二
しかし、学校がそれを許さなかった。
俺たちが毎日遅くまで勉強していることを、他の教師が見ていた。
その姿が異常に見えたらしく、俺はある日教頭に口頭注意された。
「あまり特定の生徒と親しくしすぎないように。」
俺は素直にはい、と言うしかなかった。
確かに毎日はいきすぎだったかもしれん。しかも女生徒と、二人きりで。
このことを彼女にどう切り出そうか考えた。
その日も伊藤はやって来て、隣の席で教科書を広げた。
懸命に問題と戦うこの子は可愛い。だけどこれ以上、もうこれ以上一緒にいてはいけないんだ。
しばらくして、俺は口を開いた。
「伊藤。」
「なあに?」
「先生な、怒られたんだ。」
「誰に?」
「教頭先生。」
「どうして?」
伊藤にとって俺はどういう存在なんだろう。どうして俺に拘るのだろう。
だが俺が考えているような邪な気持ちはないはずだ。こんなオヤジになんて興味はないだろう。何となく暇つぶしの相手を探していて、それがたまたま俺だっただけだ──。
「お前と、もう勉強会はできない。」
伊藤の顔から笑顔が消えた。両手をぎゅっと握った。
「どうして!」
彼女が激昂するのを見て戸惑った。なぜそんなに怒る?何が逆鱗に触れた?怒っているのに、泣き出しそうな表情だ。
「もう無理なんだ。」
伊藤から目を逸らした。まともに顔を見ていられなかった。
「これ以上は、無理なんだ。」
そう言った途端、俺の教科書が飛んできた。
「…先生の、バカっ!」
伊藤はざっと荷物をかき集めると、その場から走り去っていった。褒められた時と同じ、頬を真っ赤に染めて。
俺は驚いた。
自分の言葉にこれほど傷つく人を見るのは初めてだった。
そうだ、傷つけてしまった。
せっかく自分を慕ってくれたのに、そんな生徒を邪険にした。もっと言葉を選ぶべきだった。相手は女の子なのだから…。
俺は唇を噛んだ。激しい後悔の念に襲われた。
それから彼女は俺の元に現れることはなくなった。
俺たちの逢瀬は呆気なく終わった。侘しさだけが俺の心の中に残った。
「先生。」
そう呼ばれて、どきりとする自分がいた。その声の主が伊藤でないことに、ほっとするような寂しいような気持ちになる。
俺は生徒たちから見て、おそらく空気のような存在だ。厳しくもうるさくもないが、かといって友人のように交わるわけでもない。
ただ、授業を習うだけの人間。授業が終われば、ここから卒業すれば忘れてしまう、そんな存在。
それでいいはずだった。生徒なんてそんなもんだと思っていた。だから彼女が…伊藤が慕ってくれて、俺は嬉しかった。自分を真っ直ぐに見つめてくれるその瞳が俺にとって貴重な、大切な存在だった。そのことに俺は彼女を傷つけてしまってから気付いた。
しかし気付いたところでどうにもならない。立場が違いすぎる。
俺はすべてを、見ないふりすることしかできなかった。
冬休みに入り、生徒の姿を校内で見かけることが少なくなった。
時々クラブ中の生徒が職員室を出入りしたが、伊藤が現れるわけがなかった。
彼女は三年生。受験だ。三月で巣立っていく。俺たちは二度と会わなくなる。彼女には明るい未来が待っている。片や俺には孤独な老後が。
そうやって何十人もの生徒を見送ってきた。これでいいんだ、これで…。俺は何度も何度も自分に言い聞かせた。
十二月二十五日。俺は遅くまで残っていた。
夜の八時を回って帰ろうと身支度を始めた。
今日はクリスマスか。ま、俺にとっては何の変哲もない一日だ。しかし一年に一度のことだ、コンビニでチキンでも買って帰ろう。そしていつものようにラーメンとチキンで一人クリスマス会だ。
そんなことを考えながら駐車場までやって来て、俺は目を疑った。
伊藤が、俺の車の前に立っていた。
