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昼休みに相変わらず入り浸っている時子の研究室からは、生徒同士のいろいろな人間関係も見えてくる。
「お、美人がいる」
「あー、あの子。止めといた方が良いって。そう言うのに疎い私でも良くない噂が耳に入ってくるくらいだよ」
「単なる噂だろ」
「実際に会って話したけどね、なんかあんまりいい感じはしなかった」
「ふーん。あ、話をしてた相手の子が泣いてる。友達じゃなかったのか。ああっ、置いてかれちまった」
「同性に対する態度が最悪なんだ。慰めに行かないの?」
「いや、初対面でいきなり慰められても気持ち悪いだろ」
「ふむふむ」
「あ、あの子は……って彼氏持ちだな」
「分かるんだ?」
「スマホ確認してキョロキョロして」
「あ、本当だ。待ち合わせしてたんだねーって、見ているの女の子ばかり」
「いやいやそんなことは無いぞ」
コーヒーを飲みながらの人間観察が板に付いて来る。その間に、やっぱり時子は何かの記録をつけていた。本当に取り留めもない会話ばかりだが、不思議と途切れて気まずくなってしまうことはあまりなかった。
「なぁ、タイムマシンがあったら何をする?」
「私はまだ進化の…違った、成長の途中だからどこを直せばいいのか答えは出ない」
「後悔するようなことは一切ないのか?」
「有りまくりだよ。例えばこのコーヒー」
「うまいけど」
「塩を入れるとうまくなると聞いて、自分の分だけ入れてみた……のだけど若干多すぎたみたいでしょっぱい。んべー」
「それはご愁傷様。捨てないで飲むところは尊敬に値するが、大丈夫か」
「うん、有難う。けれど私は塩を入れ過ぎるとまずいと言う知識と経験を手に入れた。過去に戻ってやり直せば今日も変わらず美味しいコーヒーが飲めるだろうけれど、塩を入れ過ぎるとまずいと言う知識は失われてしまう」
「どこかで役に立つか分からないもんな」
「明日タケシ君に薦める時に、入れ過ぎは良くないと助言する事も出来なくなるわけだね」
「……そりゃ、どーも。人で実験すると言う考えは無いんだな」
「君に美味しいコーヒーを飲ませるのに君で実験したら意味が無いでしょう?」
時子がタイムマシンの制作者でなくても、もう一つの可能性があることを忘れていた。あまりにここは居心地がいいので無意識に除外していたのかもしれない。
コーヒーと塩の件とは逆に、知識があって厄介な事もあるなんて思ってもみなかった。
母さんが倒れたと母さんの勤めている会社から電話がかかってきた。病院にたどり着いた時には既に意識は無く言葉も交わせなかったが、きちんと看取ってやることが出来た。
いろいろ片付いた後の家は、ずる休みをした時みたいに静かだ。休みの届け出をしていたが耐え切れなくなって大学に行くと、昼休みの研究室では変わらず時子が出迎えてくれた。
「随分静かだと思ったらサーフィンサークルはここ一か月くらい遠征に行っているみたいだね」
「もしサーフィンやってたら母さんの死に目に会えなかったってことか。そりゃ、最悪の親不孝だなぁ」
「タケシ君、サークルに入るつもりだったの?」
「いいや、全く」
おっさんは母さんを母ちゃんと愛情込めて呼んでいた。仲たがいしていてもきっと花瓶やずる休みの話について話しが出来て、生きている内に仲直りできたんだろう。それなのに最期に会えないからサーフィンをやるなって言ったのか。
「せっかくだから死なない方法を教えてくれれば良かったのにな」
「誰に教わるの?」
「もしもタイムマシンがあって、過去の自分に母さんを救う方法を教えたらどうなるかなと思って」
「それは無理だね」
「なんで」
「たとえば人の死など、変えてしまえば矛盾を生み出すような大きな出来事は、別の事象によって結局は変わらずあったことにされてしまう、とよく言われるよ」
「俺が過去に戻って体を大切にするように言っても、交通事故で死んじまうかもしれないって事か」
