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約束  作者: ちゃちゃ
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 しかし、学校がそれを許さなかった。

 俺たちが毎日遅くまで勉強していることを、他の教師が見ていた。

 その姿が異常に見えたらしく、俺はある日教頭に口頭注意された。

「あまり特定の生徒と親しくしすぎないように。」

 俺は素直にはい、と言うしかなかった。

 確かに毎日はいきすぎだったかもしれん。しかも女生徒と、二人きりで。

 このことを彼女にどう切り出そうか考えた。


 その日も伊藤はやって来て、隣の席で教科書を広げた。

 懸命に問題と戦うこの子は可愛い。だけどこれ以上、もうこれ以上一緒にいてはいけないんだ。

 しばらくして、俺は口を開いた。

「伊藤。」

「なあに?」

「先生な、怒られたんだ。」

「誰に?」

「教頭先生。」

「どうして?」

 伊藤にとって俺はどういう存在なんだろう。どうして俺に拘るのだろう。

 だが俺が考えているような邪な気持ちはないはずだ。こんなオヤジになんて興味はないだろう。何となく暇つぶしの相手を探していて、それがたまたま俺だっただけだ──。

「お前と、もう勉強会はできない。」

 伊藤の顔から笑顔が消えた。両手をぎゅっと握った。

「どうして!」

 彼女が激昂するのを見て戸惑った。なぜそんなに怒る?何が逆鱗に触れた?怒っているのに、泣き出しそうな表情だ。

「もう無理なんだ。」

 伊藤から目を逸らした。まともに顔を見ていられなかった。

「これ以上は、無理なんだ。」

 そう言った途端、俺の教科書が飛んできた。

「…先生の、バカっ!」

 伊藤はざっと荷物をかき集めると、その場から走り去っていった。褒められた時と同じ、頬を真っ赤に染めて。

 俺は驚いた。

 自分の言葉にこれほど傷つく人を見るのは初めてだった。

 そうだ、傷つけてしまった。

 せっかく自分を慕ってくれたのに、そんな生徒を邪険にした。もっと言葉を選ぶべきだった。相手は女の子なのだから…。

 俺は唇を噛んだ。激しい後悔の念に襲われた。


 それから彼女は俺の元に現れることはなくなった。

 俺たちの逢瀬は呆気なく終わった。侘しさだけが俺の心の中に残った。

「先生。」

 そう呼ばれて、どきりとする自分がいた。その声の主が伊藤でないことに、ほっとするような寂しいような気持ちになる。

 俺は生徒たちから見て、おそらく空気のような存在だ。厳しくもうるさくもないが、かといって友人のように交わるわけでもない。

 ただ、授業を習うだけの人間。授業が終われば、ここから卒業すれば忘れてしまう、そんな存在。

 それでいいはずだった。生徒なんてそんなもんだと思っていた。だから彼女が…伊藤が慕ってくれて、俺は嬉しかった。自分を真っ直ぐに見つめてくれるその瞳が俺にとって貴重な、大切な存在だった。そのことに俺は彼女を傷つけてしまってから気付いた。

 しかし気付いたところでどうにもならない。立場が違いすぎる。

 俺はすべてを、見ないふりすることしかできなかった。


 冬休みに入り、生徒の姿を校内で見かけることが少なくなった。

 時々クラブ中の生徒が職員室を出入りしたが、伊藤が現れるわけがなかった。

 彼女は三年生。受験だ。三月で巣立っていく。俺たちは二度と会わなくなる。彼女には明るい未来が待っている。片や俺には孤独な老後が。

 そうやって何十人もの生徒を見送ってきた。これでいいんだ、これで…。俺は何度も何度も自分に言い聞かせた。


 十二月二十五日。俺は遅くまで残っていた。

 夜の八時を回って帰ろうと身支度を始めた。

 今日はクリスマスか。ま、俺にとっては何の変哲もない一日だ。しかし一年に一度のことだ、コンビニでチキンでも買って帰ろう。そしていつものようにラーメンとチキンで一人クリスマス会だ。