「先生。」
「…何やってんだ、お前。」
「先生、待ってた。」
何時間待っていたのだろう。寒そうにぶるぶる震えている。
「ばか、こんな時間まで…この前みたいに、襲われるぞ!」
俺は少し語気を荒げて言った。
「いいの。」
「いいわけあるか!」
「いいの。」
いつか見た、泣き出しそうな瞳で俺を見つめた。
「先生に、会えるなら。」
「はあ?」
何が言いたい。投げやりなその態度に説教をしようと一歩近づいたその時。
「先生に、会いたかったの。」
「?」
「先生。」
彼女は深呼吸をして一言、
「…私、先生のことが好きなの。」
と言った。
俺は今度は耳を疑った。
「な…に言ってんだ、お前。」
「先生が好きなの。」
伊藤はその場を動かない。自分も動けなかった。
空風が吹いた。彼女の髪が揺れた。
「先生。」
彼女が俺を呼ぶ。
「何言ってんだ、大人をからかうな。」
鼻で笑い、俺はそう返事をするのが精一杯だった。
「からかってなんかない。」
真剣なその様子に俺は動揺した。彼女はその双眸から涙を流した。
「先生が好きなの。」
「そんなわけあるか。」
「あるの。」
「…俺は教師だぞ。」
「知ってる。」
「お前といくつ違うと思ってんだ。」
「わかってる。」
「お前は…。」
「わかってる!」
伊藤が叫んだ。
「わかってる!知ってるの!でも好きなの!」
「教師でもおじさんでも、足が短くったって臭くったって先生が好きなの!」
…そこまでいうか、と思ったがそれどころではない。伊藤はその場で地団駄を踏み、また叫びだしそうだったので俺は慌てて近寄った。
「…わかったから、泣くな。」
「本当?」
「わかってる。お前たちは若い。年上の男を好きになることなんか、一種の熱病みたいなもんだ。」
「わかってない!」
彼女はまた悲鳴を上げた。こんなところ他の職員に見られたら事だ。
しかしどう声をかけたら彼女が泣き止むのかわからなかった。仕方なく、
「わかったから、頼むから泣くな。送ってやるから。」
そういうと伊藤はピタッと泣き止み、
「本当?」
「ほら、早く乗ってしまえ。誰かに見られないうちに──。」
俺は彼女を助手席に押し込むと、誰も見ていないのを確認して学校を出た。
そのまま伊藤を家まで送り届け、自宅に戻った。
「先生、また会えるよね?」
「なんで。」
「どこにも行かないよね?」
「行くわけないだろ。」
「約束ね。」
「約束?」
「冬休み明けたら、また会う約束。」
「…わかったよ。」
確かに可愛いとは思う。
自分を好きになってくれて嬉しいとも思う。
だけど越えてはならない一線がある。俺はその一線を越える勇気は持ち合わせていない。手なんか出してみろ、一生日陰者だ。
冬休みでよかった、明日からどんな顔をして学校に行けばいいかわからなかったから。
彼女にも言ったように、少女の病気みたいなものだ。休みが明けたらすっかり忘れて先生~なんて寄ってくるのかもしれない。
そう願いながらでもどこか寂しい気持ちを残しながら、俺は布団に入った。
年が明けて、母親がうるさいので実家に行った。
兄弟家族が来ていた。中学生の姪に会って、俺は改めて自覚した。
──伊藤もこの子とほんの五歳ほどしか変わらない。俺は、こんな年端もいかない子供とどうとか考えているのか。来て、会ってよかった。自分の立場をもう一度見つめ直すことができたから。
姪は携帯電話でピコピコ遊んでいる。その幼さが、俺の目に焼き付いた。俺には、できない。
自分が抱えているのは女性としての愛情じゃない、教え子としての愛情だ。
伊藤の、
『先生が好きなの。』
という台詞を思い出した。
俺に無関心な姪とは対象的な伊藤の態度。一体彼女は俺に何を求めているんだろう。