一
仕事場からの帰り道。出てすぐだった。
路上で揉み合う男と女。女のほうがかなり抵抗しているので、俺は何事だと車を降りた。
「おい、何やってんだ。」
大きな声で呼びかけると、男は慌てて走り去っていった。
安心したのか、女がその場に座り込んだ。
路上強盗か?それとも変態か?
俺はその女の子に近づいて気付いた。
俺の勤める高校の制服を着ている。顔を確かめると、去年教科担任を務めた生徒だった。
「大丈夫か?何かされたか?」
彼女が俺を見上げた。瞳が潤んでいる。
「先生…。」
「警察呼ぶか?」
俺も隣にしゃがんだ。車のライトが二人を照らす。
「大丈夫…びっくりしただけ…。」
「何があった?」
「道を、聞かれたの。そしたら急に腕を掴まれて…。」
「見せてみろ。」
彼女の制服の袖を軽く捲り、腕を確認した。
「何ともなってない。ちょっと赤いかもな。」
俺はそう言って彼女の目を見た。彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「先生…。」
「お前、こんな遅くまで何やってたんだ?早く帰れよ。」
俺の台詞にも、彼女は動かない。腰が抜けてしまったのだろうか?
いや、女の子だもんな。怖い目に合ってすぐには立ち上がれないか。
俺は仕方がないと、
「送ってやるよ。車に乗れ。」
と、彼女を無理矢理立たせた。彼女がよろよろと立ち上がった。
助手席に乗るのを見届けると、自分も運転席の扉を開けた。
「家どっちだ?」
「〇☓町。」
「電車通学か。」
「うん。」
静かに車を出した。
沈黙が流れる。二人の間でラジオだけが一人話をしていた。
しばらくして、〇☓町に入った。
「どの辺だ?」
「もう少し、先。」
暗闇を走った。彼女が右だというのでその通り曲がった。
そこで初めて、彼女から俺に話しかけられた。
「先生。」
「なんだ。」
「…先生、結婚しないの?」
「うーん…相手がいればな。」
そう返事をした。
「相手、いないの?」
「今はいないなあ。」
「先生いくつだっけ。」
「三十八。…っていいだろ、俺のことは。」
自分のことを聞かれるのは苦手だ。特に、女性関係は。しかも、生徒相手に。
三十八にもなって独り者で、相手すらいないなんて言いたくなかったが、嘘をつくのも嫌だった。
きっと明日には同級生に報告して、俺を陰でクスクスと笑うんだろう。
まあ仕方がない。しばらくすれば飽きるだろう。思春期特有の病気だ。十数年教師をやっているので、子供のことはよくわかっているつもりだ。
だけど彼女は──この伊藤という生徒は──俺のことを馬鹿にしたような態度はとらなかった。大概の生徒は、いい年して女もいない俺をコケにしそうなものだが。
伊藤はただ、
「いないのかあ…。」
と呟いてまた黙った。
何が聞きたかったのか知らないが、まあいい。
俺は彼女を家まで送り届け、自分も自宅アパートに戻った。
ラーメンに簡単なものを作り、食った。
くだらないテレビ番組を見ながら、今日のことを考えた。
──伊藤の奴、あんな時間まで何やってたんだ。電車の時間もあるのに。友達や彼氏の家にでもいたのか?…いや、彼氏だったら駅まで送っていくくらいはするだろう。外灯があるとはいえ、この季節はすぐに日が暮れる。
…友達の家で試験勉強でもしてたかな。そんなところだろう。
しかしあんな時間まで帰らなければ家族は心配するだろう。今度会ったらよく言って聞かせないとな。
俺は、ライトで照らされた伊藤の赤く染まった頬と細い腕の感触を思い出した。
そうだ、もうすぐ中間テストだ。どんな問題を出題しようか。
俺の頭の中はそちらに逸れていった。
翌日学校へ行ったが、誰も俺を見て笑いはしなかった。
伊藤は誰にも俺の事話してないのかな。そんなもんか。あの年頃の女の子にとってあんな話は瑣末なものだろう。もう今日には忘れているはずだ。自意識過剰だったかな。
三時間目が終わった休憩時間。俺は次の授業の用意をしていた。
不意に後ろから、
「先生。」
と呼ばれて振り返った。
伊藤が立っていた。
「?どうした。」
彼女はこちらを上目づかいで見ると、
「…先生、昨日はありがとう。」
と言って笑った。
「なんだ、そんなこと言いに来たのか。」
「うん。」
「そんなこと気にするな。それより友達の家に行くのもいいが、あんまり遅くなるなよ。親御さんも心配するだろ。」
俺が言うと、
「…友達の家じゃ、ないよ。」
「なんだ、男のところか。」
その言葉に伊藤の表情が変わった。
「…彼氏なんて、いないよ。」
どうしてそこで怒るのかわからなかった。友達に指摘されて腹を立てるのならわかるが、俺にそんなことを八つ当たりされても困る。
「だったらどうしてあんな時間にあんなところに一人でいたんだ。危ないだろう。」
伊藤が周りを目だけで見た。他の職員が慌ただしく次の準備をしている。
「…別に、理由なんてない。」
「?」
伊藤はそう言ってぷいっと職員室から出て行った。
「?」
女ってものは何を考えているのかさっぱりわからない。
とにかくもう、危ない目に合ってほしくなかった。
だがへそを曲げたはずの彼女は、次の日から毎日放課後俺に会いに来た。
「先生、勉強教えて。」
「先生、聞きたいところがあるの。」
「先生、質問していい?」
なぜ俺なのかわからなかった。俺はもう彼女の教科担任ではない。今は確か女性教師に習っているはずだ。どうして安心できる女同士でなく俺のところに来る?全く理解できない。
それでも俺は自分を慕って?くる以上、無下にはできなかった。
土日以外のほぼ毎日、彼女と過ごすようになった。
「ここわかんない。」
「ここはだからXが…。」
「わかんないよ。」
「お前なあ。そんなので進学どうするんだ。」
「私、文系だもん。数学関係ないもん。」
なのになぜ毎日ここに来る。尋ねたかったがおそらく今、テスト前だけだろう──そう思った。テストが終わればこの子の気も済むだろう。少々面倒だがそれまで付き合ってやるか。子供の気まぐれに。
「…ここは…こう?」
「そうそう。じゃ、どうなる?」
「ええと…こんな感じ。」
「そうそう。やればできるじゃないか。」
俺は軽く伊藤の頭に触れた。褒められたからか、彼女は頬を赤らめて喜んだ。
この子を初めて、可愛らしく思った。生徒としてじゃなく、女の子として。
だがすぐに頭から追い払った。
伊藤は生徒だ。教え子だ。一方、俺は教師。関係を持つわけにはいかない。
そうじゃない、俺はただ子供の身勝手に付き合わされているだけだ。こんな娘が俺なんか眼中にあるわけない。一人勘違いしてはいけない──。
いくら女に飢えてるとはいえ、こんな子供に手を出すわけにいくか。
だけど俺はこの毎日をだんだんと楽しむようになっていった。
放課後、授業が終わると伊藤はひょっこり顔を出す。
俺の隣の席に座り、数時間を過ごす。
褒めてやるとほっぺたを赤く染めて喜ぶ。
テストが終われば来なくなると思ったが、伊藤はテストが終わっても俺に会いに来た。
なぜなのか理解できないが、それを口にしてはいけないような気がした。
そうしてしまうとこの関係が終わってしまうのではないか──俺はいつしかそれを恐れるようになった。