「そうそう。変えられるとしたら、例えば本人が生きている内に感謝を伝えるとか、過去の自分に大切にしろと助言するとかじゃない?」
「気持ちの問題ってヤツだな」
おっさんがくれた助言で具体的なのは授業内容を先生に聞け、だけだ。次の日がどうなるか分かってもそれ以降どう進むのか分からなかったのかもしれない。だから大切にしろなんて抽象的な助言になった。
あの一言に、どんな思いを込めてたのかと思うと、胸が痛む。
「親が死ぬ苦労や気持ちは私も分かってるから。困っていることがあったら何でも言って」
時子の傍はひどく居心地がいい。下手に何度も何度も繰り返し同情されるより、適度な距離を保ってくれる。
そんな時子が唯一苦手にしていることがあった。
「ご飯はそれなりに作れるけどね。お菓子だけはなぜかダメなんだよ」
「出会って最初のバレンタインチョコがこれか。見た目にはこだわらないから平気だ」
「ほ、ほら、私ってば男女平等主義者だからさ。『女の子が作るお菓子』ってもんを期待されるとどうもうまくいかないんだよね」
「パティシエは男だろ」
「いや、だからいかにも手作りっぽくて可愛くてってのがね。パティシエはどちらかと言うと芸術的でしょ」
「じゃ、芸術的なのを作れ」
「あううう、それもそうなんだけど理系なのでそちらの感覚は自信がございません」
「飯がうまく作れるなら問題無し。いざ!」
「あ、あんまり勢いよく食べないで」
ガキンっ、と音がするほど時子のくれたチョコレートは堅かった。
「超合金でも入ってんのかこれ」
「高温でも強度を保ち酸化しない合金を食べ物に入れたりしないよ。いくらお菓子作りが下手だからって馬鹿にして」
「いや、冗談。それだけ堅いって事だ」
「だから言ったのに。よく歯が欠けなかったね?大丈夫?」
おまけにまずいって言ったら泣くんだろうな。味については心の中にしまっておこう。
「女の子らしくないお菓子か……クッキー、ケーキ…洋菓子系はダメだな。和菓子なんかどうだ?」
「え?」
「来年は和菓子で頼む。饅頭でも団子でも。ちょっと難しいか?この時期だから汁粉でも良いぞ」
「ら、来年も?いいの?」
「ああ、とりあえずこれはホットチョコにでもするか。確かコーヒーに入れるのも有りだったような」
「入れてみるね」
チョコレートをマグカップに入れコーヒーを注ぐ。少し経ってからスプーンでかき回したが、なぜか手ごたえが変わらない大きさで残っていた。
「と、溶けない……」
「まさに超合金チョコレート、か」
お菓子が作れるのかと聞いた時に目を逸らしたおっさんの気持ちがよく分かった。
―――あれ?
「なんで俺、時子が嫁だと考えてるんだ?」
「よっ嫁っ?なんでそんな話に?え、バレンタインのチョコあげただけでもうそんな段階?まだ告白もしてないし付き合ってもいないよね」
「悪い、こっちの話だから、頼むからドン引きしないでくれ。壁際まで逃げるかそうかそんなにいやか」
「近づくペースにかなり差があると大変だって友達が言ってたよ」
でもおっさんが言ってたことに十分当てはまるんだ。
「時子、俺たちの出会いは最悪だったか?」
「何、急に…あれはタケシ君から見たらそうなのかもね。私は実験台が捕まえられて最高だったけど」
「俺が真面目じゃなくても最悪の出会いになってたか?」
「真面目な人はあんなところ通りませんー」
「それもそうか。おっさんもあんな感じで出会ったのか。最悪ってほどか?いや、おっさんに会ってないおっさんだったらそう思うのか」
「ダメだ、意味が分からない。やっぱりこの実験は失敗か」
出会いは最悪だけど最高の嫁。菓子作りは苦手。手がかりはそれだけ。
「失敗した実験台は用無しと捨てるのか」
「え?」
手がかりはあってもあまり意識しなかった。
「分かった。明日からはもう来ない」
「いや、あの」
却ってそれが良かったのかもしれない。
「コーヒーうまかった。今までありがとな」
「……待って」
ほどほどの距離が長続きする秘訣だって、おっさんも言ってた―――いや、言ってないか。