【1章・anesthesia】
煙だ。白煙が密集し立ち昇っていた。風に乗せられてくる焦げた臭いが鼻孔を突く。全身の感覚が自分の手から放れたように触れられないように、痺れて定まらない。麻痺した感覚の底から少しずつ現実感が浮かび上がってくる。
見えない針と糸で縫いつけられたように顔の筋肉は動かない。
目の前で横転したトラックはひしゃげた身体から悲鳴を上げていた。衝突したコンクリートの壁は少しばかりの跡を残しながら砕け散っている。
踏み出そうとした足元から破片が割れる音がした。目の前の光景に吸い寄せられてゆっくり歩き出す。全身の虚脱感はそれを押しとどめようと形だけの努力をする。
あぁ、そうか。事故が起きたんだ。
後ろから轟音と共に迫ってきたトラックが私の側をはね飛ばし目の前で壁に突っ込んで横転した。咄嗟に避けた私の目の前で無惨な物となっていた。焦げた臭いが漏れだし轟音は静寂に変わる。
脳がようやく感覚を取り戻し警報を鳴らす。アドレナリンが踊り出す。
ようやく現実の光景がちゃんとした物に変わり始める。
「葵……?」
横にいた友人の名前を呼ぶ。そこにいた筈の友人の姿を探す。
現実が戻ってくる。正常な思考回路が繋がりだす。目の前で凄惨な姿で倒れている少女が、探していた人物だと。
重い下半身を引きずりながらゆっくりと葵の元へ近付く。手を触れようとしたが、触れる直前に手が拒絶する。
全身に被った血はまだ乾く気配はなく、髪の毛の端からは地面にゆっくりと一滴ずつ垂れていた。半開きの唇は切れてひび割れに血が染み込んでいく。ねじ曲がった腕。
「なんで、なんでよ。こんな」
こんなの分からない、理解できない、認められるわけがない。死ぬのなんて、葵が死ぬなんて認められるわけがない。
視界が揺れる。脳が浮かび上がるようなぼうっとした感覚に捕らわれる。目の前で瀕死の葵の姿への拒絶感が自分の中から、嘔吐と同じ感覚で昇ってくる。どこから自分の身体かの境界線が滲んでくる。
「こんなのわけわかんないよ!」
叫びが空しく響いた。その声が空気を震わせてその振動した目の前の色が変わる。細かな光の粒子が立ち昇り互いに近付き合いもつれ縦に延びていく。光の粒子は徐々に回転し一纏まりになっていく。それに誘われるように手を伸ばす。粒子に近付けた指の先に温かい温度を感じる。光の粒子は段々と結合し何かの形へと変わっていく。指の先からゆっくりとそれを掴む。
手に握られたのは鍵だった。
《エヴェレットの鍵》ー作者 さたけー
【1章・anesthesia】
友達の葵と水族館に遊びに行った帰り道、駅で葵と別れて一人歩いていると携帯電話の電源が切れていることに、千果は気付いた。電源を入れ直そうとすると、充電して下さい、とのメッセージが表示される。水族館ではしゃいで写真を撮りすぎたせいだと思い出した。
溜め息と握り締めた携帯をポッケに突っ込むと千果は歩むスピードを上げた。
二年前から始まった区画整理によって高層ビルの建設ラッシュが始まったこの辺りは、駅から家までの近道だった。密集した高層ビルに遮られ夕方近くになると道は深い暗闇に呑まれてしまう。工事が終わると辺りは静まり返り人通りも少ないために怖くもある。
その道を千果は黙々と歩く。遊び疲れきった重たい足を奮い立たせながらバスを選択しなかった自分を少し恨んだ。いいや、たかが200円というべきでなく、200円もするバスなのだ。今日散財をしてしまった以上、節約できるところはしなくては。
そこまで考えて千果は足を止めた。目の前というには少し遠い位置。影が差し街灯だけが頼りの薄暗い中でもはっきりと顔が見える位の距離。そこに女性が一人立っていた。
大学生くらいだろうか。
赤い眼鏡をかけ長い黒髪を後ろで束ねポニーテールにしている。彼女の両手には鈍い鋼色の長い何かーー千果はそこで気付いた。彼女が手にしてるのは銃だ。両手に手にした二丁の狙撃銃、長い鋼色の銃身の先を力なく地面に向けたまま少女は千果へと歩み寄ってくる。
綺麗な女性だという感想が拍子抜けのように浮かんだ。
「雲雀丘 千果で間違いないでしょうか」
「え、は、はい」
自分のフルネームを見知らぬ女性に言い当てられて千果は少し動揺する。真っ直ぐに澄んだ瞳に見通されて近付いてくる彼女から目が離せなかった。
彼女の白い手がゆっくりと持ち上がり鋼色の銃身がゆったりと鎌首を持ち上げ、重厚の黒い淵が千果の視線を釘付けにする。
「私と一緒に来ていただけますか、雲雀丘千果」
「わ、私がですか?」
銃口を向けられたままそんな質問がされたら拒否なんて出来ようはずがなかった。彼女が何者かも分からない。彼女に誘拐?をされる覚えもない。ただ、一つ言えるのは非常に厄介で危険な問題がほぼ確定した未来として千果の頭上に降りかかってきているという事だった。
「なんで、私が、それにあなたは誰なんですか」
その質問に反応した彼女の顔が歪んだ。見ているものが千果ではなく、その奥だと気付いて千果は後ろへ振り返る。
「その答えは是非、由梨乃にも聞かせて欲しいなぁ」
そう笑う別の女性が千果の後ろに居た。焦げ茶で染めたセミロングの髪は毛先まで綺麗にパーマがかけられている。その女性、自分のことを由梨乃と呼んでいた女性は髪を指先に絡ませいじりながら、千果に銃口を向けたまま動かず視線だけを這わせている女性に向かって歩み寄る。
「由梨乃も混ぜて欲しいなぁ」
「あなたは……」
千果に向いていた銃口は、由梨乃に向いた。由梨乃はそれに動じず歩みを止めない。ゆっくりと由梨乃が背に隠していた長い棒を取り出す。棒の先には丸みを帯びた半月状のパーツが取り付けられていた。柄が随分と長い貧相な鎌に見えた。
それを勢い良く由梨乃は振り回す。熱い鉄を水にぶつけた時のような短い摩擦音がしてその鎌の頭から激しい閃光が迸る。光が凝固し弧を描き形作る。
鎌だった。巨大な閃光の刃を携えた鎌。その刃はゆっくりと動く紋様を表面に湛えていた。
その巨大な鎌を背に担ぐように由梨乃は構える。そして笑顔を作った。
「魔女狩りっていえば通じるかなぁ、椎名はるか?」