3つの袋
おれは、結露した窓を横目に、布団から出た。
洗面所で顔を洗いながら寝癖を直していた。
歯をみがきながら小便を済ませた。
風呂とトイレと洗面所が一緒になった、いわゆるユニットバス。
世の中にはユニットバスを嫌い、ユニットバスでないことを部屋探しの条件に入れる女の子も多いという。
おれはユニットバスの恩恵を大いに受けさせてもらう・・・
そのとき、テレビから占いの音が聞こえた。
まずい!
おれは、急いでネクタイをしめて、コートを羽織り、カバンを抱えた。狭いワンルームの恩恵を感じながら、なんとか占いが終わるまでには家を出た。
冬の朝はつらい。
布団から出る瞬間と、玄関から出た瞬間がつらい。
コンビニを素通りし、駅までの一直線の道を歩く。駅徒歩5分という好立地ではあるが、寒さを感じるには充分だ。
そこそこの満員電車に乗り込みおれは昨日の夢を思い出していた。
夏、海、スピーチ・・・
夢の中で何度も練り直し、予行演習もしたおれにとってスピーチについて恐れることは何ひとつなかった。
睡眠時間を削らず、電車の中で考えることもせず、ただ夢の中で練習するだけで、おれは本番に臨むことができる。
思えば、今まで何度もこんなことをしてきた。夢の中でトレーニングを積むという、意味があるのかないのか分からない行為なのだが、効果は抜群なのである。経験上、夢の中で1時間過ごしても、現実世界では1分も経っていないことが多い。夢の中でのイメージトレーニングは、時間の効率的な使い方でもあるのだ。
「すみません!降ります!」
ホームの風が冷たい。おれは足を早めた。
◇
おれは放心状態だった。
デスクから立ち上がり足早に喫煙所へと向かった。
「おい東野、さっきのスピーチは何だ!」
課長だ。白髪交じりの40歳代のおっさんだが、目はつぶらだし、声はとてもかっこいい。基本的には渋いおっさんなのだが、背中がしわだらけなのが残念だ。笑みを浮かべているのをみると、さっきのふがいないスピーチに対して嫌味を言われるのだろう。
「最後グダグダだったなー。あ、火ある?」
来た。やはり、嫌味を言いにきたのだ。
「営業には3つの袋がある・・・東野がスピーチでそう言い出したときは驚いたよ。」
それ以上言わないでくれ。
そうだ。おれは朝礼のスピーチでスベったのだ。朝から出鼻をくじかれたおれは、喫煙所に逃げ込んだのだった。それを見透かしている課長はさらに続けた。
「胃袋と給料袋とあと何だっけな?」
「・・・堪忍袋ですよ。」
「最後の締めの部分はどうしたんだ?」
「・・・うまいオチを思いついてたんですけど、ど忘れしちゃったんです。あれさえ出てこれば面白くできたんですけどね。」
そう、おれはあれだけ練った完璧なネタをど忘れしてしまったのだ。営業で大切な3つの袋を意気揚々と語り出したおれだったが、最後の面白い締めの言葉がどうしても出てこなかった。夢の中で確かにメモしていたのに・・・。
「まあ、次は頑張れよ。」
そう言って課長はタバコを消した。
おれは課長が戻るのを確認してから、二本目のタバコをくわえた。ライターを探すが見つからない。
おれは、ポケットの位置を決めている。携帯電話はズボンの左前。財布は右後ろ。右前には定期入れ。上着の胸ポケットにはメモ帳とペン、上着の外ポケットにはタバコとライター。そこにあるはずのライターがない。
課長が持っていっちゃったのかとも考えながら、ポケットを順に探る。上着の外ポケット、シャツの胸ポケット、ズボンの左前、右前、右後ろ、そしてめったに使わないズボンの左後ろポケット。
!!(クシャッ)
ん!?
めったに使わないズボンの左後ろポケットの中で折り曲がった紙切れの感触が。レシートか何かだと思いながら、それを取り出して手の上で広げてみた。
おれは言葉を失った。
深呼吸して、ゆっくり読み直してみた。紙切れにはこう書いてあった。
『営業の大事な袋・・・胃袋、堪忍袋、給料袋。それぞれ健康維持、感情コントロール、お金の管理を指す。袋は大事ですが、袋叩きと袋小路は嫌ですね(オチ)』
・・・!!!
昨夜考えていたオチはこんなくだらないのか!これが深夜の魔力というやつか。朝読んでみると破壊的にくだらない。実際にスピーチで言わなくてよかった。
・・・違う!驚くべきところはそこではない。これは夢の中で書いたメモだ!
おれは火の着いていないタバコを箱に戻し、走りだした。
つづく