地面へ引っ張られていく。
そして、カンカンと痛みのない頭痛が頭の中で広がっていく。
「なんで?」と彼は薄っぺらい目で、彼女を見つめる。
なんで、が彼女の頭の中で、かけ巡る。
数学的に。理性的に。
「なんでって。」
二の句が継げない。なんでの先に不安としか言いようのない波が、肩から襲っていく。
沈黙が二人の間を流れていく。
飴は彼の口の中で、薄っぺらい板になった。
もう何も味もしない。
もう彼は、口を開いて言葉が言える、言葉を言うべきなのに。
まだ、飴が口いっぱい広がっているつもりになって、ごまかし、ごまかすことをごまかす。
ありがとうなのか、そうか、なのか、
何も言うべきことはないのか。
どうすべきかスマホの検索ページには載っていない。
妊娠を告げられた時の反応なんて。
責任と言う、安易な言葉よりも、
引き返せず、もう世界のどの女も自分は選ぶことができない。
この女に、この女にすべてを決めなければいけない。
口の右端に、忘れたようなホクロがある。
垂れた目の端にアイラインが黒く溜まっている、
この女。
飴は完全に消滅した。この世から消えたのだ。
彼より先に、この状況から逃げ出すように。
あぁ、この飴になれたら、この飴のように、
誰にも見られず、もちろん引っ張られる足もなく、消えていけたら。
彼は飴に嫉妬し、新しく彼女の腹の中にいるであろう、何者かを、はじめて呪った。
チチオヤ、が片仮名で降ってくる。
父親という、漢字はまだ実感が湧かない。
漢字の父親はあくまで彼の父親であって、
父親は彼自身にしっくりきていない。
おままごとの、チチオヤだ。まだ彼の中で。
「産まれてくるの、クリスマスぐらいかな」
あけっぴろげに、半ば投げやりな言葉が彼女から出る。
彼の頭の中に、クリスマスの、サンタが出てきそうな家が出てくる。
ロッジ風で、雪が周りを覆い、家の中、彼女と彼と、まだ顔のない、赤ん坊がいる。
赤ん坊を抱き、静かに微笑む彼。
それを見つめる彼女。
幸せを額縁で飾った風景。
彼は、心の中と、そして実際の体で頭を振り、
リセットを試す。どこから?彼女と出会う前から。
リセットは、そう、できない。
当たり前だ。
もう起きてしまったから。
リセットすることはできる。
堕ろせない?
でも、口にすることはできない。
泣いている彼女が目の裏を通る。
だめ、言ってはいけない。
「ありがとうな」
彼は、口に任せて、言われるように言った。
体に言わせて、心は黙っていた。
ありがとう、な。
ここで、彼女の肩に手を置くのが、また目に浮かんだ。
でも、彼は拒んだ。
それっぽいじゃないか、と。
せめてもの反抗心だった。
でも、体に言わせた、ありがとうは、
彼に一つの生き方を教えた。
あ、体に、すべて体にやらせればいいんだ。
体に任せて生きていっていいんだ。
みんなそうやってきたんだ。みんな。
流れに乗ればいい。責任のある重たい流れ。
彼女も望んでいるんだろう。たぶん。
飴は彼の心だった。溶けて、無くなったのだ。
体だけで生きていくんだ。
覚悟のような、あきらめのような、
それでいて、清々しいような。
また、彼は窓の外を見た。
5月の桜の樹が、緑を主張してくる季節だった。