表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者: 夢野 呑凡人


彼女が妊娠したことを告げた時、

彼は窓の外を眺めていた。

飴を舐めていた。とにかく、飴を舐め終えるまで、しゃべりたくはなかった。


彼女の部屋の中、窓の外はあんなに晴れているのに。

彼の心は段々と、その足を地面にギュッと押さえられた気持ちになった。

まるで時を止めさせるように、足はその確かな地面へ引っ張られていく。

そして、カンカンと痛みのない頭痛が頭の中で広がっていく。


「なんで?」と彼は薄っぺらい目で、彼女を見つめる。

なんで、が彼女の頭の中で、かけ巡る。

数学的に。理性的に。


「なんでって。」

二の句が継げない。なんでの先に不安としか言いようのない波が、肩から襲っていく。


沈黙が二人の間を流れていく。


飴は彼の口の中で、薄っぺらい板になった。

もう何も味もしない。

もう彼は、口を開いて言葉が言える、言葉を言うべきなのに。

まだ、飴が口いっぱい広がっているつもりになって、ごまかし、ごまかすことをごまかす。


ありがとうなのか、そうか、なのか、

何も言うべきことはないのか。


どうすべきかスマホの検索ページには載っていない。

妊娠を告げられた時の反応なんて。


責任と言う、安易な言葉よりも、

引き返せず、もう世界のどの女も自分は選ぶことができない。

この女に、この女にすべてを決めなければいけない。


口の右端に、忘れたようなホクロがある。

垂れた目の端にアイラインが黒く溜まっている、

この女。


飴は完全に消滅した。この世から消えたのだ。

彼より先に、この状況から逃げ出すように。


あぁ、この飴になれたら、この飴のように、

誰にも見られず、もちろん引っ張られる足もなく、消えていけたら。


彼は飴に嫉妬し、新しく彼女の腹の中にいるであろう、何者かを、はじめて呪った。


チチオヤ、が片仮名で降ってくる。

父親という、漢字はまだ実感が湧かない。


漢字の父親はあくまで彼の父親であって、

父親は彼自身にしっくりきていない。


おままごとの、チチオヤだ。まだ彼の中で。


「産まれてくるの、クリスマスぐらいかな」

あけっぴろげに、半ば投げやりな言葉が彼女から出る。


彼の頭の中に、クリスマスの、サンタが出てきそうな家が出てくる。

ロッジ風で、雪が周りを覆い、家の中、彼女と彼と、まだ顔のない、赤ん坊がいる。

赤ん坊を抱き、静かに微笑む彼。

それを見つめる彼女。

幸せを額縁で飾った風景。


彼は、心の中と、そして実際の体で頭を振り、

リセットを試す。どこから?彼女と出会う前から。


リセットは、そう、できない。

当たり前だ。

もう起きてしまったから。


リセットすることはできる。

堕ろせない?

でも、口にすることはできない。


泣いている彼女が目の裏を通る。

だめ、言ってはいけない。


「ありがとうな」

彼は、口に任せて、言われるように言った。

体に言わせて、心は黙っていた。

ありがとう、な。


ここで、彼女の肩に手を置くのが、また目に浮かんだ。

でも、彼は拒んだ。

それっぽいじゃないか、と。

せめてもの反抗心だった。


でも、体に言わせた、ありがとうは、

彼に一つの生き方を教えた。


あ、体に、すべて体にやらせればいいんだ。

体に任せて生きていっていいんだ。

みんなそうやってきたんだ。みんな。


流れに乗ればいい。責任のある重たい流れ。

彼女も望んでいるんだろう。たぶん。


飴は彼の心だった。溶けて、無くなったのだ。

体だけで生きていくんだ。


覚悟のような、あきらめのような、

それでいて、清々しいような。


また、彼は窓の外を見た。

5月の桜の樹が、緑を主張してくる季節だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