三
冬休みが過ぎても、彼女は相変わらずだった。
俺に会いに来ることはなかったが、時折廊下で会うと誰にも気付かれないように手を振った。俺はそれを手だけで追い払って、誤魔化した。
頼むから忘れてくれ。俺は、今のこの生活を手放したくないんだ。平穏無事に教師生活を終えて、老後を過ごしたい。そのためには、お前の気持ちに応えることはできないんだよ──。
だけど、どんどん自分の中で大きくなる彼女の存在を俺は抑えきれなかった。
無邪気に手を振るその姿。真っ直ぐに投げつけてくる情熱を、受け止めたくて仕方がなくなってきた。
だめだ、だめだ。わかってる、わかってる。できない、できない。
必死に自分の気持ちに蓋をした。
あともう少しの辛抱だ。あと少しで、俺の人生から彼女は消える。そうすればまた、平和な日々が帰ってくるはずだ。俺と会わなくなれば、伊藤も俺の事などものの五分で忘れてしまうはずだ──。
そう思わないと、俺は壊れてしまいそうだった。自我を崩壊させて彼女と過ちを犯せば、俺は一気に人生の落伍者だ。それだけは避けたい。避けなければいけない。許されることではない。許されることでは…。
そして長かった一月が終わり彼女が校内から姿を消して、俺は心底ほっとした。
これで何もかもがなかったことになる。
だけどどこか物悲しくて、むなしかった。
誰も俺を見ない。目にはしている。だけど、見てはくれない。すれ違うだけの人々。言葉を口にするだけ。会話などない。
俺はだんだん孤独になった。自分の中でのその存在の大きさに改めて気付かされた。
その日は雪が降っていた。
朝目を覚ますと外は一面銀世界だったので、慌てて起きて車のタイヤにチェーンを巻いた。
どこもかしこも渋滞していた。学校に着いた頃には時間はぎりぎりだった。なんの意識もなく、ただ雪が降っているだけの平凡な一日のはずだった。
しかし、今日はなんだか校内がフワフワしているような気がする。
?なんだろう。なぜそう思うんだろう。
授業中チョコレートを食べている生徒がいたので注意した。
「なんで今食う。」
そう言うと周りからクスクス笑い声が漏れた。
「先生は食べないの?」
「はあ?」
俺の声にまた笑いが上がった。
なんなんだ。何がおかしい。俺を馬鹿にしているのか?いや、なんだかそうじゃない。と思う。
今日はみんなの頬がやけに赤くて、伊藤を連想させる。
あいつ、受験はどうなったろう。希望の大学には進めるのだろうか。…いかん、ここで思い出してはいけない。忘れろ、忘れろ。
放課後になって俺はその理由がやっと理解できることになる。
俺の前に座っている男性若手教師の元に、女生徒が二人やってきたのを見たからだ。
「先生チョコレート~。」
女生徒は小さな紙包みを同僚に渡した。
「お、サンキュー。」
嬉しそうに受け取る男教師。
「私も私も~。」
一緒にいた生徒も何かを渡す。
さすがに鈍い俺でも、今日がバレンタインデーだということにそこで気が付いた。
ああ、そうか、そういうことか。だから今日はどいつもこいつも浮き足立ってるんだな。まあ俺には何の関係もない。
女生徒は俺にも話を振り、
「先生ももらった?」
「いいや。」
「残念だねー。バイバーイ!」
なんて笑って出て行った。
この目の前の若い教師は独身だし顔立ちも整っているし物腰もやわらかい。女の子にモテるのは当然だ。同じ独身の俺とは大違いだ。
だけど違う。何かが違う。それを言葉にするのは難しいが、彼女のそれとは一歩も二歩も違う気がした。
渋滞に巻き込まれるのが嫌で、わざと仕事をして帰宅時間をずらした。
八時を回りそろそろいいかなと俺は駐車場に向かった。
まだ雪が降っている。朝よりも大粒の雪だ。これが休みの日ならば、きれいだな、で済むんだがな。
雪で転ばないよう、慎重に歩く。
ざくざく歩いて駐車場に辿り着き、俺はまた目を疑った。──伊藤が、今日も俺の車の前で立っていた。
「…何やってんだ、お前。」
伊藤の頭には雪が積もっていた。一体ここにどのくらいいたんだ。
「えへへ。」
彼女が笑った。
「いつからいるんだ、この雪の中!」
「わかんない。」
「わからない?」
「だって、先生に会いたかったんだもん。」
嬉しそうに笑う。頬が真っ赤だ。その健気な姿に心を打たれた。
「チョコレート、渡したかったんだもん。」
俺は、抑えられなかった。我慢ができなかった。その瞳を、頬を。触れたかった。目が離せなかった。感情が、一気に溢れた。彼女に近づくと、俺は──その体を、自分の腕の中に抱きしめていた。
「ばか、ばかだよ、お前。」
「先生──。」
その冷えた体を強く抱きしめた。
たった数秒に出来事だったろう。彼女の、
「先生、いいの?」
という言葉にはっとして身を離した。
冷静になった俺は今の自分自身の行動が信じられなかった。心臓がどくどく鳴った。
ここは特別教室がある棟と運動場の境目にある。運動場はこの雪で誰もいなかったし、今この時間に特別室に用のある人間は誰もいないだろう。見られてはいないはずだ。しかし、自分がとんでもないことをしてしまったという事実に血の気が引いた。
「伊藤、俺…」
「わかってる。」
彼女は寂しそうに笑った。
「私たち、好きになっちゃいけないんだよね?」
俺は何と答えていいかわからなかった。俺に、すべてを捨てる覚悟があれば、何とかなる。だけどできない。俺にはできない。
「私、ずっと待ってた。先生に会いたくて。」
「…。」
「先生が助けてくれたあの日も、本当は先生を待ってたの。」
「俺を?」
「うん。二年生のとき先生が授業を持ってくれた時から、私はずっと先生が好きだったの。」
…なぜ?
「なんで。」
「どうしてかな…自分でもわかんない。でも先生が横を通るたびにドキドキしてた。」
「あの日私の誕生日だったの。だから思い出に告白しようって。断られるのはわかってた。だって先生と生徒だもの。」
瞳を見つめた。
「だけど先生は現れなくて、面白くなくて…男の人に声をかけられてどうでもいいかなって。でもやっぱりだめなの。だめだったの。」
「そんな理由で…。」
「だから先生が来て助けてくれて、私本当に嬉しかった。」
伊藤が鞄に手を入れた。
そしてこちらにリボンがかけられた箱を差し出した。
「先生、これもらって。もらってくれるだけでいい。それ以上は、何も望まないから…。」
彼女がまた、涙を流した。その涙が頬を伝って、雪の上に落ちた。
俺は少々躊躇ったが、受け取った。
「…じゃあ、帰るね。」
そのまま伊藤が去ろうとした。
いや、いけない。俺はその腕を掴んだ。
「だめだ、こんな時間に一人で、こんな雪の中…。送るよ送るから乗ってくれ。」
「いいの?」
「こんな時間に女の子を一人で帰すわけにはいかないだろ。」
彼女が笑った。彼女を乗せて、俺は車を走らせた。
「先生、この車に女の子乗せたことある?」
「うーん…担任してた時に誰かを乗せたことは、あったかもな。」
「あるんだ…。」
「だけど三回も乗せたのはお前が初めてだよ。」
その言葉に伊藤は嬉しそうだった。その姿を見る自分もまた、満ち足りた気持ちになる。
最後に俺も、大切な思い出をもらった。ありがとう。ありがとう…。