 そんなことを考えながら駐車場までやって来て、俺は目を疑った。

 伊藤が、俺の車の前に立っていた。

「先生。」

「…何やってんだ、お前。」

「先生、待ってた。」

 何時間待っていたのだろう。寒そうにぶるぶる震えている。

「ばか、こんな時間まで…この前みたいに、襲われるぞ!」

 俺は少し語気を荒げて言った。

「いいの。」

「いいわけあるか!」

「いいの。」

 いつか見た、泣き出しそうな瞳で俺を見つめた。

「先生に、会えるなら。」

「はあ?」

 何が言いたい。投げやりなその態度に説教をしようと一歩近づいたその時。

「先生に、会いたかったの。」

「?」

「先生。」

 彼女は深呼吸をして一言、

「…私、先生のことが好きなの。」

と言った。

 俺は今度は耳を疑った。

「な…に言ってんだ、お前。」

「先生が好きなの。」

 伊藤はその場を動かない。自分も動けなかった。

 空風が吹いた。彼女の髪が揺れた。

「先生。」

 彼女が俺を呼ぶ。

「何言ってんだ、大人をからかうな。」

 鼻で笑い、俺はそう返事をするのが精一杯だった。

「からかってなんかない。」

 真剣なその様子に俺は動揺した。彼女はその双眸から涙を流した。

「先生が好きなの。」

「そんなわけあるか。」

「あるの。」

「…俺は教師だぞ。」

「知ってる。」

「お前といくつ違うと思ってんだ。」

「わかってる。」

「お前は…。」

「わかってる!」

 伊藤が叫んだ。

「わかってる!知ってるの!でも好きなの!」

「教師でもおじさんでも、足が短くったって臭くったって先生が好きなの!」

 …そこまでいうか、と思ったがそれどころではない。伊藤はその場で地団駄を踏み、また叫びだしそうだったので俺は慌てて近寄った。

「…わかったから、泣くな。」

「本当?」

「わかってる。お前たちは若い。年上の男を好きになることなんか、一種の熱病みたいなもんだ。」

「わかってない!」

 彼女はまた悲鳴を上げた。こんなところ他の職員に見られたら事だ。

 しかしどう声をかけたら彼女が泣き止むのかわからなかった。仕方なく、

「わかったから、頼むから泣くな。送ってやるから。」

 そういうと伊藤はピタッと泣き止み、

「本当?」

「ほら、早く乗ってしまえ。誰かに見られないうちに──。」

 俺は彼女を助手席に押し込むと、誰も見ていないのを確認して学校を出た。


 そのまま伊藤を家まで送り届け、自宅に戻った。

「先生、また会えるよね?」

「なんで。」

「どこにも行かないよね?」

「行くわけないだろ。」

「約束ね。」

「約束?」

「冬休み明けたら、また会う約束。」

「…わかったよ。」

 確かに可愛いとは思う。

 自分を好きになってくれて嬉しいとも思う。

 だけど越えてはならない一線がある。俺はその一線を越える勇気は持ち合わせていない。手なんか出してみろ、一生日陰者だ。

 冬休みでよかった、明日からどんな顔をして学校に行けばいいかわからなかったから。

 彼女にも言ったように、少女の病気みたいなものだ。休みが明けたらすっかり忘れて先生~なんて寄ってくるのかもしれない。

 そう願いながらでもどこか寂しい気持ちを残しながら、俺は布団に入った。

 

 年が明けて、母親がうるさいので実家に行った。

 兄弟家族が来ていた。中学生の姪に会って、俺は改めて自覚した。

 ──伊藤もこの子とほんの五歳ほどしか変わらない。俺は、こんな年端もいかない子供とどうとか考えているのか。来て、会ってよかった。自分の立場をもう一度見つめ直すことができたから。

 姪は携帯電話でピコピコ遊んでいる。その幼さが、俺の目に焼き付いた。俺には、できない。

 自分が抱えているのは女性としての愛情じゃない、教え子としての愛情だ。

 伊藤の、

『先生が好きなの。』

という台詞を思い出した。

 俺に無関心な姪とは対象的な伊藤の態度。一体彼女は俺に何を求めているんだろう。

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